光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

雨は、まだ止まない。
窓を叩く音が、一定のリズムで続いている。
外は白く滲んで、境目がわからない。

――逃げ場がないな。

そう思ったのは、雨のせいじゃない。

「……弾くか」

自分の口から出た言葉に、内心で舌打ちする。

今は、弾かない方がいい。
わかってる。
なのに、指は、もう鍵盤の位置を捉えている。

後ろにいるのが、気配でわかる。
距離は、近い。
近すぎる。
でも、触れてはいない。

(……やめとけ)

雨の日の音は、余計なものを削ぐ。
剥き出しの感情まで、世界を覆う。

最初の一音を出した瞬間、
この選択が間違いだと、わかった。

今日は、逃げる音が出ない。
優しく弾こうなんて思ってない。
寄せようとも、
慰めようともしてない。

――なのに。

勝手に音が、柔らかくなる。

(……どうしようもないな)

惚れるな、って言ったのは俺だ。
距離を取れ、って線を引いたのも。

なのに、音で近づいてどうする。

結の呼吸が、少しだけ乱れる。
音が、ちゃんと届いてる証拠。
それが、
嬉しくて、苦しい。

(……これ以上、聴かせるな)

鍵盤から手を離すと、
雨音だけが戻ってきた。

振り返ると、結が、こっちを見ていた。

――あの顔。

期待と、不安と、
信じたい気持ちが全部混ざった顔。

見せるなよ、俺にそんな顔。

「……寒くないか」

言葉を選んだ結果が、これだ。
何でもない一言。

結は、小さく首を振る。

「……大丈夫、です」

嘘だ。

雨の日に、
この距離で、
何も感じないわけがない。

俺は、わかってる。
自分の限界も。

惚れるなと言ったのは、
結を守るためじゃない。

――俺を、止めるためだ。

最初は、場所だった。
ピアノを弾ける場所。
それだけのはずだった。

でも、あいつは、聴いた。
下手くそな音を、真剣な目で。

評価もしない。
比べもしない。

ただ、「好き」だって顔で。

そんなの、ズルいに決まってる。

雨音が、また一段と強くなる。

(……触るな)

距離が、少しだけ、詰まる。
結が動いたわけじゃない。
俺が、近づいた。

気づいた時には、もう遅い。
肩が、触れそうで、触れない。

それ以上、行くな。

「……帰れなくなりそうだな」

独り言みたいに言って、
理性を踏みとどまらせる。

何も言わない結。
それが、一番、キツい。

言えよ。
帰りたいって。

そうしたら、俺は、離れられる。

――でも。

黙ったまま、そこにいる。

(……ほらな)

惚れるな、って言ったくせに。
来るな、って言ったくせに。

俺は、
結が離れないことに、ほっとしている。

最低だ。

だから、言えない。
ここで言ったら、全部壊れる。

距離も、
ピアノも、
この場所も。

それに――
雨が止んだら、現実が戻る。

その時、
この気持ちをどうする?

答えが出ないまま、
時間だけが流れる。

「……もう少し、待つか」

自分に言い聞かせるみたいに、そう言った。

結は、小さく頷く。
それだけで、胸が締めつけられる。

(……ほんと、限界だ)

惚れるな、なんて言葉で縛る卑怯なのは。
そして、本当は、一番、守れてないのは

――俺だ。