エリート上司の秘密の素顔

「如月さん、ちょっといいかな」

各部署から届いた報告書に目を通していると、名前を呼ばれて顔を上げる。
声のした方に視線を向けると、総務部長がこちらを見て手招きしているので立ち上がって彼の元へ向かった。

「なんでしょうか?」
「半年後に創立三十五周年の記念イベントがあるだろ。そのプロジェクトは企画部が中心で準備を進めているけど、総務からも毎回一人参加しているんだ。それで今回は君に頼めないかと思って」
「私……ですか?」

聞き返すと、部長は軽く頷く。

「前回の三十周年のプロジェクトに参加した光藤さんからの推薦なんだ。如月さんの仕事を高く評価していて、君なら大丈夫だと言ってね」

笑顔で言われ、頷く以外の選択肢はなかった。

「承知しました」
「ありがとう。それで急なんだけど、今日の午後にそのプロジェクトチームの打ち合わせがあるんだ。そこで詳しい話があるはずだから、よろしく頼むよ」

そう言って、数枚の資料を渡された。
今日の午後って本当に急なんだけど!
きっと部長のことだから、伝達するのを忘れていたんだろう。
それで、今日打ち合わせの連絡が入って、慌てて光藤さんに助言を求めたのかもしれない。
私は困惑しながらも「はい」と返事して自分の席へ戻った。

如月(きさらぎ)つむぎ、二十五歳。
大手総合商社、高塚商事の総務部で働いている。
高塚商事は、エネルギーや資源、食品、日用品や玩具関連まで幅広く扱い、国内だけでなく海外にも拠点を持っている会社だ。
うちの会社は五年ごとに周年イベントを開催していて、社内向けと社外向けを交互に実施することが慣例になっている。

部長から渡された資料には、記念イベントの概要がまとめられていた。
今回の三十五周年は社内向けで、社員への感謝やモチベーション向上、結束を深めることが目的らしい。
次の四十周年は、社外向けに華やかな記念イベントを予定していると書いてあった。

記念イベントでは、企画部や広報部、総務部などいくつもの部署から人を集めてプロジェクトチームを作っている。
部長も言っていたけど、前回の三十周年の時、総務部の先輩の光藤留美(みつどうるみ)さんがそのプロジェクトに参加していた。
社外向けだったので規模も大きく『すごく大変だったけど、やりがいはあったわ』と笑いながら話していたのを覚えている。

せっかく選ばれたんだから、私にできることを頑張るしかない。
とりあえず、午後の打ち合わせまでに目の前の仕事を片付けようと報告書に視線を戻した。

♢♢♢

午後、指定された時間にプロジェクトチームが集まっている会議室へ向かった。
すでに会議室には何人かが集まっており、静かな部屋には緊張感が漂っている。
長方形のテーブルがコの字に配置されており、空いていた端の席に腰を下ろす。
手に持っていた筆箱とメモ用紙、タブレットを机に置いて、ざっと会議室内を見回したけど知っている人は誰もいない。
途端に心細くなり、小さく息を吐いた。

しばらくして、企画部課長の五十嵐律希(いがらしりつき)さんが立ち上がり、中央のスペースへ歩み出る。

「皆さん、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。創立三十五周年記念イベントに向けて、本日がプロジェクトチームの初顔合わせになります」

今、話しているのが噂の五十嵐課長か……。

『来るもの拒まず、去る者追わず』、『女の子には優しいけど、本気にはならない』などの噂を何度も耳にしたことがある。
女性慣れした軽い感じの人なんだろう、と勝手に想像していた。

実際、間近で見た課長は噂通りの軽やかな雰囲気をまとっている。
三十代前半で上質なスーツを着こなし、ネクタイを少し緩めた姿が妙に様になっていた。
百八十センチ超えの長身で、ダークブラウンの髪は軽く流して整えられている。
柔らかな目元に整った眉、鼻筋のすっと通った端整な顔立ちだ。

