時を縫う英雄譚

夜が、底に沈む。
雨の匂いを含んだ風が、港湾の倉庫街を吹き抜けた。

無人のコンテナ群。その影の隙間を縫うように、透と芽吹は進んでいた。

虚影の残滓。

――だが、気配が違う。


「反応、ここで途切れてる」


透が針を構える。
掌の糸が淡く光り、時間の痕跡をなぞる。


「……動いてるな」


芽吹の声が低くなる。


「残滓じゃないね。
 誰かが“呼んでる”感じがする。やな感じ」


その瞬間、空気が歪んだ。
影が、跳ねる。


「来るぞッ!」


闇から這い出したのは、黒い腕。
腐食した金属のような光沢。
――虚影の成り損ない。


「クロノ・ステッチ:拘束!」


針が走る。
だが、影は――喰った。
糸が溶け、時間が逆流する。

視界が裏返る。
一秒前の自分が、今の自分を押し流す。


「っ……!?」


胸が締め付けられる。
――名前が、出てこない。


「クロノス!!」


芽吹の声。
次の瞬間、風が叩きつけられた。
嵐のような衝撃が、影と透の間を切断する。

芽吹の風が、透の腕を包み込む。
溶けかけた時間を、無理やり引き戻す。

息が詰まる。
世界が一拍、止まった。


「……助かった」

「そっちこそ。無茶しすぎ」


芽吹の指先が、震えていた。
それを見た瞬間、透の胸が痛む。

恐怖でも、焦りでもない。
失う前兆みたいな痛み。
誤魔化すように、透は口を開いた。


「……ま、俺の弟子としては上出来だな」

「誰が弟子よ。私の方が反応早かったでしょ」

「言うねぇ、イインチョー」


芽吹は呆れながらも、口元だけが少し緩む。
その笑みが、夜の冷気をわずかに和らげた。


上空通信が割り込む。


『おーい弟くん、ヴァイン、生きてる?』


フォールの声。


「心拍数、二人とも乱れすぎ。
 ……で、嫌な反応だ」


声のトーンが落ちる。


『それ、完全な残滓じゃない。
 ECHO計画の“残響体”だね』


芽吹の表情が硬直する。


「残響体……?」

『記憶を喰うやつ。
 刺された時、何か抜けただろ』


透は無意識に、こめかみを押さえた。


――自分の名前を、思い出せなかった一瞬。


「……うわ、最悪だな」


『帰還ルートを確保すること。
 あ。あと、イインチョーは触れるな』


「……でも、逃げたくない」


芽吹の瞳が、揺れない。
危険なのに、止められない。
透はその理由を、まだ言語化できなかった。 


「なら俺が縫う。
 お前は、風で仕留めろ」

「了解!」


針と風。
二人の動きが、噛み合う。
残響体が裂け、黒い波が弾ける。
白い閃光。
――静寂。



戦闘後。
崩れた倉庫の影で、二人は並んで座った。


「……記憶を喰う敵とか、最低ね」

「ああ。
 でも……お前がいて助かった」


芽吹は視線を逸らす。
それでも、ほんの少しだけ口角が上がった。


『青春だなぁ』


通信越しのフォール。


「黙れ」

『あれ、思春期?兄さん悲しいなぁ。
 ……じゃ、兄さんは“後始末”してくる』


その声には、笑いはなかった。

雨が降り出す。
街灯の下、二人の影が重なって滲む。
世界の針だけが、静かに狂い続けていた。