日本に最も激動があった年とも言える1998年7月3日。ここに一人の赤ん坊が産声を上げた。生まれたのは3000gより小さい男の子。
「水瀬さ〜ん?」
病院のベットに横たわるのは産後の体力低下から目覚めた母親の水瀬千草(当時16)。男の子の父親はいない。それに母親の千草は16歳ということは高校1年生か?
「水瀬さんの赤ちゃん!お疲れ様です」
「ありがとうございます…」
16歳でまだ成長過程にいるのに私は子供を産む選択をした…それでも私は強く生きてこの子を育てていきたい!
「千草!」
「千草…」
「パパ、ママ…?」
千草の両親もまだ若い。父43歳で母は41歳。若くして祖父母になった。可愛い初孫ができたと喜びの感情の反面、憎悪の感情が入り交じる。何故なら、子供の父親は未だ逃亡中の強姦魔であるからだ。それでも生まれてきた子供に罪はない。これからは娘と孫を守っていくんだ。
「名前は何にするんだ?」
「そうそう!名前何にするの!?」
名付けるのは自分じゃないのに名付けについて意気揚々な祖父母。16歳の娘は一体どんな名前を付けるのだろうか?
「もう前々から決めてるわ…」
「本当に?」
「マジか?全然話なかったから意外だな?何にした?」
「この子の名前は…幸人(ユキヒト)よ…」
「ユキヒト?字は幸せに人か?いいじゃないか?」
「えっ!メッチャいいじゃん!幸人!」
名前の由来は「どんな逆境でも幸せな人になってほしい。永遠に幸ある人になってほしい」。彼女は出生届に"水瀬 幸人"と記入していた。母水瀬千草、父親の名前は空欄。父親にあたる津島修太という男は、現在逃亡中の強姦魔だ…血の繋がった父親なのは間違いないが、幸人の母親は私…私が絶対この子を一人前に育てる。
若き母親から生まれた男の子、水瀬幸人。それは即ち、悪魔の誕生であることを意味していた…
2000年12月。2歳5ヶ月になった幸人だが、母はあることを心配していた。
「…あ〜…あ…」
何と生まれてから今に至るまで喋り出していないどころか、物に掴まらないと立てない状態だった。勿論歩き始めてもいない。大体遅くても2歳になる頃には歩き始めるはずなのに流石に遅い…母は心配でいっぱいになる。それでも根気強く待っていたら年が明ける前に歩き始め、ようやく
「ママ…?」
「えっ…幸人…今何て!?」
「ママ…ママ…きゃきゃ…!」
「幸人!」
ギュッ!
初めて喋った言葉が自分を指す「ママ」。信じていれば奇跡は起きるんだ。嬉しさのあまり抱き締める。実は生まれ付き彼はASDを持っており、喋り始めるのが遅かった原因もそれに起因していると思われる。幸いなことに食べ物の好き嫌いもなく食べることに関しては一切困ることはなかったが、こんなエピソードも…
ピリピリ…
彼はキャラクターの顔の形をしたラムネが好きだった。口に入れてポリポリ噛んでいると母がからかって
「痛い…痛い…」
と小さな声で言うと
ペッ…ペッ…
何とラムネを口から出したのだ。
「ごめんね…!ラムネ食べていいみたいだよ!」
吐き出したラムネは流石に捨てたがそのまま残っていたラムネを完食。まだ小さいのに痛みがわかるんだ…将来はきっと優しい子に育つ。そう信じて疑わなかった。
2001年3月。千草は病院の調理補助の仕事を始め、仕事と家事を両親の協力を得ながら両立させていた。この日はまだ寒さが残る公園を2人で歩いていた。
「幸人!何して遊ぼっか?」
「僕はママとお話したいです…」
「…」
公園に連れて行ったり、絵本を読み聞かせても中々興味を示してくれない。それに母親の自分に敬語を使うのも気になる。おそらく自分が好きなドラマの主人公が敬語で話しているため、一緒に観た際に真似たのだろう。
「わかったわ…でもお外寒いから買い物行ってからママといっぱいお話しよっか!」
「はい!」
子供は何に興味を持つかわからない。今はこの子に任せてみよう。手を繋いで近所のスーパーへ買い出しに行こうとしたら
コツコツ…
「ちょっとすいません!」
「はい…?(何で警察が?)」
彼女たちの前に現れたのは警察手帳を見せる刑事と制服を着た若手の警察官。
「水瀬千草さんですね?」
「そうですけど?」
「つい先日起きた殺人事件についてお聞きしたいことがあります。ですがお子さんもご一緒にだと気まずいと思いますので…用が済んだら警察署まで来ていただけませんか?」
突然殺人事件の話を振られてしどろもどろになる。
「勘違いしないでください。私たちは水瀬さんを疑っているわけではありません…!ただ少し協力してほしいんです」
「わかりました…」
彼女はスーパーで買い出しを済ませ、一旦幸人を自宅へ返した後、最寄りの葉琉州警察署を訪れる。通された場所は何と取調室。
「わざわざお呼びして申し訳ありません…改めて失礼します。私坂本義久(59)と申します」
「はい…」
先日起きた殺人事件とは確かとある大学の女子寮で起きた殺人事件。テニスサークルに所属する女子大生4人が殺害された事件で、浴槽で溺死している者、ナイフで刺殺された者。被害者が皆全裸で亡くなっていたという。警察は既に犯人を特定しているようだが、果たしてそれは?
