旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜

【イシュSide】


 オルディナ港を離れた大型商船のデッキは、夜の(とばり)と波音に支配されていた。

 イシュ・ヴァーレンは一人、手すりに背を預け、遠ざかる王国の灯火(ともしび)を眺めていた。
 懐から取り出したのは、一枚のハンカチだ。

 もう何年も前、ソフィアがまだ学園に通っていた頃、縫いすぎてしまったからと、深い意味もなく渡された刺繍のハンカチ。その銀色の糸には、当時から彼女の魂が宿っていた。

「『何か困り事かしら?』……か」

 ふっと、独り言がこぼれた。

 ――七年前。右も左もわからず、閉鎖的なこの国の往来で道に迷い、立ち尽くしていた二十二歳の自分に、臆することなく声をかけてきた十六歳の少女。

 五ヵ国語を操る才知。異国人を珍しがるでもなく、ただ一人の人間として対等に接する、凛とした美しさ。

 あの時、彼女が差し出したのは道案内という慈悲ではなかった。
 それは、イシュ・ヴァーレンという商人の魂に火をつけた、運命の招待状だったのだ。

(あの時、僕が彼女を誘っていれば、今頃はどうなっていたかな)

 彼女の学園帰りに二人で過ごした、甘く、けれど純粋な放課後のひととき。

 やがて時が経ち、彼女が「契約結婚」という無茶な相談を持ちかけてきた時、イシュは正直に言えば激怒していた。あの気高い少女が、金のために身を売るような真似をするのが許せなかった。
 だからこそ、イシュは彼女の財産を管理し、三倍に増やした。
 いつか彼女が自由を手に入れた時、誰にも依存せず、その翼で羽ばたけるように。


「……僕が用意したかったのは、君の逃げ場所じゃなくて、君が女王として君臨する城だったんだけどね」

 イシュは苦笑し、夜の海風に前髪を揺らした。
 

 ――祖国には、僕を待っている美しい妻がいる。
 腕の中に飛び込んでくる、僕にそっくりな愛らしい子どもたちがいる。

 彼女たちは僕の命であり、守るべき世界のすべてだ。

 だが、ソフィア。
 君は僕にとって、何よりも尊い「光」だった。

 商人としての利益も、家族への愛も、それとは全く別の場所に、君という名のミューズが座っている。

 君が創り出すドレスの美しさを、君という人間の可能性を、世界で一番最初に信じたのは僕だという自負。それだけは、あの堅物な騎士にも譲るつもりはない。


「……『今すぐ離縁しろ』、か。少し、熱くなりすぎたな」

 舞踏会の夜、レイモンドに叩きつけた言葉を思い出す。

 あれは彼女を救うための言葉だったのか、それとも、彼女を独占し、自身の翼の下に置きたいという執着だったのか。今となっては、もう判別もつかない。

 水平線の向こう、完全に姿を消した王国の影。

 あそこには今頃、腕の中に閉じ込めた獲物を、決して離さないと誓っている不器用な男がいる。

「……幸せになりなよ、フィア。もしあいつが君を泣かせたら、僕は火薬を積んだ船で、この国を買い叩きに来るからね」

 イシュは手の中のハンカチを、愛おしげに、けれど決別するように強く握りしめた。
 そして、それを再び懐の深い場所へとしまい込む。

「さあ、仕事に戻ろうか。僕の帰りを、お姫様たちが待っている」

 イシュ・ヴァーレンは背筋を伸ばし、振り返ることなく、光溢れる船室へと足を進めた。

 彼の歩みには、迷子になっていた若かりしの頃の影はない。
 大切なものを守り、広大な海を支配する、一人の偉大な商人の足取りだった。

Fin.