血の契りより、あなたを選ぶ

 鷹宮彩夜。

 その名前を知ったのは、
 彼女に会うより前だった。

 葬儀の名簿。
 鷹宮義一の“身内”。

 表に出ない名前。
 呼ばれることを想定されていない存在。

 それでも、
 修司の件を調べる過程で、
 一度だけ、目に入った。

 ——彩夜。

 夜に彩りを与える名前。

 義一が、
 そんな名を娘につけるとは思わなかった。

 だから、覚えていた。

 覚えてしまった。

 喫煙所で見た横顔。
 雨に濡れた睫毛。

 修司の形見を吸う姿。

 あの時、
 名前と顔が、静かに重なった。

 知ってはいけないと、分かっていた。

 だから、呼ばなかった。

 返却の夜も、
 一線を守った。

 ——守った、つもりだった。

 今日、ここに来た理由を、
 “偶然”にしたのは、
 自分への言い訳だ。

 本当は、
 あの女が、
 雨の中に立つ気配を、
 もう一度、確認したかった。

 傘も持たず、
 喫煙所に立つ姿。

 ああ、やっぱり。

 守られる側の人間じゃない。

 声をかけた時点で、
 すでにアウトだった。

 それでも、
 距離は詰めなかった。

 触れなかった。

 名前も、
 呼ぶつもりはなかった。

 ——なのに。

 煙草を消す仕草を見た瞬間、
 胸の奥で、何かが決壊した。

 あれは、
 “終わらせる”仕草だ。

 線を引く人間の手つき。

 修司と同じだった。

 反射みたいに、
 口が動いた。

「……彩夜」

 呼んだ瞬間、
 空気が変わった。

 彼女の背筋が、
 わずかに強張る。

 拒絶じゃない。
 警戒でもない。

 ——受け止めた反応。

 その事実が、
 胸に、重く落ちた。

 名前を呼ぶってのは、
 立場を越える行為だ。

 鷹宮義一の娘。
 組の象徴。

 本来なら、
 肩書きでしか呼ばれない存在。

 それを、
 “彩夜”と呼んだ。

 それはつまり、
 俺が見ているのが、
 組でも、娘でもなく、
 “一人の女”だという宣言だった。

 間違っている。

 分かっている。

 それでも、
 呼ばずにはいられなかった。

 彼女が、
 俺と同じ場所に立っていると、
 錯覚してしまったからだ。

 守る側の人間が、
 夜に立ち尽くす理由。

 それを、
 分かってしまった気がした。

 だから、
 あの名を呼んだ。

 呼んでしまった。

 後悔は、まだ来ない。

 来るのは、
 もう少し先だ。

 雨の匂いが、
 深くなる。

 この先、
 俺は何度でも、
 線を引き直すことになる。

 それでも、
 一度呼んでしまった名前は、
 もう、
 なかったことには出来なかった。