目的地の小学校から五分と離れていないバス停に、バスが到着した。営業車で行けばもっと楽に行けるのに、あいにく私は運転ができない。身分証としての役割しか果たさない運転免許証は、もちろん万年ゴールドだ。
営業は好きじゃない。というか、向いていない。それを言い始めたら、私に向いている仕事なんて恐らく無い。編集部がいいです、って面接の時に言ったのに、配属されたのは営業部だった。私の働く出版社「兎亀教科書出版」は、小中学校用の教科書を扱う出版社だ。ただ、近年は大手の出版社に仕事をかっさらわれており、この業界では最下層にいる。教科書は一度採用されると、余程のことがない限り次年度も同じものを採用する。わざわざ得体の知れない弱小出版社のものを新たに採用する学校なんて、無いに等しい。そんなこと、社員全員わかっている。わかっているけれど、売り込まないわけにはいかない。仕事だから。一体うちの会社がどうやって成り立っているのか、一社員の私にはわからない。
「あー、ウサカメさん、また来たの? 懲りないね、おたくも」
「すみません、何度も。でも、どうしても話を聞いていただきたくて……。あの、前回お渡しした弊社の教材サンプルはご覧いただけましたでしょうか?」
だだっ広い職員室の片隅に設けられた簡易な応接スペースで、教頭先生が面倒くさそうに対応する。周りでは教員たちがガヤガヤとしゃべったり、ひたすらパソコンに向かったり、生徒たちが用事でやって来たりしている。
「サンプル? えーと、どうだったかな。ああ、見た見た。まあ、悪くはなかったですよ。でも無理です。うちは来年も猿蟹出版さんって決まってるから」
ボリボリ頭を掻きながら教頭が言う。絶対見てないんだろう、一瞬目が泳いだぞ。
「そうですか……。猿蟹さん……」
猿蟹出版というのは、業界最大手の教科書出版社だ。名前は近しいのに、うちとは雲泥の差がある。
「だから、悪いけどもう当分来ないでもらえますかね。私も色々忙しくて。検討の余地もないところとお話しするなんて、お互い時間の無駄でしょう?」
ぐうの音も出ず、私は出されたお茶に手を伸ばすことのないまま職員室を後にした。これは想定内。それよりも——良かった。今日はあいつがいない。そう思って来客用玄関に向かおうとしたところ、背後から声が飛んできた。
「あれ、辰巳じゃん? お前、また来てたの」
……最悪だ。
わざとゆっくり振り返ると、案の定、乾がニヤニヤしながら立っている。
「……どうも。もう帰りますので」
こいつとは話したくない。学生の時から、生理的に受け付けないのだ。当時から何かにつけ、私に絡んできた。
「お前も大変だなー。ていうか、お前全然営業向きじゃなくない? 教頭も前言ってたぞ、あの営業の子からは熱意が全く感じられないって。お前、大学の頃からちょっと冷めてたもんな。やっぱ営業は向いてないって。だから素直に教職取って教員になれば良かったのに——って、そっか。お前、逃げ出したんだっけ。ごめんごめん」
ゲラゲラと笑う乾の顔は、明らかに私を見下している。営業マンと営業先だからじゃない。彼が勝ち組で、私が負け組だからだ。
こいつとは会話したくない。私は何も言わず、冷めた一瞥をくれてやるとスタスタと歩き出した。
「無視かよ、おい」
乾に腕を掴まれ、ぞわっとした。
「……放してもらえます?」
睨みつけると、乾は一瞬怯んだような顔をし、手を引っ込めた。
「そんな怒んなって。同期じゃん、俺ら。なあ、もしまた教員目指すんなら、勉強教えてやってもいいぞ? 教育実習の乗り切り方とかも。先生は良いぞー。生徒たちは可愛いし、社会的信用はあるし、何よりやり甲斐が——」
「結構です。教員を目指す気なんて二度とありませんので。忙しいので失礼します」
もっと何か言いたげだった乾を振り払い、早足でバス停へ向かう。何が勉強教えてやる、だ。ギリギリの単位で卒業したくせに。会社に戻ったら課長に言おう、もうあの小学校への営業は無駄ですって。
——それでも、あいつは「先生」なのだ。その現実が悔しくて、もはや虚しさすら感じる。
やっぱり、営業は好きじゃない。
「——で。さくら小学校への営業は今回も駄目だったと」
「はい」
「そして、資料一式バスの中に忘れてきたと」
「はい……」
やってしまった。昨夜、今日の営業のことを考えていたら眠れなくなってしまい、帰りのバスに乗った途端、睡魔に襲われた。そして、慌ててバスを降りた私は座席に会社の資料一式が入った紙袋を置き忘れてきてしまった。降りた後ですぐ気付いたものの、バスは既に発車した後だった。もう、社会人としてあり得なさすぎる失態だ。
「お前なあ……。もう仕事以前の問題だぞ、それは」
「も、申し訳ありません……」
課長は四十代半ばで、入社当初から私の面倒を見てくれている。おっしゃる通りすぎて、何も言い訳できない。
「もう今日は仕事いいから、急いで資料探してこい。誰かに拾われて悪用されたりでもしたら大変だぞ」
「は、はい。とりあえず、バス会社に連絡します」
私が乗った市バス、「そよかぜバス」の電話番号を検索し電話をかけると、運良く私の紙袋は拾得物としてバス会社で保管してくれているとのことだった。ああ、良かった……。神様、仏様、そよかぜバス様。
課長の許しを得たので、私はその足でバス会社へと向かった。そよかぜバスはよく利用しているものの、バス会社へ行くのは初めてだ。うちの会社からそれほど離れていないのは助かった。
平屋建ての事務所は、一般の人でも出入りできるようだった。扉には定期券の販売案内のポスターが貼られている。受付の人に拾得物の引き取りだと告げると、別のカウンターの前で待つよう案内された。程なくして、制服に身を包んだ若い男性が紙袋を持って現れた。それは正しく、私が忘れた紙袋。会社のロゴである兎と亀のイラストが印刷されている。
「先ほどお電話いただいた方ですか?」
男性に話しかけられる。気のせいか、ちょっと怒ったような顔をしている。私、何かしたっけ……?