「まずは軽く自己紹介から始めたいと思います。今回のプロジェクトの責任者、企画部の五十嵐です。よろしくお願いします。次、松坂さんから順番にお願いします」

私の真正面に座っていた松坂さんという女性が指名された。

「企画部の松坂透子(まつざかとおこ)です。馬車馬のように働くので、よろしくお願いします!」
「だそうなので、彼女にどんどん仕事を与えてやってください」
「えー、軽い冗談だったんですけど」

松坂さんが口を尖らせた。
企画部同士のやり取りに、ふっと場が和む。
その後、広報部、営業部など座っている順に自己紹介が続き、最後に私の番が回ってきた。

「総務部の如月つむぎです。精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」

頭を下げると、五十嵐課長と視線が重なった。

「よろしくお願いします」

そう言って柔らかく微笑まれ、ドキッと心臓が跳ねる。
噂話を聞いているせいか、無意識に身構えてしまう私がいた。

自己紹介が終わり、各自が資料に目を落とす。

「今回の創立記念イベントは社内向けなので、派手さよりも社員が安心して楽しめることを重視したいと思っています」

課長の言葉を聞きながら、紙をめくる音が会議室に響いて少し空気が引き締まる。

「では、各部署の役割と全体像の把握から進めていきます」

五十嵐課長は資料を見ながら、落ち着いた声で各部署の役割を説明していく。

「次は総務部です。総務には書類関係の準備や各部署とのスケジュール調整、会場との連携など全体の取りまとめをお願いします。当日の受付や案内、トラブル対応も含めて動いていただく形になります。こちらからも随時連絡しますので、密にやり取りすることになると思います」

資料をなぞるように説明する声に耳を傾け、メモを取りながら小さく頷く。

「当日の運営は、総務が要になります。如月さん、そのつもりでよろしくお願いします」

五十嵐課長の言葉に思わず背筋が伸びた。

「――以上が記念イベントの各部署の役割です。あとの細かい調整などは今後、詰めていきたいと思います。もし現段階で質問があれば、この後個別で話を聞きます。それでは、お疲れさまでした」

自己紹介と各部署の役割、方向性を共有して今日の会議は終わった。
メンバーたちは席を立ち、それぞれ会議室を出ていく。

それにしても意外だったな。
五十嵐課長の声は耳心地がよく、説明は驚くほど丁寧だった。
軽い人だと思っていたのに、資料の細部まで把握していたので、仕事ではキッチリしている人なのかもしれない。
噂だけで人を判断してはいけないなと思った。

私は資料を抱えて席を立つ。
さっき『質問があればこの後個別で』という言葉を思い出し、私は五十嵐課長のもとへ向かった。
少しだけ確認したいことがあったからだ。

「あの、五十嵐課長……」

課長の元に歩み寄って声をかけた瞬間、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

「課長、お疲れ様です~」

広報部の女性が私の前に割り込んできた。

「このイベント、課長が担当だと聞いたので立候補しちゃいました」

そう話すのは、広報部の佐伯春奈(さえきはるな)さん。
緩く巻いたミルクティーベージュの髪、淡いピンクのブラウスにタイトスカートがよく似合っている。
メイクも華やかで、周囲を明るくするような人だ。

それに比べて、私は肩につくぐらいのダークブラウンのストレートの髪。
たまに毛先を軽く内巻きにする程度で、メイクも控えめ。
服装も黒やブラウン、ネイビーなどの落ち着いた色を選びがちで特に目立つことはない。
佐伯さんの勢いに押され、私は一歩後ずさる。

