光暈時雨〜彼の旋律に、恋が降る〜

月嶺寮の階段を上がる足取りは、
不思議なくらい軽かった。

昨日までのあたしなら、きっと、ここに来る前に立ち止まっていた。

――会えなかったらどうしよう。
――気まずかったらどうしよう。
――また、何も言われなかったら。

考えて、怖くなって、
一歩、引いていた。

でも、今日は違う。

(……大丈夫)

何が大丈夫なのか、
自分でもはっきりとはわからない。

ただ、逃げないって決めた。
それだけ。

通い慣れた廊下。
色んな音を横目に、奥へ進む。

一際、耳が恋する音が、近づいてくる。
名取さんの音だ。

――わかる。

他の音とは、やっぱり違う。

ドアの前で、一度、深呼吸。

ノックをする前に、
自分に問いかける。

(……言うの?)

答えは、すぐに出た。

――言わない。

でも、隠さない。
それが今のあたしに出来る精一杯。

「……失礼します」

ドアを開けると、
名取さんが鍵盤から顔を上げた。

視線が、合う。
逸らさない。

名取さんが、
一瞬だけ驚いた顔をしたのが、わかった。

「……来たな」

「はい」

それだけのやり取りなのに、
胸が、静かに熱くなる。

名取さんは何も言わずに、
椅子をずらした。

あたしは鍵盤の前に座る。

昨日までと、
何も変わらないはずの場所。

でも――
あたしの中は、違う。

深く、深く、息を吐く。

――あの癖。

音を出す前に、
一度だけ、名取さんを見る。

ちゃんと、目が合う。

うん、逃げない。
それだけで、もう、前とは違う。

指を下ろす。

音が、部屋に広がる。

震えない。迷わない。

上手くもないし、
完璧でもない。

それでも、
今のあたしだけにしか出せない音。

弾き終わって、
静けさが戻る。

名取さんは、何も言わない。

でも、もう、怖くなかった。

「……どうでしたか」

自分から聞く。

名取さんが、
少しだけ息を吐いた。

「……ちゃんと、前向いて弾いてた」

それだけ。

でも、それで十分だった。

「……ありがとうございます」

そう言って立ち上がり、
鞄を引き寄せる。

帰る準備。

でも、今日は――

「……名取さん」

声が、思ったよりはっきり出た。

名取さんが、振り返る。

「……前に、言われたこと」

あの言葉。

――惚れるなよ。

喉が、きゅっと鳴る。
でも、目は逸らさない。

「……あれ、わかってます」

名取さんの表情が、
少しだけ固くなる。

「だから、何も、求めません」

嘘じゃない。
今は、本当に。

「でも」

一拍、置く。

心臓の音が、
やけにうるさい。

「……ここに来るのは、やめません」

名取さんの瞳が、揺れる。

「音も、この場所も、好きだから」

――そして。
肝心要は言わない。

言葉にしない。
でも、ちゃんと、伝える。

「……それだけ、です」

何も言わない名取さん。
でも、真っ直ぐに見つめる。

それで、わかった。

(……届いた)

返事は、ない。
でも、あたしは、もう大丈夫だった。

「失礼します」

ドアを開けて、廊下に出る。

足取りは、確かだった。

告白はしていない。
でも、踏み出した。

あたしなりの、一歩。

それだけで、
心が、少し、軽い。

――あとは

"あの人"が、どうするかだ。

「……名取さん」

声にならなかった想いだけが、
胸に残った。