パサッ…
「…!?」
「見覚え…おありですね?」
彼女の全身から鳥肌が立つ。その犯人こそ彼女が15歳のとき、陵辱して妊娠までさせた張本人、津島修太だったからだ!年齢はこのとき23歳。奴は強姦しては殺害しているのだが、被害者全員を殺害しているわけではなく、彼女は奴の毒牙から逃れた数少ない一人。
「水瀬さん…古傷を抉るようで申し訳ありません。ですが奴だけはどうしても逮捕しなければなりません…ほんの少しでも構いませんので、何か思い当たることなんかありませんか?」
そう聞かれても顔を生で見たのは一度だけであとはニュースで見ただけ。息子が生まれてすぐに出生届を出したが、父親の名前を空欄で提出したのは息子の名誉を守るため。だがこんなところで思い出すとは予想だにしていなかった。勿論警察も幸人の父親が津島であることを知らない。おそらく彼女を含めた生存者たちから話を聞いているのだろう。当然このままにして奴を野放しにすることはできない。彼女は15歳のときに陵辱されたこと、そして一緒に連れていた息子の父親であることも洗いざらい話した。当然刑事たちは口をあんぐり空けているが…
「それであなたは高校中退して育てているんですね?」
「はい…」
彼女は将来の夢など特に決めていなかったが、母親になりたいという願望が誰よりも強かった。叶ってしまったのはかなり早かっただけの話。捜査に協力したいと思っても彼女が知っていることは少ない。この日は自分が襲われた出来事を詳細に話して終わり、家に帰った。
だがそれから半年後の9月。事態は思いもよらぬ展開を迎える。
バンッ!
「どういうことですか!?捜査打ち切りなんて!」
「悪いがお上の命令なんだ…今日でこの事件(津島修太による連続強姦事件)は打ち切りだ…」
「そんなバカな…!?」
もう自分は定年近いのに捜査打ち切りなんて信じられない。聞いた話だが津島修太はどこかの重役の息子であるらしく、本人は学生の頃から強姦を繰り返していたが、金の力で揉み消されていた。だがあまりにも繰り返していたことで親から勘当され、息子が起こした事件も知らぬ存ぜぬで通したが、捜査打ち切りの理由は奴らを敵に回したくない理由だ。
カチッ…スゥー…はぁ…
「親父…」
「逸郎…こんな虚しい思いをしたのは初めてだよ」
タバコを深く吸う義久に声を掛けたのは彼の息子、坂本逸郎(当時27)。最近巡査部長になったばかりだ。
ホイ…
「あぁありがとう…」
カチッ…スゥー…
「逸郎…悪いんだが、水瀬さんの家行って今回のこと話してきてくれないか?」
「俺が?水瀬さんって確か…唯一の生存者?」
「まだ19なんだけど3歳の男の子がいるんだ。多分お前の方が話しやすいだろ」
「それはどうかわかんないけど、取り敢えずわかったよ…」
父はタバコを消すと自販機でコーヒーを買ってデスクへ戻った。
1時間後。逸郎は水瀬家を訪れ
「打ち切りですか…!?」
「はい…僕も父も上に直談判したのですが、打ち切り打ち切りだと突っぱねられてしまいまして…」
「あんな奴を野放しにすると判断したんですね?」
「父は定年迎える前に退職して奴の行方を追おうって魂胆です」
「そうですか…」
あんな男を野に放ったままだと被害者は増え続ける。すると
「ママ…!」
「あらごめんね!あっ…息子の幸人です。幸人、こんにちは!って言ってみな」
「こんにちは!」
まるで3歳児とは思えない一礼に驚く。この子の顔は完全に母親似で津島の面影は見受けられない。
「お兄さんのお名前は何ですか?」
「ちょっと幸人…」
「いいんですよ!お兄さんはね、坂本って言うんだ!」
「下のお名前は…」
「し…下の名前?逸郎だよ。坂本逸郎…よろしくね!」
「よろしくお願いします!」
どうやら彼のことを気に入ったようだ。25年後には上司になっていることを知らず(哀しみのオレンジ本編)。報告がてら彼は1時間ほどミニカーで一緒に遊んだ後署に戻る。
