光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

今日は時雨れている。
どこか煮え切らない俺と同じで、少し苛立つ空。

ピアノ練習室のドアを開ける音が、やけに重たく感じる。

(……逃げ道、ねぇな)

自分で張った線だ。
自分で引いた言葉だ。

あれは忠告でも、
優しさでもない。
臆病なブレーキだった。

(そんなことを今更自覚してなんになる?)

鍵盤の前に座り、息を吐く。
――ピアノを弾く前のいつもの癖。

でも今日は、音を出せずにいる。

来るかもしれない。
来ないかもしれない。
それでも、来る前提で待っている。

廊下の足音。
聞き慣れすぎた音。

「……失礼します」

結だ。

顔を上げる。
目が合う。

――逸らせない。

それだけで、もう、誤魔化せなかった。

「……よぅ」

「はい」

短いやり取り。
でも、漂う空気が違う。

なぜか結はピアノの前に来ない。
鞄を持ったまま、立っている。

昨日の言葉が、頭をよぎる。

『ここに来るのは、やめません』

言わなかったけど、わかる。
結は、もう待ってない。

俺がどうするかを、静かに見ている。

「……弾かねーの?」

結は、首を振った。

「今日は……いいです」

それは、拒否じゃない。
委ね、だ。

――今は、“音”じゃない。
わかってる。

俺は立ち上がり、鍵盤から離れる。
距離を取る癖を、今日はやめる。

「……前にさ」

結の瞳が、緊張の色で揺れる。

「惚れるなって、言っただろ」

結は、何も言わない。
逃げない。試さない。
ただ、静かにそこにいる。

「……あれな」

言葉が、世界が、重い。
今まで音に逃げてきた重さだ。

「結を守るためじゃなかった」

言葉が絡まって、うまく声にならない。
ひと息吐いて、呼吸を整える。

「俺が、壊れないためだった」

「近づいたら、たぶん、止まれなくなるって、わかってた」

だから線を引いた。
だから言葉で縛った。

最低だ。

「……でも」

息を吸う。
今度は、逃げない。

「結は逃げなかった」

昨日の音。
今日の目。
覚悟の気配。

「……それ見て、
まだ止まろうとしてんの、
俺だけだって気づいた」

結は沈黙を貫いたまま、まだ何も言わない。
でも、一言一句、聞き漏らすまいとしてるのがわかる。

「惚れるな、なんて言葉」

自分で笑いそうになる。

「一番、守れてなかったのは俺だ」

一歩、近づく。
触れない。

でも、もう距離は言い訳にならない。

「……好きだ」

音じゃない。
比喩もない。

逃げ場のない言葉。

「結が、好きだ」

結の息が、瞳が、小さく揺れた。

「今さら、格好いい言い方もできねぇし」

気恥ずかしくて、少しだけ視線を逸らす。

「それでも、
言わないほうが
もっと卑怯だと思った」

結が、ゆっくりと息を吐く。

そして――
初めて、少しだけ、笑った。

泣きそうで、
でも、嬉しいのを我慢してる顔。

「……ずるいです」

「知ってる」

「惚れるなって、言ったくせに」

「……あぁ」

それでも、俺は結を。
結は俺を。

諦めなかった。

「……でも」

「……ありがとうございます」

涙に濡れたか細い声。
それだけで、愛おしさにふるえる。

触れない。
抱きしめない。

今日は、それでいい。

雨は、降らない。
でも、確かに――恋が、降りた。

音じゃなく、言葉で。

――完――