光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

降り続いた雨は、すっかり上がっていた。
昨日までの音が嘘みたいに、窓の外は静かだ。
濡れた地面が、光を反射している。

(落ち着かねぇ)

理由は、はっきりしてる。
結が来るかもしれないからだ。来ないかもしれない。
でも、来る気がして……

って、おい。
来る前提で考えてる時点でアウトだろ。

「……」

月嶺寮の廊下は、相変わらず人がいない。
結の学部生が利用する階だが、出会ったことがない。
ただ所々から、ピアノの音が漏れ聞こえている。

いつもは素通りする音が、今日はやけに耳を揺さぶる。
まるで誰かの音との違いを見せつけるかのような。

煩い。

掻き消したくて、鍵盤に指を滑らす。

少し冷たい雨上がりの空気に混じる、軽い足音。
いつもより、迷いがない。

振り返る前から、わかった。結だ。

「……おはようございます」

いつも通りの声。
いつも通りの距離。

――なのに。

(……なんだ)

目が、逃げない。
昨日までの結は、一瞬だけ視線を合わせてすぐに逸らしてた。
今日は違う。

静かで、落ち着いていて、でも、芯がある。

「……雨、止んだな」

気後れして、どうでもいい一言を選ぶ。

「はい。少し、空気が澄んでますね」

言い方も、間も、どこか違う。

(……何があった)

問いかけたい衝動を、ぐっと飲み込む。
結は、ピアノの前に向かった。

「……次、弾きますね」

宣言みたいな声。

鍵盤に触れる前、一度、深く息を吐く。
俺と、同じ癖。

音が出た瞬間、違和感が、確信に変わった。

音が、逃げない。

昨日までの結の音は、迷って、揺れて、
俺の顔色を窺ってた。

今日は違う。
聴かせるためじゃない。
評価を求めてもいない。

“ここにある”音。

(……おい、まじかよ)

胸の奥が、焦燥感にざわつく。
それは、成長とか、上達とか、そんな生易しい話じゃない。

覚悟の音だ。

弾き終わったあと、結は、こっちを見た。
こわいくらい真っ直ぐに。

逃げない。
試すわけでもない。
ただ、“そこにいる”。

「……どうですか?」

短い問い。
俺は、一瞬、言葉を失った。
下手だ。相変わらず。

でも――

「……前より、強くなったな」

それだけ言うのが、精一杯だった。

結は、少しだけ笑った。
控えめで、でも、揺らがない笑い方。

(……マジかよ)

昨日まで俺が引いてた線を、向こうが軽々と越えてきた。

告白じゃない。距離を詰めてもいない。
なのに、気持ちだけが、一歩前に出てる。

惚れるな。そう言って、縛ってたはずなのに。

最早、効いてない。

……いや。効いてないのは、俺のほうか。

「……今日は、これで」

結が、鞄を持つ。

「……もう帰るのか」

声が、少しだけ低くなった。

結は、頷く。

「はい。でも……また、来ます」

それは、宣言だった。
俺に向けたものじゃない。
結自身に向けた言葉。

部屋に残ったのは、
嘘みたいな静けさと、
消えない違和感だけだった。

(……時間の問題だな)

結の覚悟が、俺の理性を追い越し始めてる。

惚れるな、なんて言葉。
もう、縛りにもなってない。

それどころか――

次に壊れるのが、どっちなのか。

考えなくても、答えは見えていた。

「……きっつ…」

誰に届くことなく、
静かに部屋にとけていった。