――惚れるなと言ったのは、俺のほうだ
正直に言う。
あいつが来ると思ってた。
だから俺は、わざと少し遅れて月嶺寮に来た。
いつもの時間。
いつもの階段。
いつもの三階の奥。
――ほらな。
最奥の部屋の前に立つと、ドアの向こうから聞こえてきたのは、いつも以上に拙い音。
音程は不安定で、譜面と息が合ってない。
でも、すぐにわかった。
結だ。
「……」
ノックせずにドアにもたれて、しばらくそのまま聴く。
下手だ。
相変わらず。
なのに。
(……なんで、こう落ち着く)
俺の音じゃない。
それなのに、この部屋にいる理由を肯定されてるみたいな気がする。
すると結は、手を止めて、ぽつりと呟いた。
「……バカだなぁ」
「誰がだよ」
思わず口が先に出た。
振り返ったあいつの顔は、案の定、わかりやすく驚いていた。
――ほんと、隠すの下手だな。
「来ると思った」
これは予想じゃない。
確信だった。
昨日、あんな顔をしておいて、
今日、来ないわけがない。
「課題です」
はいはい。苦しい言い訳。
俺はそれ以上突っ込まず、窓際に移動した。
近づいたら、たぶん――
距離を間違える。
「弾かねーの?」
結が鍵盤に向き直る。
背中が、少し強張っている。
音が鳴る前から、わかる。
(……意識してる)
力が入りすぎた音に、思わず声をかけた。
「力、入りすぎ」
肩が跳ねる。
その反応に、胸の奥がざわつく。
――やめろ。
これ以上、近づくな。
「謝んな」
そう言いながら、
続けた言葉を途中で飲み込む。
惚れるなって言ったのは――
俺だ。
理由は、簡単で。
一番、言えない理由だ。
(これ以上、見たら……)
沈黙のまま、俺は距離を取った。
「……練習しろ」
結は振り返らなかった。
それが、少しだけ救いだった。
鍵盤に触れた瞬間、俺の指は、勝手に動いた。
ただ今日の俺の音は、いつもと違う。
狡猾さが滲み出ている。
結がさっきまで弾いていた音とは、
同じピアノなのに、
まるで別物だ。
(……最低だな、俺)
音で、距離を埋めてるなんて。
弾き終わったとき、視線をやると、
結は、あの顔をしていた。
――期待。
無自覚で、無防備で、
惚れてるって顔。
「……何その顔」
「……なんでもないです」
嘘つけ。
自然と口元が、緩むのがわかる。
それを見て、結がまた苦しそうにするのも。
(マジで悪循環…)
最初から、わかってた。
初めて会ったのは雨の日で。
訳のわからない音で。
泣きながら、童謡を弾いてたあいつ。
鬱陶しいはずだった。
面倒なはずだった。
なのに――
帰らなかった。
それが、答えだった。
ピアノは、俺にとって逃げ場だ。
家族が壊れた日も、どうにもならなかった夜も。
音だけは、裏切らなかった。
その場所に、あいつが入り込んできた。
下手で。
素直で。
やたら真っ直ぐで。
『聴いてていいですか?』
あんな言い方、狡いだろ。
それからは、
弾くたびに、
視線が気になった。
音より先に、
反応を探すようになった。
――それは…もう落ちるだろ?
だから、言った。
「惚れるなよ」
あれは、忠告じゃない。
線引きでもない。
(自分に、だ)
結が惚れてることは、わかってた。
でも、それ以上に――
俺が、もう逃げられなかった。
ピアノを弾く理由が、
音じゃなくなり始めてたから。
弾き終わっても、
結は何も言わない。
それが、逆にキツい。
「……帰るか」
そう言って、先にドアを開ける。
振り返らずに言った。
「また来るだろ」
返事は、なかった。
でも。
足音が、ついてくる。
――ほらな。
惚れるなと言ったくせに。
来ると思ってたくせに。
俺は今日も、
この距離を壊さずに済んだことに、
ほっとしている自分に気づいてしまった。
それが、
一番、問題だった。