バタンッ…
「遅いじゃないか!何してたんだ?」
「ごめん…息子の幸人君が可愛くてつい遊んじまって…」
「幸人君?まぁ確かに目くりくりで可愛いよなぁ…」
義久もあんなに目くりくりで可愛い男の子は見たことない。将来は超絶なイケメンになること間違いなしな顔立ち。
「それに嬉しいこと言ってくれたんだよ…大きくなったら逸郎さんみたいな優しいおまわりさんになります!って…」
「それは将来が楽しみなこった…」
あの子が今警察官だったらな…息子に良いバディができていたかもしれないな。
「親父、本当に辞めちまうのか?」
「あの野郎を世に放てないだろ?だけど、お前は警察を捨てるな…」
「親父…」
逸郎は幼い頃から父の背中を見て育ってきた。警察官として生きる格好良い父が大好きだった。たとえ親父が警察を捨てる選択をしても息子の自分はまだ27歳。叶えた夢は捨てさせたくない…
「それにな…あの幸人君が大きくなって警察官になったら、お前が上司になって幸人君を支えてあげなきゃ…だろ?」
「フン…そうだよな!」
だが僅か2週間後。義久が辞表を出してすぐの頃だった。
「親父!」
「どうしたんだ!?」
逸郎が突然ドアを勢い良く開けて目の色を変えながら息を切らしている。
「津島が…津島…」
「津島がどうしたんだ?」
「さっき…車に轢かれて死んだ…」
「何だと!?」
一体どういうことだ!?報告の第一声は容疑者の訃報。話によると車に轢かれて殺されたらしい。殺されたとはあるがそれが事故なのかそれとも意図的に轢かれたのかはまだ不明。だが坂本親子には思い当たる節がありすぎた。
「まさか…水瀬さんが…?」
「間違いないと思う…両親が殺されて5日しか経ってない。犯人は千草さんだろ…」
「あの人が…何てこった…!」
水瀬千草が津島修太を轢き殺した犯人なのか!?逸郎が防犯カメラの映像が記録されたビデオテープを再生させると
「……」
ピッ…
「ここ…不鮮明であんま見えないけど、この顔は100%千草さんだ…どう見ても明確な殺意持って轢いてる…」
見るに80kmは出ているだろう。車はホンダのストリーム。スピードも勿論だが大きめの普通車で轢かれたのならひとたまりもない。当然津島は即死だった。
「署全体に知らせて水瀬さんを捜すか!?」
「いや待て!」
「何でだよ!?」
「幸人君の父親はただでさえ人殺しなんだぞ!お母さんまで人殺しにしたらあの子は社会から抹消される!」
坂本親子以外の警察は津島修太による一連の事件はそっちのけなため誰も目をつけていないのが幸いだ。
「親父…」
「わかっている…後は俺が何とかする」
警視正として現場で奮闘していた義久が下した決断は警察を捨て、定年前に辞すことは決まっていたが、水瀬千草が起こした轢き逃げ事件を揉み消すこと。話によると幸人は施設に預けられたとあるが、彼の祖父母は既に殺害されていて預けられるはずもない。苦渋の決断だったのだろう。後に義久の根回しによって水瀬千草が犯人である事実は揉み消され、津島修太は犯行現場から逃げた際、国道を走る車に跳ねられた不慮の事故とされた。だが結局千草は息子を迎えに行くことはなく一切行方がわからなくなり、安否すら不明となってしまう。何故愛する息子を迎えに行かなかったのか?どうして行方不明になってしまったのか?津島修太が存在した事実はやがて、幸人を少しずつ悪魔へと変貌させていく…
1週間…
「ママ!今日は何作ってくれるんですか?」
「今日はね…ピーマンのお料理(ピーマンの肉詰め)です!食べられるかなぁ?」
「僕ピーマン大好き!」
「幸人は偉いわね!」
息子は子供が嫌うようなピーマンや玉ねぎが食べられるため作る物に困ることがなくて助かる。好き嫌いがなくて本当に良かった。
息子と手を繋ぎながら右手にはピーマンと挽き肉、ウスターソースなどの調味料が入ったビニール袋を持つ。早く作って早く食べて、早い時間に眠れたらいいな…