「あー、そうなんだ」

五十嵐課長はさっきまでの落ち着いた雰囲気とは違い、軽い調子で返した。

「それで親睦を深めるために今度、二人で食事にでも行きません?」
「このプロジェクトを立ち上げたばかりで、いろいろ調整とかあって忙しいから、しばらくは難しいかな」

一瞬、課長の眉がわずかに動き、すぐに笑みを浮かべて話す。
声は穏やで、相手を傷つけないような断り方が驚くほどスムーズだ。
噂通り、女性慣れしている感じがする。

「えー、せっかく親睦を深めようと思ったのに」

佐伯さんは不満そうに口を尖らせる。

「悪いね。またタイミングが合えば声をかけてよ」
「やった!落ち着いたらまた誘いますね」

満面の笑みを浮かべて、佐伯さんは会議室をあとにした。
彼女の背中を見つめていたら視線を感じ、そちらに顔を向けると五十嵐課長と目が合う。

「如月さん、何か質問でもある?さっき、俺を呼んだよね」
「えっと、はい。あの、質問があって……」

声をかけられ、ドギマギしながら言うと課長はフッと笑う。

「質問ね。どこが気になった?」
「各部署への依頼文章は企画部名義で出しますか?それとも総務部の方がいいですか?」

私が尋ねると、課長は一瞬考えこむように視線をさ迷わせた後、口を開く。

「文面は企画部で作るからこっち名義にしといて。総務はチェックしてくれるだけでいいよ」
「分かりました。ありがとうございました」

お礼を言うと、五十嵐課長は目を細めて私を見つめた。

「君は真面目に資料を読み込んでいたんだね」
「へっ?」

思わず変な声が出てしまった。

「だいたいさ、みんな資料は一応見るけど流し読みなんだよ。内容を把握していないから、質問があれば個別で話を聞くって言っても、なにを聞けばいいのか分からなくて誰も来ないんだ。佐伯さんの食事の誘いは例外だけど」

五十嵐課長は肩をすくめながら苦笑いし、言葉を続ける。

「で、あとになって『あれってどうでしたっけ?』なんて聞いてくるんだ。でも、如月さんはすぐに聞きに来た。そういう真面目なところ、すごくいい。一緒に仕事をしていても張り合いがあるしね」

軽い口調だけど真剣な眼差しに、心臓が跳ねる。

「真面目だけが取り柄ですから……」
「いいじゃん、真面目で。仕事ではそれが一番強いんだから。それに、俺は真面目な人は好きだよ」

『好き』と言う言葉に、胸の鼓動が速くなる。
"真面目な人"が好きだと言っただけで、私に向けた言葉ではない。
だけど、今まで彼氏のいなかった私には無縁の言葉だったので反応に困る。

「これからプロジェクトで一緒に仕事するんだから、遠慮しないでなんでも聞いてよ、ね?」

微笑みながら言われ、思わず顔が赤くなった。
仕事の話なのに、顔を赤くしている場合じゃないでしょと脳内で突っ込む。

「わ、分かりました。ありがとうございました。それでは失礼します」

なんとか言葉を絞り出し、踵を返して会議室を出た。
ドアを閉めた瞬間、大きく深呼吸する。

軽く見えるけど仕事面では真剣で、私のことをちゃんと見てくれていた。
その意外なギャップに胸が高鳴る。
どうにか気持ちを切り替えて、総務のフロアへ戻った。

♢♢♢

初顔合わせから二ヶ月が経ち、その間も総務の仕事と並行しながら、イベントの準備に追われる日々を過ごしていた。
とはいっても、総務部がイベントに関して本格的に忙しくなるのはこれからだ。

今日はイベントの打ち合わせのため、企画部の端にある小さなミーティングルームに来ていた。
長方形のテーブルが二つ並べられ、会議室ほどかしこまった雰囲気はない。
今回は全体会議ではなく、総務部と企画部の打ち合わせだ。
すでに五十嵐課長が席に座り、資料に目を通していた。

「お疲れ様です」
「おー、お疲れ様。ここどうぞ」

顔を上げた五十嵐課長が柔らかく微笑み、自分の前の席を指差すのでそこに腰を下ろす。

「総務の仕事との両立、大変じゃない?」

向かいに座る課長が尋ねてくる。

「大変なこともありますけど、どうにか両立しています」

普段の仕事もしつつ、このプロジェクトも進めないといけない。
忙しさはあるけど、優先順位を考えて作業しているので、いつも以上にやりがいを感じている。

「へぇ、如月さんは頑張り屋だね」
「いえ……」

褒められて、胸の奥があたたかくなる。
平静を装いながら、机の上に置いてあった資料を手に取った。

「じゃあ、始めようか。まずは各部署への依頼文章だけど、総務部長に確認してもらえた?」
「はい。あの文章で大丈夫とのことだったので、このまま各部署に送ります」

タブレットを見ながら答えると、課長は満足そうに頷く。

「了解。あと、出欠フォームは総務で作ってもらえる?イベントの三ヶ月前には社員に送るようにしてほしい」
「分かりました。では、その頃に作成して社内メールに載せられるようにします。回答は毎日チェックして一覧にまとめて、五十嵐課長にも共有します」

