時を縫う英雄譚

朝倉芽吹は、公安から送られた報告書を読み返していた。

画面に並ぶ文字は、簡潔で無機質だ。

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> 観測異常:レベル2
> 発生地点:暁ヶ浜学園
> 観測者:二年A組 一ノ瀬透
> 対応方針:経過観察 → 必要に応じて処理

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「……やっぱり」

芽吹は、端末を閉じた。

“処理”
この言葉に、感情は含まれない。
含めてはいけない。

異常…感情は、街の精度を下げる。
精度が下がれば、ズレが生まれる。
ズレは、連鎖する。

だから切る。
ただ、それだけ。

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一ノ瀬透は、放課後の教室に残っていた。

窓際の席。
彼はいつものように、机に伏せている。

一見、普通に見えるその後ろ姿。

大事なクラスメイト。そして、相棒。
本音を言うなら、彼を処理だなんてしたくない。

芽吹は、廊下からその微かに見える横顔を盗み見する。


(……本当に、見えたのね)


昨日の非常階段。
透は何も言わなかった。


沈黙は、肯定よりも否定よりも苦しい。


「一ノ瀬〜起きてる?」


名前を呼ぶと、彼はびくりと肩を揺らした。


「……何、イインチョー」

「ねぇ…少し、話そうよ」


芽吹は笑わなかった。
笑顔は、今は必要ない。

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旧校舎の資料室。
人払いは済んでいる。


「ここ、立入禁止じゃなかったのか?」

「あー…イインチョーの特権ってやつだよ」


本当はピッキングだけど。

芽吹は扉を閉め、鍵をかけた。


「昨日のこと」


透の視線が、わずかに動く。


「何の話だよ」

「非常階段で、誰と話していたの?」


沈黙。

芽吹は、続ける。


「“見えないもの”が見えたんでしょう」


透の手が、拳を握る。


「……見間違いだ」

「違う」


芽吹は即座に否定した。


「あなたは、ズレを認識している」


透が顔を上げた。


「何だよ、それ」


芽吹は一歩近づく。


「この街はね、常に調整されている。
 事故も、事件も、逸脱も起きないように」

「それが“正常”だろ。
 俺らスタッチャーが治すから、この街は正常なんだ」


透は、低く唸るように続けた。


「異常を消してるだけなんだよ」


芽吹は、一瞬だけ目を伏せた。 


「……それでも」


顔を上げる。


「それでも、この街は救われてる」


沈黙が落ちる。

芽吹は、言葉を選ばなかった。


「一ノ瀬。
 あなたは公安の処理対象になりかけている」

「……は?」

「“見えてはいけないもの”を見た。
 それを他人に“伝えなかった”と同時に、否定もしなかった」

淡々と、事実だけを並べる。


「これ以上ズレを広げれば、
 あなたは――消される」


透の表情が、凍った。


「ふざけるな……人を、何だと思ってる」

「部品よ」


芽吹は、はっきり言った。


「街を成立させるためのね」


透は、椅子から立ち上がった。


「そんなものに、灯を……!」


言いかけて、止まる。

芽吹の視線が、鋭く刺さった。


「……灯?」


透は、唇を噛み締めた。

言ってしまった。
名前を出してしまった。

芽吹の端末が、微かに振動する。

(……確定)

彼女の中で、何かが切り替わった。


「一ノ瀬透」


声が、冷たくなる。


「あなたが見たのは、
 “存在してはいけない残滓”」

「違う…!!」


透は、叫ぶように言った。


「灯は……生きてる」

「いいえ」


芽吹は、否定する。


「死んでいる。
 そして、ここに現れる理由はない」

「理由ならある!」


透は、一歩踏み出す。



「俺が、忘れなかったからだ!」



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その言葉に、芽吹の胸が僅かに軋んだ。


(……だから、危険なの)


想いは、縫い止められない。
記憶は、消しても残る。
愛は、最も厄介なズレ。


「一ノ瀬」


芽吹は、最後の警告を与える。


「その子を救いたいなら、
 もう一度、考えて」

「あなたがしているのは――
 街を壊す行為よ」


透は、迷わなかった。


「それでもいい」


即答だった。


「灯を、失ったままの世界なんて、
 最初から狂ってる」


芽吹は、目を閉じた。


(……あぁ、もう)

——愛こそ怖いズレはない。

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その夜、芽吹は正式な報告を上げた。


> 観測異常:レベル3
> 観測者:一ノ瀬透
> 危険度:高
> 対応方針:
> **経過観察終了/処理準備へ移行**

送信。

画面が暗転する。

芽吹は、しばらく動けなかった。

(ごめんね、一ノ瀬)

そう思った自分を、
彼女は即座に否定した。

感情は、判断を狂わせる。

それでも――


非常階段で見た、
透の背中が、頭から離れなかった。