推しと清く正しい逢瀬(デート)生活 ーこっそり、隣人推しちゃいますー

 そう思った瞬間、成瀬さんが遠慮がちに聞いてきた。
「眠れないことでもあった?」
「え?」
 しきり壁のせいで成瀬さんの姿は見えない。思わず手摺りから身を乗り出すが、干された洗濯物が邪魔をして、やっぱり顔は見えなかった。
 ただそれだけのことなのに、私の中では残念な気持ちとほっとした気持ちが入り乱れる。
 顔が見られたら嬉しいのに、本当の距離を思い知らされるのが怖くて顔を見たくない……。
 自分の矛盾する気持ちに嫌気がさす。
 私はふにゃりと手摺りに体を預け、成瀬さんの問いかけをごまかすように笑った。
「どうしてですか? 何もないですよ?」
「……そお? なんだか目元が少し腫れてるみたいだったから」
 成瀬さんの声は、相変わらずやわらかかった。
 一瞬顔を合わせただけなのに、すぐに異変に気付くなんて。やっぱり成瀬さんはすごい。
 私は素直に感心した。と同時に、胸がざわつく。
 どうしていつもそんなに優しいの? 勘違いしちゃいそうだよ。
 でも、本当は誰にでも優しい人なんだよね。
 わかってる。私は成瀬さんの特別なんかじゃない。
 勝手に勘違いして……バカみたい。
 自分の気持ちをごまかすように、私は慌てて口を開いた。
「スッピンだからですよぉ。もぉ〜、恥ずかしいなぁ」
 そう言っておどけてみせる。
 しきり壁の向こうの成瀬さんは、私の気持ちを知ってか知らずか、クスクスと笑った。
 その笑い声を聞きながら、洗濯物に隠されてしまっている成瀬さんの顔を思い浮かべる。
 どんな顔をしているんだろう。多分いつもの優しい笑顔なんだろうな。顔が見たい。でも、見たくない。
 そんなぐちゃぐちゃな感情を抱えていても、それでもやっぱり成瀬さんと言葉を交わしたい。
 私はそっと手摺りから手を離すと、隠れるようにしきり壁に体を預けた。
「舞台、すごかったです。ミュージカルですよね? 私、あまりミュージカルって観たことがなくて。だから、大した感想は言えないんですけど……でも、すごかったです」
 自分の語彙力のなさに我ながら呆れる。
 でも、成瀬さんはそんな私の感想に気を悪くすることもなく、「楽しんでもらえたなら良かった」と笑った。
 しきり壁越しに、成瀬さんが洗濯物を干す微かな音が聞こえる。
 手の届く距離にいるのに。
 顔を合わせて話せる距離にいるのに。
 成瀬さんが遠い。
 舞台上で見せた表情が、歌声が、あの時の全てが私の知らない人のようだった。
 推し事をして、推しを遠くに感じることがあるなんて知らなかった。