「ん…?」
「ママ…?」
家の扉を開けた瞬間、血生臭い匂いが鼻を突き刺す。彼女は靴を履いたままリビングへ上がり…
「ママ…?」
「見ちゃダメ…!」
何てこと…!?パパ…ママ…!?何でこんなことに…
ドサッ…
「ごめんね…今日はピーマンの肉詰め作れない…かも…」
彼女は息子の目を塞ぎながら静かに語る。
「どうしちゃったんですか?僕食べたかったのに…」
「ピーマンの肉詰めはまた今度ね…」
両親が殺害された現場である自宅へは戻ることなどできず、この日は大学生の友人宅へ逃げ込んだ。犯人は絶対に津島修太だ…!おそらく津島はひょんなことから自分が強姦した千草が生き延び、子供まで産んでいたことを知り、事実を抹消しようと襲撃を掛けたが留守で両親を殺害したのだろう。止むを得ず2日間友人宅へ宿泊したが水瀬親子には帰る場所がない。この日も息子が寝静まった後…
「本当ごめんね…」
「それはいいわ…けどこれからどうすんの?匿ってあげたいのは山々だけど、警察だって千草を探してるはずよ」
「この子は一旦施設へ預けるわ…」
「じゃあ千草はどうするの?幸人君だけを預けるんじゃなくて、役場に相談して支援を受けた方が…」
「そういうわけにもいかないの…幸人を施設に預けるけど迎えに行く…やらなきゃいけないことがあるの」
「やらなきゃいけないこと?」
「こっちの話よ…」
警察が津島修太を逮捕しないのなら私が手を下すだけ…彼女には誰も止めることができないような意志が固まっていた。
翌日。
「ママ…どこに行っちゃうんですか…?」
「ごめんね幸人…絶対迎えに行くから…」
「行かないでください…ママ!」
彼女は津島修太をこの手で命を奪う決断をし、息子を人殺しの子にしないために近くの施設へ預けた。
「どうか…息子をお願いします…」
「私たちに任せてください」
彼女は施設の職員が息子を守ってくれると信じていた。だがこのとき彼女はまだ19歳。幸人は3歳で物心つく前だ。彼女の心の天使と悪魔が囁き始める。「警察が逮捕してくれるのを待った方がいい」、「殺したいなら殺してしまえばいいんだよ」…黙れ…!誰も私の邪魔をするな!覚悟ならとっくにできてるんだよ!私が弱かったせいで抵抗できず、幸人を身籠った。だが今の私は強い…私を殺さなかったことを後悔させてやる…!
2日後。津島は生活のために弱そうな女性を狙ってバックや金品などを狙い、ひったくりの犯行に及んでいた。そんな中…
「見付けた…」
路肩駐車するホンダ・ストリームに乗っているのは水瀬千草。静かにエンジンを掛ける…国道に飛び出す瞬間を狙う…果たしてうまくいくか…?
「キャー!?ドロボー…!?」
「…?」
東京の大都会じゃ通行人に危機が迫っても目を向けようとしないか…それでも大声を出した被害者に動揺してとっととずらかろうと国道へ飛び出す…その瞬間!
「ウゥゥ゙…!」
ブーン…!
彼女は急アクセル急発進で津島へ突っ込み…
ガシャーン…!!
「ガァ…!?」
バタンッ…!
「おい人が轢かれたぞ!?誰か救急車!」
彼女は数km走らせて車を乗り捨てると
「はぁ…はぁ…」
バンパーは凹んでいて真新しい血が付着している…私は間違いなく奴を轢き殺した。80kmのスピードで轢いたら誰だってひとたまりもないし肉が弾け飛ぶ感覚がハンドルに伝わっていた…私は19歳で人を殺したんだ…!このまま幸人を迎えに行くことはできない…数ヶ月我慢して事件のほとぼりが冷めた頃まで待とう…だが彼女が思うほど世間は甘くなかった。非情にもこの日が、幸人が28歳、彼女が44歳になる25年後に再会するまで、会話をした最後の日になってしまう…
「水瀬さ〜ん?」
病院のベットに横たわるのは産後の体力低下から目覚めた母親の水瀬千草(当時16)。男の子の父親はいない。それに母親の千草は16歳ということは高校1年生か?
