あたしは息を切らしながら回廊を走っていた。
約束の時間まで、まだ二十分以上もある。
それなのに、足は勝手に速くなる。
――あの人のピアノを、早く聴きたいから。
もう十代も残すところあと半年。
それなのに、全力疾走。
運動神経なんて持ち合わせていないあたしは、
走っても距離が縮まらないのが常だけど、
それでも足を止める気にはなれなかった。
回廊を抜けた先に見えてくるのは、九号館。
今はそう呼ばれているけれど、
少し前まで“月嶺寮”と呼ばれていた建物だ。
女子学生寮だった名残を残したまま、
今はピアノ練習室として使われている。
個室で、誰にも気兼ねなく音を出せるこの場所は、
あたしにとって特別な“世界”だった。
そして――
その世界の中心にいるのが、彼だ。
「はぁ……はぁ……」
入口で立ち止まり、スマホを取り出す。
新着メッセージは一件。
【名取 浩輔】
《いつもの場所》
短い一文なのに、胸が跳ねた。
待ち合わせは四時。
なのに、もう来ているらしい。
一段抜かしで階段を駆け上がり、三階の奥へ。
ピアノの音が廊下に溶けて、
ローヒールの音を隠してくれる。
最奥の部屋の前で、呼吸を整えた。
ドアノブに手をかける前から、
鼓動はうるさいくらいに早くなっている。
「……失礼しまーす」
「おせーよ、バカ」
窓に背を預け、腕を組んだ彼がそこにいた。
相変わらず口は悪い。
それなのに――
(……ちょっと、かっこいい)
本人の前では絶対に言えないけど。
「早く閉めろ。見つかる」
「あ、そーだった!」
慌ててドアを閉め、荷物を置いてピアノに近づく。
シンプルな部屋。
黒いアップライトピアノと椅子が二つ。
グラウンドの先に山が見える窓。
たったそれだけなのに、
ここにいると心が落ち着く。
ピアノ椅子に座ろうとした瞬間、
彼が先に腰を下ろした。
「今日は先に弾くんですか?」
「気分」
一言だけ言って、彼は目を閉じる。
深く、ひとつ、息を吐く。
――それが、名取さんの癖。
次の瞬間、
鍵盤に触れた指から音が生まれる。
緩やかで、澄んでいて、
でもどこか切ない旋律。
空気が、変わる。
(……すき)
曲名は知らない。
譜面も見ていない。
それなのに、
音だけで心の奥まで触れてくる。
気づけば、
指ではなく、顔ばかり見ていた。
癖のあるキャメルブラウンの髪。
少し吊り上がった目。
ぶっきらぼうな口元。
なのに、
ピアノを弾くときだけ、
全部が柔らかくなる。
「……ニヤけてんぞ」
「え?」
おでこを軽く叩かれて、現実に戻る。
「またトリップしてたろ」
「……すみません」
聴いた後は、いつもこうだ。
ふわふわして、現実感がなくなる。
「良いこと、ありました?」
「……なんで」
「音が、嬉しそうだったから」
一瞬だけ、彼がこちらを見る。
からかいも、意地悪もない、静かな視線。
「交代」
頭をぐしゃっと撫でられて、席を譲られる。
「髪の毛が……!」
「変わんねーよ。早く弾け」
言いながら、
どこか楽しそうに笑う。
――ずるい。
ピアノに向かい、深呼吸。
彼の癖が、
いつの間にかあたしの癖になっていた。
弾き終わると、すぐに指摘が飛ぶ。
「最後、音程ズレてた」
「……はい」
厳しいけど、
ちゃんと聴いてくれている。
休憩中、彼がぽつりと言った。
「……最近、どーなんだ」
その質問の意味を、
あたしは知っている。
「……相変わらず、です」
父の再婚話。
向き合うのが、まだ怖い。
「逃げてばっかだと、後悔するぞ」
優しいのに、誤魔化さない。
それが、余計に胸に刺さる。
――この人の前では、嘘がつけない。
沈黙のあと、彼は煙草を咥えた。
「ここ禁煙ですよ」
「咥えるだけだ」
煙草の匂いは嫌い。
なのに、名取さんだと、
なぜか目を逸らせなくなる。
(……おかしい)
出会って、まだ三ヶ月。
それなのに、
彼はあたしの“特別”になっていた。
「なぁ」
「はい?」
「――惚れるなよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
「勘違いすんなって意味だ」
視線を逸らしたまま、淡々と続ける。
「ここは練習場所。
俺は弾く。
お前は聴く。
それだけだ」
胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
答えながら、
気づいてしまった。
(もう、遅い)
だって――
この人のピアノに、