私がそう答えると、課長は目を細めて微笑んだ。

「助かる。総務の窓口が如月さんでよかったよ。すごく仕事がやりやすい」

そんなことを言われるとは思っていなかったので、くすぐったい気持ちになる。

「ありがとうございます。不慣れなことが多いですけど、自分なりに精一杯努めたいと思います」
「そんなに肩の力を入れなくてもいいよ。如月さんは真面目だなぁ。もっとリラックスして」

柔らかな笑みを浮かべる課長と目が合う。
その瞬間、心臓が跳ねて思わず目をそらしてしまった。

「……はい、以後気をつけます」
「そういうところだよ。まあ、それが君のよさなんだろうけどね」

課長は頬杖をつき、私を見て口角を上げた。
五十嵐課長はいつもこんな感じなんだろうか。
さっきから彼の言葉に胸がざわつき、翻弄されている気がする。
小さく息を吐いて気を取り直し、打ち合わせに集中した。

「――この辺で今日は終わろうか」
「はい、ありがとうございました」

タブレットの電源を切り、資料をまとめてクリアファイルに入れて立ち上がる。

「それでは失礼します」
「あ、如月さん」

会釈して歩き出そうとしたら、五十嵐課長に呼ばれて足を止めた。

「いろいろやることが多いと思うけど、無理だけはしないようにね。真面目で責任感が強い如月さんは、なんでも一人で抱え込みそうだから」

初顔合わせから、そんなに話をしたわけじゃないのに、私のことをちゃんと理解してくれている。
課長の気遣いが素直に嬉しかった。

「……はい」

小さく頷きながら、手に持っていたタブレットを握り直す。
そして、ドアを開けてミーティングルームをあとにした。

♢♢♢

「つむちゃん、おはよ」
「透子さん、おはようございます」

朝、エレベーターを待っていたら同じプロジェクトメンバーで企画部の松坂透子さんに声をかけられた。
透子さんは、私より三歳年上でメンバーの中で一番年が近い。
初顔合わせ以来、会うたびに気軽に声をかけてくれるようになった。

「うちの課長、仕事の時は鬼だけど、普段ちょっと軽いところがあるから対応が大変でしょ?冗談言ったり、からかったりするし」
「私の口からはなんとも……」

まだ冗談を言われたりからかわれたことがないので、どう返せばいいのか分からない。
曖昧に笑ってその場をやり過ごした。

「でもさ、仕事はめちゃくちゃ厳しいのに、その後のフォローが完璧だからズルいんだよね。手のひらで転がされてるみたいでムカつくわ」

透子さんがそう言った瞬間、背後から低い声が聞こえた。

「おはよう」

振り向くと、五十嵐課長が微笑みながら立っている。
さっきの話、聞かれてないよね?

「おはようございます」

私はドキドキしながら挨拶すると、課長は少し目を細めながら透子さんを見て尋ねた。

「今、俺の悪口言ってなかった?」

やっぱり聞こえていたんだ。
私は焦りながら透子さんを見ると、彼女も『ヤバイ』といった表情になっている。

「えっ、そんなこと言うわけないですよ!ね、つむちゃん」

透子さんは慌てて誤魔化している。
その時、ちょうどエレベーターが到着して扉が開き、透子さんは逃げるように乗り込んだ。
他の社員も乗り込み、その流れで透子さんとは離れてしまった。
込み合うエレベーターの中、気づけば私の横に立っていたのは五十嵐課長だった。
こんなに密着するのは初めてで、ソワソワして落ち着かない。