「は、はい。兎亀教科書出版の辰巳と申します」
「ウサカメノタツミ……」
「はい?」
「——いえ。一応、紙袋の中身は一通り確認させてもらってます。危険物の可能性もあったので、悪しからず」
淡々と話す口調は、やっぱりどこかトゲがある。こういう人と会話するのは苦手だ。嘘でもいいから、もう少し愛想良くしてもらえないものか。
「ああ、それは構いません、別に……」
会社の資料ではあるけれど、見られて困るような個人情報は特に載っていない。ましてや、バス会社の人が教科書出版社の資料を見たとて、何の影響もない。紙袋を受け取ろうと構えているのに、何故か目の前の男性は私の顔をじっと睨んだまま、渡してくれそうな素振りがない。何なんだろう、この人……。バスの中に忘れ物なんかして仕事増やすんじゃねえよみたいに思われてるのかもしれない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。以後気をつけますので、それ返していただけますか」
彼がずっと握ったままの紙袋を指差すと、ハッと我に返ったような顔をされた。
「ああ、はい。どうぞ」
差し出された紙袋をようやく受け取る。良かった、課長に無事回収できたことを早く連絡しなきゃ。
「ありがとうございました」
頭を下げ、カウンターを後にしようとしたところで、あの、と呼び止められた。
「——何で、学校の先生にならなかったんですか、リカさん」
——え?
営業は好きじゃない。というか、向いていない。それを言い始めたら、私に向いている仕事なんて恐らく無い。編集部がいいです、って面接の時に言ったのに、配属されたのは営業部だった。私の働く出版社「兎亀教科書出版」は、小中学校用の教科書を扱う出版社だ。ただ、近年は大手の出版社に仕事をかっさらわれており、この業界では最下層にいる。教科書は一度採用されると、余程のことがない限り次年度も同じものを採用する。わざわざ得体の知れない弱小出版社のものを新たに採用する学校なんて、無いに等しい。そんなこと、社員全員わかっている。わかっているけれど、売り込まないわけにはいかない。仕事だから。一体うちの会社がどうやって成り立っているのか、一社員の私にはわからない。
「あー、ウサカメさん、また来たの? 懲りないね、おたくも」
「すみません、何度も。でも、どうしても話を聞いていただきたくて……。あの、前回お渡しした弊社の教材サンプルはご覧いただけましたでしょうか?」
だだっ広い職員室の片隅に設けられた簡易な応接スペースで、教頭先生が面倒くさそうに対応する。周りでは教員たちがガヤガヤとしゃべったり、ひたすらパソコンに向かったり、生徒たちが用事でやって来たりしている。
「サンプル? えーと、どうだったかな。ああ、見た見た。まあ、悪くはなかったですよ。でも無理です。うちは来年も猿蟹出版さんって決まってるから」
ボリボリ頭を掻きながら教頭が言う。絶対見てないんだろう、一瞬目が泳いだぞ。
「そうですか……。猿蟹さん……」
猿蟹出版というのは、業界最大手の教科書出版社だ。名前は近しいのに、うちとは雲泥の差がある。
「だから、悪いけどもう当分来ないでもらえますかね。私も色々忙しくて。検討の余地もないところとお話しするなんて、お互い時間の無駄でしょう?」
ぐうの音も出ず、私は出されたお茶に手を伸ばすことのないまま職員室を後にした。これは想定内。それよりも——良かった。今日はあいつがいない。そう思って来客用玄関に向かおうとしたところ、背後から声が飛んできた。
「あれ、辰巳じゃん? お前、また来てたの」
……最悪だ。
わざとゆっくり振り返ると、案の定、乾がニヤニヤしながら立っている。
「……どうも。もう帰りますので」
こいつとは話したくない。学生の時から、生理的に受け付けないのだ。当時から何かにつけ、私に絡んできた。
「お前も大変だなー。ていうか、お前全然営業向きじゃなくない? 教頭も前言ってたぞ、あの営業の子からは熱意が全く感じられないって。お前、大学の頃からちょっと冷めてたもんな。やっぱ営業は向いてないって。だから素直に教職取って教員になれば良かったのに——って、そっか。お前、逃げ出したんだっけ。ごめんごめん」
ゲラゲラと笑う乾の顔は、明らかに私を見下している。営業マンと営業先だからじゃない。彼が勝ち組で、私が負け組だからだ。