「水瀬さんの赤ちゃん!お疲れ様です」
「ありがとうございます…」
16歳でまだ成長過程にいるのに私は子供を産む選択をした…それでも私は強く生きてこの子を育てていきたい!
「千草!」
「千草…」
「パパ、ママ…?」
千草の両親もまだ若い。父43歳で母は41歳。若くして祖父母になった。可愛い初孫ができたと喜びの感情の反面、憎悪の感情が入り交じる。何故なら、子供の父親は未だ逃亡中の強姦魔であるからだ。それでも生まれてきた子供に罪はない。これからは娘と孫を守っていくんだ。
「名前は何にするんだ?」
「そうそう!名前何にするの!?」
名付けるのは自分じゃないのに名付けについて意気揚々な祖父母。16歳の娘は一体どんな名前を付けるのだろうか?
「もう前々から決めてるわ…」
「本当に?」
「マジか?全然話なかったから意外だな?何にした?」
「この子の名前は…幸人(ユキヒト)よ…」
「ユキヒト?字は幸せに人か?いいじゃないか?」
「えっ!メッチャいいじゃん!幸人!」
名前の由来は「どんな逆境でも幸せな人になってほしい。永遠に幸ある人になってほしい」。彼女は出生届に"水瀬 幸人"と記入していた。母水瀬千草、父親の名前は空欄。父親にあたる津島修太という男は、現在逃亡中の強姦魔だ…血の繋がった父親なのは間違いないが、幸人の母親は私…私が絶対この子を一人前に育てる。
若き母親から生まれた男の子、水瀬幸人。それは即ち、悪魔の誕生であることを意味していた…
2000年12月。2歳5ヶ月になった幸人だが、母はあることを心配していた。
「…あ〜…あ…」
何と生まれてから今に至るまで喋り出していないどころか、物に掴まらないと立てない状態だった。勿論歩き始めてもいない。大体遅くても2歳になる頃には歩き始めるはずなのに流石に遅い…母は心配でいっぱいになる。それでも根気強く待っていたら年が明ける前に歩き始め、ようやく
「ママ…?」
「えっ…幸人…今何て!?」
「ママ…ママ…きゃきゃ…!」
「幸人!」
ギュッ!
初めて喋った言葉が自分を指す「ママ」。信じていれば奇跡は起きるんだ。嬉しさのあまり抱き締める。実は生まれ付き彼はASDを持っており、喋り始めるのが遅かった原因もそれに起因していると思われる。幸いなことに食べ物の好き嫌いもなく食べることに関しては一切困ることはなかったが、こんなエピソードも…
ピリピリ…
彼はキャラクターの顔の形をしたラムネが好きだった。口に入れてポリポリ噛んでいると母がからかって
「痛い…痛い…」
と小さな声で言うと
ペッ…ペッ…
何とラムネを口から出したのだ。
「ごめんね…!ラムネ食べていいみたいだよ!」
吐き出したラムネは流石に捨てたがそのまま残っていたラムネを完食。まだ小さいのに痛みがわかるんだ…将来はきっと優しい子に育つ。そう信じて疑わなかった。
2001年3月。千草は病院の調理補助の仕事を始め、仕事と家事を両親の協力を得ながら両立させていた。この日はまだ寒さが残る公園を2人で歩いていた。
「幸人!何して遊ぼっか?」
「僕はママとお話したいです…」
「…」
公園に連れて行ったり、絵本を読み聞かせても中々興味を示してくれない。それに母親の自分に敬語を使うのも気になる。おそらく自分が好きなドラマの主人公が敬語で話しているため、一緒に観た際に真似たのだろう。
「わかったわ…でもお外寒いから買い物行ってからママといっぱいお話しよっか!」
「はい!」
子供は何に興味を持つかわからない。今はこの子に任せてみよう。手を繋いで近所のスーパーへ買い出しに行こうとしたら
コツコツ…
「ちょっとすいません!」
「はい…?(何で警察が?)」
彼女たちの前に現れたのは警察手帳を見せる刑事と制服を着た若手の警察官。
「水瀬千草さんですね?」
「そうですけど?」
「つい先日起きた殺人事件についてお聞きしたいことがあります。ですがお子さんもご一緒にだと気まずいと思いますので…用が済んだら警察署まで来ていただけませんか?」
突然殺人事件の話を振られてしどろもどろになる。
「勘違いしないでください。私たちは水瀬さんを疑っているわけではありません…!ただ少し協力してほしいんです」
「わかりました…」
彼女はスーパーで買い出しを済ませ、一旦幸人を自宅へ返した後、最寄りの葉琉州警察署を訪れる。通された場所は何と取調室。
「わざわざお呼びして申し訳ありません…改めて失礼します。私坂本義久(59)と申します」
「はい…」
先日起きた殺人事件とは確かとある大学の女子寮で起きた殺人事件。テニスサークルに所属する女子大生4人が殺害された事件で、浴槽で溺死している者、ナイフで刺殺された者。被害者が皆全裸で亡くなっていたという。警察は既に犯人を特定しているようだが、果たしてそれは?
