光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜


『――惚れるなよ』

その言葉は、
家に帰ってからも、
お風呂に入っても、
ベッドに潜り込んでも、
ずっと耳の奥に残っていた。

――惚れるな。

わかってる。
わかってるつもりだった。

だって、名取さんはそういう人だ。
距離を詰めてくるくせに、線は越えさせない。
優しいのに、どこか突き放す。

なのに。

(……なんで、あんな言い方するんですか)

眠れないまま、天井を見つめる。
思い出すのは、ピアノを弾く横顔と、低い声。

惚れるな、なんて。
そんなの――

(もう、遅いのに)

翌日も、あたしは月嶺寮に向かっていた。
約束はしてない。

理由をつけるなら、課題。
言い訳をするなら、練習。

でも本当は、ただ――

(会えるかもしれない、って思ってる)

自分でも呆れるくらい、単純だ。

三階の廊下。
奥へ進むほど、足取りが重くなる。

……いなかったら、どうしよう。
……いたら、どうしよう。

最奥の部屋の前で、立ち止まる。
ドアの向こうから、ピアノの音はしなかった。

(……いない…よね)

少しだけ、ほっとして。
少しだけ、がっかりして。

鍵盤の蓋を開け、椅子に座る。
昨日と同じように、深く息を吐く。

――名取さんの真似。

音を出す前に、もう笑ってしまう。
 
(……移るんだ)

彼の癖も、間も、
気づけば、あたしの中に
ゆっくり、でも確実に入り込んでいる。

ぎこちない指で鍵盤を強く叩くと、
部屋に、あたしの音が広がった。

……違う。

この部屋は、
あたしの音だけじゃ、落ち着かない。

「……バカだなぁ」

ぽつりと零して、鍵盤から手を離す。

すると。

「誰がだよ」

低い声。

心臓が跳ねて、振り返った。

「……なと、りさん」

ドアにもたれて、腕を組んだ彼が立っていた。
昨日と同じ、少し不機嫌そうな顔。

「来ると思った」

「……っ」

胸の奥を、見透かされた気がした。

「課題、です」

咄嗟に出た言葉に、
我ながら苦しい言い訳だと思う。

「ふーん」

それだけ言って、彼は窓際に移動する。

「弾かねーの?」

「……弾きます」

鍵盤に向き直る。
でも、指が震えて、うまく音にならない。

(……近い)

背中に、視線を感じる。

「力、入りすぎ」

すぐ後ろから聞こえた声に、肩が跳ねた。

「……ごめんなさい」
「謝んな。
惚れるなって言ったのは――」

言いかけて、止まる。

沈黙。

あたしは、振り返れなかった。

「……練習しろ」

結局、それだけだった。

彼はそれ以上、何も言わない。
距離も、昨日と同じ。

近いのに、遠い。

なのに。

彼が鍵盤に触れた瞬間、
部屋の空気が、また変わった。

――ああ。

(やっぱり、好き)

音が、胸に落ちてくる。

惚れるなと言われたのに、
それでも、音を聴くたび、ふくれていく。

どうして、こんなに残酷なんだろう。

弾き終えた彼が、ちらりとこちらを見る。

「……何その顔」
「……なんでもないです」
「嘘つけ」

少しだけ、口元が緩む。

それを見ただけで、
胸が、またきゅっと、切なくなる。

(……期待しちゃうじゃないですか)

惚れるなと言ったくせに。
こんな顔、しないで。

この想いが、
どこに行き着くのかはわからない。

でも――

あたしは今日も、
彼の旋律から、逃げられなかった。