旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜

【レイモンドSide】


 午前六時。

 長年、戦場と軍艦で鍛え上げられた体内時計は、侍従が目覚めの時間を知らせに来るよりも早く、レイモンドの意識を覚醒させた。

 いつもなら、意識が戻った瞬間に跳ね起き、冷水で顔を洗って練兵場へと向かうのが彼の「規律」だ。だが今朝のレイモンドは、まるで重い鎖で寝台に繋ぎ止められたかのように、指一本動かすことができなかった。

 ――否、鎖ではない。
 彼の右腕を、柔らかな熱が包み込んでいた。

「…………」

 視線を落とすと、そこには隣で深く眠るソフィアの姿があった。
 彼女はレイモンドの右腕を両手でしっかりと抱きかかえ、その逞しい二の腕に、自身の頬を預けている。
 夏の朝陽が薄いカーテンを透かして、彼女の長い睫毛に金色の縁取りを作っていた。

(……動けんな)

 レイモンドは天井を仰ぎ、静かに息を吐いた。

 軍人として、あるまじき失態だ。右腕を抜こうと思えば、彼女を起こさぬよう慎重に行う術などいくらでもある。だが、自分の肌に触れている彼女の柔らかな体温と、規則正しい安らかな寝息が、それを拒絶した。

 かつて、契約という名の壁が二人の間にあった頃、彼女がこれほど無防備な姿を見せることはなかった。
 背中を丸め、自分を信じ切り、夢の中まで自分を連れて行こうとするこの小さな女王。

(俺は、何を恐れていたのか)

 あの頃の絶望が嘘のように、今の情景は甘美だった。

 ソフィアがわずかに身じろぎし、彼の腕にさらに深く顔を埋める。その拍子に、彼女の髪から淡い石鹸の香りが広がり、鼻腔をくすぐった。

「……ん……。旦那、さま……」

 夢の中で紡がれた、自分の名。

 その掠れた甘い声は、戦場でのどんな咆哮よりも、王宮でのどんな命令よりも、レイモンドの理性を粉々に粉砕した。

(――勝てんな。これは、到底勝てん)

 規律が叫ぶ。早朝の訓練に遅れるなど許されない。

 だが、愛が囁く。この瞬間を壊す者は、たとえ自分自身であっても許さない、と。

 レイモンドは空いた左手で、ソフィアの頬にかかった一筋の髪を、壊れ物を扱うような手つきでそっと払った。その指先に触れた肌の柔らかさに、胸の奥が震える。

 カチリ、と寝室の外で時計が時を告げる音がした。

「……アリス」

 レイモンドはドアの向こうに控えているであろう侍女に届く程度の、極めて低い声で呼んだ。
 すぐに気配がし、扉が数ミリだけ開く。アリスの賢明な目が、寝台の状況を察して細められた。

「……本日の訓練への立ち合いは、一時間遅らせる。副官に、そう伝えろ」

 アリスが満足げに、そして深く一礼して去っていく気配がした。
 

 軍人としての誇りは、確かに今、地に墜ちた。

 だが、レイモンドはかつてないほどの充足感と共に、ソフィアを抱きかかえる右腕に、より一層の愛しさを込めて力を入れた。

「……君の勝ちだ、ソフィア」

 一番の敵は、自分自身の独占欲だったのかもしれない。

 レイモンドはソフィアの額に唇を落とすと、再び目を閉じ、幸福な二度寝の淵へと沈んでいった。

Fin.