パサッ…
「…!?」
「見覚え…おありですね?」
彼女の全身から鳥肌が立つ。その犯人こそ彼女が15歳のとき、陵辱して妊娠までさせた張本人、津島修太だったからだ!年齢はこのとき23歳。奴は強姦しては殺害しているのだが、被害者全員を殺害しているわけではなく、彼女は奴の毒牙から逃れた数少ない一人。
「水瀬さん…古傷を抉るようで申し訳ありません。ですが奴だけはどうしても逮捕しなければなりません…ほんの少しでも構いませんので、何か思い当たることなんかありませんか?」
そう聞かれても顔を生で見たのは一度だけであとはニュースで見ただけ。息子が生まれてすぐに出生届を出したが、父親の名前を空欄で提出したのは息子の名誉を守るため。だがこんなところで思い出すとは予想だにしていなかった。勿論警察も幸人の父親が津島であることを知らない。おそらく彼女を含めた生存者たちから話を聞いているのだろう。当然このままにして奴を野放しにすることはできない。彼女は15歳のときに陵辱されたこと、そして一緒に連れていた息子の父親であることも洗いざらい話した。当然刑事たちは口をあんぐり空けているが…
「それであなたは高校中退して育てているんですね?」
「はい…」
彼女は将来の夢など特に決めていなかったが、母親になりたいという願望が誰よりも強かった。叶ってしまったのはかなり早かっただけの話。捜査に協力したいと思っても彼女が知っていることは少ない。この日は自分が襲われた出来事を詳細に話して終わり、家に帰った。
だがそれから半年後の9月。事態は思いもよらぬ展開を迎える。
バンッ!
「どういうことですか!?捜査打ち切りなんて!」
「悪いがお上の命令なんだ…今日でこの事件(津島修太による連続強姦事件)は打ち切りだ…」
「そんなバカな…!?」
もう自分は定年近いのに捜査打ち切りなんて信じられない。聞いた話だが津島修太はどこかの重役の息子であるらしく、本人は学生の頃から強姦を繰り返していたが、金の力で揉み消されていた。だがあまりにも繰り返していたことで親から勘当され、息子が起こした事件も知らぬ存ぜぬで通したが、捜査打ち切りの理由は奴らを敵に回したくない理由だ。
カチッ…スゥー…はぁ…
「親父…」
「逸郎…こんな虚しい思いをしたのは初めてだよ」
タバコを深く吸う義久に声を掛けたのは彼の息子、坂本逸郎(当時27)。最近巡査部長になったばかりだ。
ホイ…
「あぁありがとう…」
カチッ…スゥー…
「逸郎…悪いんだが、水瀬さんの家行って今回のこと話してきてくれないか?」
「俺が?水瀬さんって確か…唯一の生存者?」
「まだ19なんだけど3歳の男の子がいるんだ。多分お前の方が話しやすいだろ」
「それはどうかわかんないけど、取り敢えずわかったよ…」
父はタバコを消すと自販機でコーヒーを買ってデスクへ戻った。
1時間後。逸郎は水瀬家を訪れ
「打ち切りですか…!?」
「はい…僕も父も上に直談判したのですが、打ち切り打ち切りだと突っぱねられてしまいまして…」
「あんな奴を野放しにすると判断したんですね?」
「父は定年迎える前に退職して奴の行方を追おうって魂胆です」
「そうですか…」
あんな男を野に放ったままだと被害者は増え続ける。すると
「ママ…!」
「あらごめんね!あっ…息子の幸人です。幸人、こんにちは!って言ってみな」
「こんにちは!」
まるで3歳児とは思えない一礼に驚く。この子の顔は完全に母親似で津島の面影は見受けられない。
「お兄さんのお名前は何ですか?」
「ちょっと幸人…」
「いいんですよ!お兄さんはね、坂本って言うんだ!」
「下のお名前は…」
「し…下の名前?逸郎だよ。坂本逸郎…よろしくね!」
「よろしくお願いします!」
どうやら彼のことを気に入ったようだ。25年後には上司になっていることを知らず(哀しみのオレンジ本編)。報告がてら彼は1時間ほどミニカーで一緒に遊んだ後署に戻る。
