時を縫う英雄譚

校舎の廊下が、音もなく歪む。
ガラスが震え、時計の針が意味もなく逆回転を始めた。

やけに静かだと思えば、周りの生徒が姿を消していた。

次の瞬間、視界に映ったのは――
床に崩れ落ちた一ノ瀬透の身体だった。


淡い光が、彼の胸元から漏れている。
針のように細い光は、空間に染み出すように広がり、
世界そのものを引き裂こうとしていた。


「反応値、異常!」


通信越しにフォールの声が重なる。


「記憶ノイズが臨界突破!
 クロノスの時間軸が、内側から崩れてる!」


芽吹は躊躇しなかった。
床に膝をつき、透の頬に触れる。

冷たい。


「起きて……一ノ瀬!」


揺すっても、返事はない。
彼の瞳は開いたまま、どこにも焦点を結んでいなかった。

その瞬間、芽吹は理解した。  


――彼はもう、“今”にいない。


視界が反転する。
重力が消え、色が裏返る。
気づけば芽吹は、見知らぬ世界に立っていた。

赤く焼けた空。
傾いた街並み。
壊れた時計塔の周囲に、無数の針が突き刺さっている。


「……ここ、は……」


音がない。
風も、時間も、感情さえ凍りついた檻。
その中心に、透が立っていた。


「クロノス!」
 

駆け出す。
だが、距離が縮まらない。
見えない膜。
世界線そのものが、二人を隔てている。


「芽吹……?」
 

透の声が、ひどく遠い。


「なんで……ここに……
 俺は、灯を――」


その名前が零れた瞬間、空が割れた。
黒い影が噴き出し、世界がざらつく。

それは敵ではない。
透自身の記憶だった。


幼い灯の笑顔。
泣き声。
手を伸ばして、届かなかった瞬間。


「……あーあ。俺、兄ちゃんなのに」


透の輪郭が崩れ始める。
身体が時間の粒子となり、風に散っていく。
芽吹の喉が、痛いほど締め付けられた。


「やめて……!」


彼女は両腕を広げ、風を呼ぶ。
風は時間を撫で、崩れる透を必死に抱きとめた。

光が弾ける。
痛みが走る。
それでも、離さない。


「誰も、あんたを責めてない!」


声が、世界に響く。


「灯ちゃんだって!
 私だって!
 生きてるあんたを――“今の透”を見たいの!」


風が、泣くように唸った。

その瞬間。
透の中で、何かが確かに“戻った”。

音が戻る。
色が戻る。
時間が、再び流れ出す。


次の瞬間、芽吹は床に倒れ込んでいた。


現実世界。
隣を見ると、いつもの透がいた。


透が大きく息を吸い込む。

「……芽吹?」 


焦点の戻った瞳。
それだけで、彼女は泣きそうになった。


「……ばか」


声が震える。


「どれだけ心配させるのよ」


透は、弱々しく笑った。


「ごめん。
 夢……見てた」

「うん」

「誰かに……大切な人に、“生きて”って言われた」


芽吹は、目を逸らした。


「……そ。いい夢じゃん」


そのとき、通信が割り込む。


「いや〜〜〜名シーン。
 号泣不可避だねこれは」


フォールの声。


「兄さんは出てこなかったけどな」

「そこは気にしないでほしい」


芽吹が、ようやく小さく笑った。
その笑い声が、狂った針を元の位置に戻していく。