こいつとは会話したくない。私は何も言わず、冷めた一瞥をくれてやるとスタスタと歩き出した。
「無視かよ、おい」
乾に腕を掴まれ、ぞわっとした。
「……放してもらえます?」
睨みつけると、乾は一瞬怯んだような顔をし、手を引っ込めた。
「そんな怒んなって。同期じゃん、俺ら。なあ、もしまた教員目指すんなら、勉強教えてやってもいいぞ? 教育実習の乗り切り方とかも。先生は良いぞー。生徒たちは可愛いし、社会的信用はあるし、何よりやり甲斐が——」
「結構です。教員を目指す気なんて二度とありませんので。忙しいので失礼します」
もっと何か言いたげだった乾を振り払い、早足でバス停へ向かう。何が勉強教えてやる、だ。ギリギリの単位で卒業したくせに。会社に戻ったら課長に言おう、もうあの小学校への営業は無駄ですって。
——それでも、あいつは「先生」なのだ。その現実が悔しくて、もはや虚しさすら感じる。
やっぱり、営業は好きじゃない。
「——で。さくら小学校への営業は今回も駄目だったと」
「はい」
「そして、資料一式バスの中に忘れてきたと」
「はい……」
やってしまった。昨夜、今日の営業のことを考えていたら眠れなくなってしまい、帰りのバスに乗った途端、睡魔に襲われた。そして、慌ててバスを降りた私は座席に会社の資料一式が入った紙袋を置き忘れてきてしまった。降りた後ですぐ気付いたものの、バスは既に発車した後だった。もう、社会人としてあり得なさすぎる失態だ。
「お前なあ……。もう仕事以前の問題だぞ、それは」
「も、申し訳ありません……」
課長は四十代半ばで、入社当初から私の面倒を見てくれている。おっしゃる通りすぎて、何も言い訳できない。
「もう今日は仕事いいから、急いで資料探してこい。誰かに拾われて悪用されたりでもしたら大変だぞ」
「は、はい。とりあえず、バス会社に連絡します」
私が乗った市バス、「そよかぜバス」の電話番号を検索し電話をかけると、運良く私の紙袋は拾得物としてバス会社で保管してくれているとのことだった。ああ、良かった……。神様、仏様、そよかぜバス様。
課長の許しを得たので、私はその足でバス会社へと向かった。そよかぜバスはよく利用しているものの、バス会社へ行くのは初めてだ。うちの会社からそれほど離れていないのは助かった。
平屋建ての事務所は、一般の人でも出入りできるようだった。扉には定期券の販売案内のポスターが貼られている。受付の人に拾得物の引き取りだと告げると、別のカウンターの前で待つよう案内された。程なくして、制服に身を包んだ若い男性が紙袋を持って現れた。それは正しく、私が忘れた紙袋。会社のロゴである兎と亀のイラストが印刷されている。
「先ほどお電話いただいた方ですか?」
男性に話しかけられる。気のせいか、ちょっと怒ったような顔をしている。私、何かしたっけ……?
「は、はい。兎亀教科書出版の辰巳と申します」
「ウサカメノタツミ……」
「はい?」
「——いえ。一応、紙袋の中身は一通り確認させてもらってます。危険物の可能性もあったので、悪しからず」
淡々と話す口調は、やっぱりどこかトゲがある。こういう人と会話するのは苦手だ。嘘でもいいから、もう少し愛想良くしてもらえないものか。
「ああ、それは構いません、別に……」
会社の資料ではあるけれど、見られて困るような個人情報は特に載っていない。ましてや、バス会社の人が教科書出版社の資料を見たとて、何の影響もない。紙袋を受け取ろうと構えているのに、何故か目の前の男性は私の顔をじっと睨んだまま、渡してくれそうな素振りがない。何なんだろう、この人……。バスの中に忘れ物なんかして仕事増やすんじゃねえよみたいに思われてるのかもしれない。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。以後気をつけますので、それ返していただけますか」
彼がずっと握ったままの紙袋を指差すと、ハッと我に返ったような顔をされた。
「ああ、はい。どうぞ」
差し出された紙袋をようやく受け取る。良かった、課長に無事回収できたことを早く連絡しなきゃ。
「ありがとうございました」
頭を下げ、カウンターを後にしようとしたところで、あの、と呼び止められた。
「——何で、学校の先生にならなかったんですか、リカさん」
——え?



