時を縫う英雄譚

「なぁ、芽吹」


古びた廊下の床が軋む。


「なに?」


芽吹は前を歩きながら振り返った。
透は、胸の奥がざわついた。


「さっきからさ……時計、変じゃないか?」

「また時間の話?はいはい、厨二病のクロノスくん」


冗談めかして言う芽吹の足取りは軽い。
けれど、透の視線は壁の時計に釘付けだった。

秒針が、一度だけ。

「戻った」 

ほんの一秒。
気のせいと言われたら、それまでのズレ。


「……気のせい、か」


胸の奥が、きしむ。

(嫌な予感がする)

理由は分からない。
ただ、何かを“思い出してはいけない”という感覚だけが、喉元までせり上がってきていた。


「芽吹」

「ん?」

「もしさ……俺が、急にいなくなったら」


その瞬間、芽吹の足が止まった。


「……え?」


振り返った彼女の目が、少しだけ鋭くなる。


「縁起でもないこと言わないで」

「いや、仮定の話」

「仮定でもダメ」


きっぱりとした声。
でも、透は続けてしまった。


「そのときは……ちゃんと、前向いて生きろよ」


芽吹の表情が、固まる。


「……透?」


名前を呼ばれた瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。


――灯。


声も、顔も、はっきりしない。
けれど、“助けられなかった”という後悔だけが、洪水みたいに流れ込んでくる。


「っ……!」


透は膝に手をついた。


「ちょ、ちょっと!?」


芽吹が駆け寄る。


「え、なにあの子」

「大丈夫ー?」

「先生呼ぶ?」


廊下を歩いていた生徒も、ただごとじゃないと駆け寄る。


芽吹の手が透の肩に触れた瞬間、世界が歪んだ。


廊下の端が揺れる。
窓ガラスが音もなく震え、時計の針が狂ったように回り始める。


「透!?」

「だ……大丈夫……」


そう言おうとして、声が掠れた。
視界の端に、暁色の空が滲む。

違う。今はまだ朝だ。

なのに、空が“別の色”を重ねてくる。


「……灯…」


その名前を口にした瞬間。
――世界が、軋んだ。


「やめて!!」


芽吹の叫びが、遠くで響く。
床が傾き、時間が剥がれ落ちる感覚。


(ああ……)


透は、ようやく理解した。


(俺、まだ……そこに縛られてたんだ)


守れなかった過去。
置いてきたはずの時間。
それが、今になって――


「芽吹……」


最後に見えたのは、必死に手を伸ばす彼女の姿だった。


「……ごめん」


その言葉を残して。
透の身体は、音もなく床に崩れ落ちた。

芽吹の叫びが廊下に響く。
床に倒れ込んだ透の身体から、淡い光が漏れていた。

針のように細い光が、空間を裂いて広がっていく。

彼の瞳は虚空を見つめている。
そこにはもう、“今”がなかった。


――そして、世界は反転する。