旦那様、そろそろ離縁のご準備を〜契約結婚三年目、満了日を目前にして旦那様の様子がどこか変です〜


「母上」

 いつの間にか部屋に来ていたフェリクスが、音もなく二人の前に進み出た。

「騒ぎ立てて申し訳ありません。これは、長子である私の責任です」

 フェリクスは、迷いのない瞳で母を見つめた。そこには、すべてを受け入れた者の、悲しいほどの覚悟があった。

 母は、ゆっくりとフェリクスを見つめる。
 そして、ふわりと、優雅に微笑んだ。その微笑みは美しく、そして凍り付くほどに恐ろしかった。

「立派だわ、フェリクス。嫡男としての自覚を持ったのね」

 母の声は甘く、しかし残酷な響きを帯びていた。

「いいわ。あなたに免じて、この二人は許しましょう。あなたは来客の応対が済み次第、わたくしの部屋にいらっしゃい。いいわね?」

 刹那、フェリクスの肩がほんの一瞬だけ強張ったのを、ソフィアは見た。
 けれど彼は、何も言い返すことはなく、深く頭を下げるだけ。

「……はい、母上」

 母はそれ以上何も言わず、侍女たちにソフィアの着替えを命じると、部屋から出ていった。

 重苦しい静寂の中、フェリクスは顔を上げ、ソフィアを振り返る。
 兄の顔色は少し青ざめていたが、ソフィアと目が合うと、いつも通り、優しく微笑んでみせた。

「大丈夫だよ、ソフィア。……さあ、急いで着替えておいで」
「……はい、お兄さま」

 そのときは、まだ気づかなかった。
 母の言葉の意味も、兄の笑顔の理由も。

 それを知ったのは、その日の夜――偶然廊下を通りがかった際、母親の部屋から、フェリクスの呻き声が聞こえてきたとき。その後、部屋から出てきた兄の、青白い顔を見てしまったときだった。

「……お兄……さま……?」

 光を失った目で、足を引きずって歩く兄――その姿を見た瞬間、ソフィアの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。

「……そんな、……嘘」

 これまで何度も目撃した、兄の体についた無数のあざ。母親の冷たい言葉と態度。全てが繋がった。
 兄のあざは、勲章なんかじゃない。母に付けられた傷だ。
 そして今、自分のせいで、愛する兄が傷つけられたのだ。――それは幼いソフィアにとって、何事にも代えがたい恐怖だった。