バタンッ…
「遅いじゃないか!何してたんだ?」
「ごめん…息子の幸人君が可愛くてつい遊んじまって…」
「幸人君?まぁ確かに目くりくりで可愛いよなぁ…」
義久もあんなに目くりくりで可愛い男の子は見たことない。将来は超絶なイケメンになること間違いなしな顔立ち。
「それに嬉しいこと言ってくれたんだよ…大きくなったら逸郎さんみたいな優しいおまわりさんになります!って…」
「それは将来が楽しみなこった…」
あの子が今警察官だったらな…息子に良いバディができていたかもしれないな。
「親父、本当に辞めちまうのか?」
「あの野郎を世に放てないだろ?だけど、お前は警察を捨てるな…」
「親父…」
逸郎は幼い頃から父の背中を見て育ってきた。警察官として生きる格好良い父が大好きだった。たとえ親父が警察を捨てる選択をしても息子の自分はまだ27歳。叶えた夢は捨てさせたくない…
「それにな…あの幸人君が大きくなって警察官になったら、お前が上司になって幸人君を支えてあげなきゃ…だろ?」
「フン…そうだよな!」
だが僅か2週間後。義久が辞表を出してすぐの頃だった。
「親父!」
「どうしたんだ!?」
逸郎が突然ドアを勢い良く開けて目の色を変えながら息を切らしている。
「津島が…津島…」
「津島がどうしたんだ?」
「さっき…車に轢かれて死んだ…」
「何だと!?」
一体どういうことだ!?報告の第一声は容疑者の訃報。話によると車に轢かれて殺されたらしい。殺されたとはあるがそれが事故なのかそれとも意図的に轢かれたのかはまだ不明。だが坂本親子には思い当たる節がありすぎた。
「まさか…水瀬さんが…?」
「間違いないと思う…両親が殺されて5日しか経ってない。犯人は千草さんだろ…」
「あの人が…何てこった…!」
水瀬千草が津島修太を轢き殺した犯人なのか!?逸郎が防犯カメラの映像が記録されたビデオテープを再生させると
「……」
ピッ…
「ここ…不鮮明であんま見えないけど、この顔は100%千草さんだ…どう見ても明確な殺意持って轢いてる…」
見るに80kmは出ているだろう。車はホンダのストリーム。スピードも勿論だが大きめの普通車で轢かれたのならひとたまりもない。当然津島は即死だった。
「署全体に知らせて水瀬さんを捜すか!?」
「いや待て!」
「何でだよ!?」
「幸人君の父親はただでさえ人殺しなんだぞ!お母さんまで人殺しにしたらあの子は社会から抹消される!」
坂本親子以外の警察は津島修太による一連の事件はそっちのけなため誰も目をつけていないのが幸いだ。
「親父…」
「わかっている…後は俺が何とかする」
警視正として現場で奮闘していた義久が下した決断は警察を捨て、定年前に辞すことは決まっていたが、水瀬千草が起こした轢き逃げ事件を揉み消すこと。話によると幸人は施設に預けられたとあるが、彼の祖父母は既に殺害されていて預けられるはずもない。苦渋の決断だったのだろう。後に義久の根回しによって水瀬千草が犯人である事実は揉み消され、津島修太は犯行現場から逃げた際、国道を走る車に跳ねられた不慮の事故とされた。だが結局千草は息子を迎えに行くことはなく一切行方がわからなくなり、安否すら不明となってしまう。何故愛する息子を迎えに行かなかったのか?どうして行方不明になってしまったのか?津島修太が存在した事実はやがて、幸人を少しずつ悪魔へと変貌させていく…
1週間…
「ママ!今日は何作ってくれるんですか?」
「今日はね…ピーマンのお料理(ピーマンの肉詰め)です!食べられるかなぁ?」
「僕ピーマン大好き!」
「幸人は偉いわね!」
息子は子供が嫌うようなピーマンや玉ねぎが食べられるため作る物に困ることがなくて助かる。好き嫌いがなくて本当に良かった。