「ねぇ、本当に俺の悪口言ってなかった?」

突然、五十嵐課長がこそっと問いかけてきて心臓が跳ねる。

「あ……悪口ではなかった……と思います」

一瞬、口ごもった私を見て課長がクスクスと笑う。

「如月さんは嘘がつけないね」

その表情を見て、からかわれているのかもと胸がざわつく。
透子さんが言っていたのは、きっとこのことだ。
私は肩をすくめて苦笑いするしかなかった。

六階に着くと、ゆっくりと扉が開く。

「お先です」

小さな声で言ってエレベーターを降り、総務部のフロアへと足を進めた。



朝は備品棚の在庫確認から始めた。
コピー用紙やボールペンなどの文房具をチェックし、足りないものは発注システムに入力する。
それが終わると、郵便物の仕分けをして部署ごとに整理していく。
その合間には電話が鳴り、丁寧に対応する。

午後、総務の仕事が一段落すると、イベントの準備に取りかかった。
記念品の発注で、今回は高級ボールペンとタンブラーだ。
特別感と実用性を満たす組み合わせで、どちらも周年ロゴ入りのお洒落なデザインになっている。
メールで業者に注文し、念のため電話での確認も済ませた。

気づけば窓の外はすっかり夕方で、柔らかなオレンジ色の光が斜めに差し込んでいる。
椅子の背もたれに身体を預けていたら、部長から声をかけられた。

「如月さん、悪いんだけど明日の役員会議の資料の訂正をお願いしたい」

話を聞けば、会議資料はすでに完成していたけど、営業利益の最新見込みを急きょ追加することになったらしい。
本来の担当は光藤さんだけど、彼女の娘さんが熱を出したと保育園から連絡があり、一時間前に早退している。
事情を聞いて、私は「分かりました」と頷いた。

差し替え部分の印刷を終え、あとはページ順に綴じ直すだけだ。
資料の紙を広げ、順番を確認しながら差し替え部分を正しい位置に差し込み、ホッチキスで留めていく。
黙々と作業を続け、すべて綴じ終えると部数を確認してトレイに収める。
これで明日の会議でそのまま配布できるだろう。

「はぁ、終わった」

小さく呟いて、息を吐く。
時計を見ると十九時前、総務のフロアは静まり返っていて、残っているのは数人だけだ。

椅子から立ち上がり、バッグを肩にかけて総務のフロアをあとにした。
エレベーターで一階に降りると、ロビーの照明は夜用に切り替わっていて薄暗い。
正面玄関はすでにシャッターが下りている。
私は静かなロビーを横切り、社員通用口へ向かった。

カードリーダーに社員証をかざすと、電子音が鳴って扉が開く。
外に出た瞬間、視界の端に人影が見えて思わず足を止めた。
同じプロジェクトに携わっている広報部の佐伯さんと五十嵐課長だ。

「五十嵐課長、お疲れ様です~」
「お疲れ様」
「今帰りなんですね~。もしよかったら、このあと食事でもどうですか?」

そんな声が耳に届く。
そういえば、最初の打ち合わせの時に佐伯さんは課長を食事に誘っていたっけ。
あの時は、忙しいからまたタイミングが合えば声をかけてと言っていた記憶がある。

「え、ああ……」

『来るもの拒まず去る者追わず』という噂を聞いていたので、すぐに了承するのかと思っていた。
だけど、課長は笑顔を浮かべたまま、はっきりと返事を口にしない。
何か予定があったりするのかな……って盗み聞きしているみたいじゃない!
その場を離れようとした瞬間、課長の視線がこちらに向き、目が合った。

「あ、如月さん!君も残業だったの?」

軽い調子で声をかけられた。
どうしてこの状況で私に話しかけるんだろう。
私は重い足取りで歩み寄り、小さく頷いた。

「はい、さっき終わったところです」
「そっか」

五十嵐課長は佐伯さんと私を交互に見てフッと笑った。

「そうだ、如月さんも一緒に飯食べに行く?」
「えっ、」

突然の誘いに言葉が出ない。
チラッと佐伯さんを見ると、口元には笑みを浮かべているけど目が揺れていた。
『邪魔しないで』というような表情に見える。
けれど、五十嵐課長はそんなことを気にする様子もなく話を続けた。

