推しと清く正しい逢瀬(デート)生活 ーこっそり、隣人推しちゃいますー

 ハンガーが揺れる音。布が風に擦れる音。そんな些細な音が、妙に大きく聞こえる。
 私は、さっきまでの勢いが嘘みたいに静かになってしまった自分に気づいた。
 言葉を重ねれば重ねるほど、成瀬さんとの距離が広がるような気がする。
 でも、今は沈黙も怖い。
 このままあっという間に言葉を交わせないほど遠い人になってしまいそうで……。
 だから、私は必死に言葉を探した。
 何か、何でもいいから話さないと。
 焦るほどに思考は空回りして、ますます何も言えなくなる。
 何か言わなきゃ。何か、何か……。何も浮かばない。
 言いしれぬ焦りが胸の奥からじわじわと広がっていく。
「石川さん」
 突然、成瀬さんが私を呼んだ。
 優しい声。
 でも、そこに少しだけ真剣な響きが混じっているような気がした。
「は、はい?」
 私は思わず背筋を伸ばす。
 しきり壁の向こうの気配が、急に近く感じられた。
「やっぱりなんか、無理してない?」
 その言葉に、心臓が跳ねた。見透かされたような気がして、息が詰まる。
「え……?」
「いや、なんとなく。さっきから、ちょっと元気すぎるっていうか……」
 私は笑おうとしたけど、うまく笑えなかった。喉の奥が詰まって、声が出ない。
「……そんなことないですよ。いつも通りです」
 そう言った自分の声が、少し震えているのがわかった。
 成瀬さんは何も言葉を返してくれない。
 沈黙が重い。
 これ以上何かを追及されたら、誤魔化せない。きっと泣いてしまう。
 だけど、そんなのは成瀬さんを困らせるだけ。どうしたら……。
 私が必死に言葉を探していると、しきり壁がコツコツと叩かれた。
 成瀬さんの声がすぐそばで聞こえる。
「何もないなら、どうしてずっと隠れているの?」
「えっ……」
 成瀬さん、気づいてたんだ。私が顔を見せていないことに。
 私が言葉に詰まっていると、成瀬さんはさらに続けた。
「もしかして、俺に怒ってる?」
「えっ? どうして?」
 思ってもない言葉に、思わず間抜けな声で聞き返してしまった。
 成瀬さんが小さく息を吐くのが聞こえる。そして少し間を置いてから、自信なさげな声がした。
「俺がデリカシーのないことを言ったから」
「デリカシー?」
「うん。ほら、石川さんの目元が腫れてるって。……別に悪気があったわけじゃないんだ。俺はただ、石川さんのことが心配だっただけで。でも、女性にそういうことはあまり言っちゃいけなかったのかなぁって……」
 しきり壁の向こうから聞こえてくる声は、どんどん小さくなっていった。