息子と手を繋ぎながら右手にはピーマンと挽き肉、ウスターソースなどの調味料が入ったビニール袋を持つ。早く作って早く食べて、早い時間に眠れたらいいな…
「ん…?」
「ママ…?」
家の扉を開けた瞬間、血生臭い匂いが鼻を突き刺す。彼女は靴を履いたままリビングへ上がり…
「ママ…?」
「見ちゃダメ…!」
何てこと…!?パパ…ママ…!?何でこんなことに…
ドサッ…
「ごめんね…今日はピーマンの肉詰め作れない…かも…」
彼女は息子の目を塞ぎながら静かに語る。
「どうしちゃったんですか?僕食べたかったのに…」
「ピーマンの肉詰めはまた今度ね…」
両親が殺害された現場である自宅へは戻ることなどできず、この日は大学生の友人宅へ逃げ込んだ。犯人は絶対に津島修太だ…!おそらく津島はひょんなことから自分が強姦した千草が生き延び、子供まで産んでいたことを知り、事実を抹消しようと襲撃を掛けたが留守で両親を殺害したのだろう。止むを得ず2日間友人宅へ宿泊したが水瀬親子には帰る場所がない。この日も息子が寝静まった後…
「本当ごめんね…」
「それはいいわ…けどこれからどうすんの?匿ってあげたいのは山々だけど、警察だって千草を探してるはずよ」
「この子は一旦施設へ預けるわ…」
「じゃあ千草はどうするの?幸人君だけを預けるんじゃなくて、役場に相談して支援を受けた方が…」
「そういうわけにもいかないの…幸人を施設に預けるけど迎えに行く…やらなきゃいけないことがあるの」
「やらなきゃいけないこと?」
「こっちの話よ…」
警察が津島修太を逮捕しないのなら私が手を下すだけ…彼女には誰も止めることができないような意志が固まっていた。
翌日。
「ママ…どこに行っちゃうんですか…?」
「ごめんね幸人…絶対迎えに行くから…」
「行かないでください…ママ!」
彼女は津島修太をこの手で命を奪う決断をし、息子を人殺しの子にしないために近くの施設へ預けた。
「どうか…息子をお願いします…」
「私たちに任せてください」
彼女は施設の職員が息子を守ってくれると信じていた。だがこのとき彼女はまだ19歳。幸人は3歳で物心つく前だ。彼女の心の天使と悪魔が囁き始める。「警察が逮捕してくれるのを待った方がいい」、「殺したいなら殺してしまえばいいんだよ」…黙れ…!誰も私の邪魔をするな!覚悟ならとっくにできてるんだよ!私が弱かったせいで抵抗できず、幸人を身籠った。だが今の私は強い…私を殺さなかったことを後悔させてやる…!
2日後。津島は生活のために弱そうな女性を狙ってバックや金品などを狙い、ひったくりの犯行に及んでいた。そんな中…
「見付けた…」
路肩駐車するホンダ・ストリームに乗っているのは水瀬千草。静かにエンジンを掛ける…国道に飛び出す瞬間を狙う…果たしてうまくいくか…?
「キャー!?ドロボー…!?」
「…?」
東京の大都会じゃ通行人に危機が迫っても目を向けようとしないか…それでも大声を出した被害者に動揺してとっととずらかろうと国道へ飛び出す…その瞬間!
「ウゥゥ゙…!」
ブーン…!
彼女は急アクセル急発進で津島へ突っ込み…
ガシャーン…!!
「ガァ…!?」
バタンッ…!
「おい人が轢かれたぞ!?誰か救急車!」
彼女は数km走らせて車を乗り捨てると
「はぁ…はぁ…」
バンパーは凹んでいて真新しい血が付着している…私は間違いなく奴を轢き殺した。80kmのスピードで轢いたら誰だってひとたまりもないし肉が弾け飛ぶ感覚がハンドルに伝わっていた…私は19歳で人を殺したんだ…!このまま幸人を迎えに行くことはできない…数ヶ月我慢して事件のほとぼりが冷めた頃まで待とう…だが彼女が思うほど世間は甘くなかった。非情にもこの日が、幸人が28歳、彼女が44歳になる25年後に再会するまで、会話をした最後の日になってしまう…

