引っ越しトラックが、アパート前に止まったのは黄昏時だった。
透はベランダで洗濯物を干しながら、その異音に眉をひそめる。
「……誰か越してくるのか」
このアパートは古い。
壁は薄いし、住人も俺たちとオーナーのおばちゃんだけ。
公安の目が届きにくい代わりに、何かを隠すには都合がいい場所だ。
「どうせ、すぐ出てくよ。ここ、長居する人いないし」
キッチン側から、フォールの声。
相変わらずエプロン姿。
包丁の音が一定のリズムを刻んでいる。
「…ここ普通に危ないからな」
「お前がいる時点で、どこでも危険だろ」
「自覚あったんだ」
「あるからここに住んでる」
――その言い方が、少しだけおかしい。
フォールは人間じゃない。
だから、より「最適」を選ぶのだろう。
そんな会話をしていると、
アパートの廊下から――
ガタン。
何か重いものを落とした音。
続いて。
「……っ、重……!」
聞き覚えのある声。
透の手が止まる。
「……今の」
フォールも、包丁を止めた。
「だよなぁ!!」
玄関のドアが開く。
廊下に出た瞬間。
隣の部屋の前で、
段ボール箱を抱えてよろけている少女がいた。
長い髪。
制服の上に羽織ったパーカー。
額に浮かぶ汗。
――芽吹。
「……え?」
芽吹が顔を上げる。
「……一ノ瀬?」
数秒。
誰も言葉を発さない。
次の瞬間。
「なにしてんの!?!?!?」
声が被った。
「……つまり」
フォールが腕を組み、芽吹を見る。
「公安の“安全配慮”って名目で、
このアパートの隣室に配置された、と」
「配置って言い方やめてください」
芽吹は靴を脱ぎながら言った。
「自主的です。……半分」
「半分は?」
「上から“これ以上離れるな”って」
フォールが、ふっと笑う。
「なるほど。
監視対象と監視者が壁一枚か」
透は頭を抱えた。
「ちょっと待て。
なんで俺に何も言わないんだよ」
芽吹は一瞬、視線を逸らしてから言った。
「……言ったら、断るでしょ」
「当たり前だろ!」
「ほら」
その言葉が、強い。
芽吹はもう、
“隣で見てるだけ”の位置にはいない。
「一ノ瀬」
真っ直ぐに、見る。
「あなた、少しずつ消えてる」
透の喉が鳴る。
「だから、
隣で止めることにしたの」
その夜。
壁越しに、生活音がする。
水の音。
椅子を引く音。
鼻歌まで。
――生きている音だ。
透はベッドに仰向けになり、天井を見つめていた。
「……近いな」
「安心するだろ」
フォールの声。
「人間は、“存在”で時間を固定する。
芽吹は今、錨だ」
「……錨って…」
「ただし」
フォールは、静かに言う。
「錨が引きちぎれたら、
俺はお前を縫い止める」
「……それ、どういう」
「血が出る方法だ」
冗談じゃない。
でも、笑ってもいない。
それがフォールなりの愛情だった。
――コンコン。
壁の向こうから、ノック音。
「一ノ瀬。起きてる?」
透は起き上がり、壁に手を当てる。
「……起きてる」
「明日、一緒に学校行こ」
「は?」
「隣人同士だし」
小さく、笑う気配。
透は目を閉じた。
「……勝手にしろ」
「うん。勝手にする」
壁一枚。
けれど今、
芽吹は“世界線を隔てずに”そこにいる。
フォールは天井を見上げ、独り言のように呟いた。
「……完了」



