推しと清く正しい逢瀬(デート)生活 ーこっそり、隣人推しちゃいますー

 推しを見て寂しくなった……。
 そんなこと、間違っても本人に言えるわけがない。
 それで、なんとか捻り出した言葉は、陳腐なものでしかなかった。
「なんだか、成瀬さんが別の人に見えました」
 ポツリと呟く。
 返ってきた成瀬さんの声は弾んでいた。
「俺じゃない誰かに見えたって言われるの、実は嬉しいんだよね。その役になりきれてたってことだからさ。最高の褒め言葉だよ」
 姿は見えないのに、声の調子だけで表情が目に浮かぶ。
 きっと本当に嬉しいのだ。別の誰かに見えたことが。それは、本気で演技と向き合っているからだろう。
 成瀬さんが成瀬さんじゃないみたいで、私はこんなにも寂しいのに……。
 ダメだ。また目頭が熱くなる。
 私は、ほんわか笑顔の隣人に恋をしている。
 だけど大前提として、私は成瀬陽一のファンなのだ。推しの活躍を目の当たりにして寂しくなっているようでは、推し事なんてやっていけない。
 私は自分の両頬をパンッと軽く叩いた。
 その音に成瀬さんが慌てる。
「ど、どうしたの? 大丈夫? 何の音?」
「あはは。大丈夫です。ちょっと自分に気合を……」
 心配そうな成瀬さんの声に、私は努めて明るく答える。
 成瀬さんの優しさが嬉しい。でも……痛い。胸が苦しくてたまらない。
 自分の中にある色んな感情を、ぐっと奥歯を噛んでなんとか押し殺す。
 そして深く息を吐いた後、私はまた無理やり明るい声を出す。
「でも本当にすごいですよね。たくさんの人の前であんなに堂々と演技して、歌って。あ、歌って言えば成瀬さんですよね、Fって!」
 私は自分の中のモヤモヤと向き合わなくていいように、勢いよく捲し立てる。
「もぉ、どうして言ってくれなかったんですかっ? ご本人を目の前にして偉そうに語っちゃったじゃないですか。あぁ、恥ずかしい」
 一人騒がしい私とは対照的に、隣のベランダから返事はない。
 今はほんの少しの沈黙も怖い。
 だから、私はさらに続ける。
「でも、いい声だなぁと思ったのは本当ですよ。これで、成瀬さんはますます有名になっちゃうんですね。あぁ、隣人がアイドルかぁ。そんなこと考えたこともなかったなぁ。あ、でも大丈夫ですよ。成瀬さんがここに住んでいることは、私、絶対誰にも言いませんから。安心してくださいね」
 自分で言っていて、ちょっと悲しくなってきた。
 誰かに言いふらすなんて絶対しない。
 だって今の私は、成瀬さんのことを誰にも知られたくないと思っているんだから。