この人の声に、
この人の存在に。
あたしは、もう。
約束の時間まで、まだ二十分以上もある。
それなのに、足は勝手に速くなる。
――あの人のピアノを、早く聴きたいから。
もう十代も残すところあと半年。
それなのに、全力疾走。
運動神経なんて持ち合わせていないあたしは、
走っても距離が縮まらないのが常だけど、
それでも足を止める気にはなれなかった。
回廊を抜けた先に見えてくるのは、九号館。
今はそう呼ばれているけれど、
少し前まで“月嶺寮”と呼ばれていた建物だ。
女子学生寮だった名残を残したまま、
今はピアノ練習室として使われている。
個室で、誰にも気兼ねなく音を出せるこの場所は、
あたしにとって特別な“世界”だった。
そして――
その世界の中心にいるのが、彼だ。
「はぁ……はぁ……」
入口で立ち止まり、スマホを取り出す。
新着メッセージは一件。
【名取 浩輔】
《いつもの場所》
短い一文なのに、胸が跳ねた。
待ち合わせは四時。
なのに、もう来ているらしい。
一段抜かしで階段を駆け上がり、三階の奥へ。
ピアノの音が廊下に溶けて、
ローヒールの音を隠してくれる。
最奥の部屋の前で、呼吸を整えた。
ドアノブに手をかける前から、
鼓動はうるさいくらいに早くなっている。
「……失礼しまーす」
「おせーよ、バカ」
窓に背を預け、腕を組んだ彼がそこにいた。
相変わらず口は悪い。
それなのに――
(……ちょっと、かっこいい)
本人の前では絶対に言えないけど。
「早く閉めろ。見つかる」
「あ、そーだった!」
慌ててドアを閉め、荷物を置いてピアノに近づく。
シンプルな部屋。
黒いアップライトピアノと椅子が二つ。
グラウンドの先に山が見える窓。
たったそれだけなのに、
ここにいると心が落ち着く。
ピアノ椅子に座ろうとした瞬間、
彼が先に腰を下ろした。
「今日は先に弾くんですか?」
「気分」
一言だけ言って、彼は目を閉じる。
深く、ひとつ、息を吐く。
――それが、名取さんの癖。
次の瞬間、
鍵盤に触れた指から音が生まれる。
緩やかで、澄んでいて、
でもどこか切ない旋律。
空気が、変わる。
(……すき)
曲名は知らない。
譜面も見ていない。
それなのに、
音だけで心の奥まで触れてくる。
気づけば、
指ではなく、顔ばかり見ていた。
癖のあるキャメルブラウンの髪。
少し吊り上がった目。
ぶっきらぼうな口元。
なのに、
ピアノを弾くときだけ、
全部が柔らかくなる。
「……ニヤけてんぞ」
「え?」
おでこを軽く叩かれて、現実に戻る。
「またトリップしてたろ」
「……すみません」
聴いた後は、いつもこうだ。
ふわふわして、現実感がなくなる。
「良いこと、ありました?」
「……なんで」
「音が、嬉しそうだったから」
一瞬だけ、彼がこちらを見る。
からかいも、意地悪もない、静かな視線。
「交代」
頭をぐしゃっと撫でられて、席を譲られる。
「髪の毛が……!」
「変わんねーよ。早く弾け」
言いながら、
どこか楽しそうに笑う。
――ずるい。
ピアノに向かい、深呼吸。
彼の癖が、
いつの間にかあたしの癖になっていた。
弾き終わると、すぐに指摘が飛ぶ。
「最後、音程ズレてた」
「……はい」
厳しいけど、
ちゃんと聴いてくれている。
休憩中、彼がぽつりと言った。
「……最近、どーなんだ」
その質問の意味を、
あたしは知っている。
「……相変わらず、です」
父の再婚話。
向き合うのが、まだ怖い。
「逃げてばっかだと、後悔するぞ」
優しいのに、誤魔化さない。
それが、余計に胸に刺さる。
――この人の前では、嘘がつけない。
沈黙のあと、彼は煙草を咥えた。
「ここ禁煙ですよ」
「咥えるだけだ」
煙草の匂いは嫌い。
なのに、名取さんだと、
なぜか目を逸らせなくなる。
(……おかしい)
出会って、まだ三ヶ月。
それなのに、
彼はあたしの“特別”になっていた。
「なぁ」
「はい?」
「――惚れるなよ」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……は?」
「勘違いすんなって意味だ」
視線を逸らしたまま、淡々と続ける。
「ここは練習場所。
俺は弾く。
お前は聴く。
それだけだ」
胸が、きゅっと縮む。
「……はい」
答えながら、
気づいてしまった。
(もう、遅い)
だって――
この人のピアノに、
この人の声に、
この人の存在に。
あたしは、もう。