「同じプロジェクトだし、親睦を深めるなら三人でもいいよね?」
「あ、ごめんなさい。私、用事があるのを思い出しちゃった。課長、また今度誘いますね。それでは、失礼します」

私が断るよりも先に佐伯さんはそう言って、背を向けて歩き出した。

「やっぱりね……」

彼女の背中を見つめながら、五十嵐課長は小さく呟いた。
そして、私を見て申し訳なさそうに微笑んだ。

「変なことに巻き込んでごめんな」
「いえ……。でも、佐伯さんと食事に行かなくてよかったんですか?」

私の存在が邪魔になってしまったのではないかと思ったからだ。
すると、課長は少しだけ声を落とす。

「まあね。ここだけの話、俺は女子社員と二人きりで食事に行ったことはないんだよ」
「えっ?」

思わず目を見開く。
聞いた噂から、誰とでも気軽に食事に行くタイプだと思っていたのに……。
課長は私の顔を見て、苦笑いしながら口を開く。

「仕事に響くと面倒だから、男女混じったメンバーじゃないと行くことはないよ。もしかして、如月さんも俺の噂を信じてた?誰かれ構わず女性と食事に行っているとか、女性関係の変な噂」

図星を突かれて言葉に詰まり、視線を泳がせながら頷く。

「ショックだな。俺、そんな軽そうに見える?」

課長は肩をすくめて私を見る。

「いえ、そういうわけでは……」

本音を言う訳にはいかず、慌てて否定すると五十嵐課長はクスッと笑った。
短い沈黙の後、穏やかな声で話し始める。

「新人の頃に距離感でちょっと失敗したことがあったんだよ。ただ、女性と話していただけなのに、変な噂が立って仕事がやりにくくなってね。それからは、俺なりに線引きするようになったんだ」

言い終えると、苦笑いして視線を落とす。

「女性絡みの噂は、俺が二人きりの食事を断った人たちが憂さ晴らしに流したんだと思うよ。今はある程度スルーできるようになったから、変な噂を立てられても適当にかわしてる」

その言葉に胸がギュッと痛んだ。
課長がそんなことで苦労しているとは思わなかった。

「それと、普段軽めに話しているのは、仕事で厳しすぎるって上司に言われてからバランスを取っているだけなんだ。まあ、これが正解かどうか分からないけど」

五十嵐課長は周りをよく見て行動していて、あの軽い雰囲気も意図的なものだったんだ。
噂はやっぱり噂でしかないんだと改めて思った。

でも、どうして私に過去の失敗や噂のことまで話してくれたんだろう。
誤解されたくないと思っているからなんだろうか……。
いや、まさかそんなことはないよね。
自意識過剰すぎて恥ずかしくなり、小さく咳払いした。

「さて、これから晩飯でも食べに行く?」
「は?」

思わず変な声が出た。
さっき、女子社員と二人きりでは食事に行ったことがないと言っていたし、本気で誘っているようには思えない。
透子さんの言っていた冗談やからかいで、きっと場の空気を軽くするための気遣いなのかもしれない。

「いえ、あの……すみません」
「そっか、残念」

その『残念』も笑いながら言っているから、本気ではないんだろう。
いくら仕事の時とのバランスを取っていると言われても、慣れていない私は反応に困ってしまう。
気を取り直して口を開いた。

「お疲れさまでした」
「お疲れさま。またね」

五十嵐課長はふわりと笑って手を振り、私は会釈すると背を向けて歩き出した。

課長は本当につかみどころのない人だ。
軽い人なのかと思っていたけど、仕事の時は驚くほど真面目で誠実。
さっきの『女子社員と二人きりで食事に行ったことがない』という言葉も、彼の誠実さが伝わってきた。
課長にまつわる噂も、結局は作られたものだったんだ。
優しい微笑みや穏やかな雰囲気作り、手を振る仕草など、どれも軽く見えるけど実は誰よりも周りを気遣う人なんだろう。
そのギャップに戸惑いながらも、家につくまで五十嵐課長のことがなぜか頭から離れなかった。