東の空はわずかに白み始めているのに、街全体が眠ったままのようだった。
ビルの谷間に浮かぶ電光掲示板が、無音で文字を流している。
――〈記憶補正キャンペーン〉
透は、足を止めた。
(……昨日、あったか?)
見覚えのない言葉。
なのに、胸がざわつく。
周囲を見渡す。
通勤途中の人々。
犬を散歩させる老人。
コンビニに入る学生。
誰一人、その広告を見ていない。
まるで――
“最初からそこにある“風景”のように。
透は視線を切り、学校へ向かった。
教室に入った瞬間、違和感は確信に変わった。
見慣れない顔が、数人。
同じ制服。
同じ机。
同じ空気。
なのに。
(……誰だっけ)
名前が出てこない。
そもそも「思い出そう」という感覚すら薄い。
「おはよー!」
芽吹の声が、教室に響く。
いつも通りの笑顔。
いつも通りの委員長。
だが、透は気づいてしまった。
芽吹もまた、
その数人を“最初からいた存在”として扱っている。
ホームルーム。
担任は、迷いなく出席を取る。
「……じゃあ、次…秋山洸大」
「はーい」
名前が呼ばれる。
見慣れない顔が、当たり前のように返事をする。
そのやり取りを見ながら、透は拳を握りしめた。
(学校が……違う)
壊れているわけでもなく…
ただ――書き換えられている。
昼休み。
廊下の窓から、街を見下ろす。
電光掲示板が、また同じ言葉を流していた。
〈記憶補正キャンペーン〉
芽吹が、隣に立つ。
「……ねえ、一ノ瀬」
「なんだ」
「昨日まで、あの広告……あった?」
透は、答えなかった。
芽吹の声が、ほんの少しだけ震えていたからだ。
そのとき。
「あれ、気づいちゃった?」
軽い声。
振り返ると、教育実習生――フォールがいた。
ノートを片手に、いつもの調子で笑っている。
「…先生、あれ何ですか」
芽吹が聞く。
「さぁ? 最近の広告は凝ってるからねぇ」
そう言いながら、
フォールの視線は、広告ではなく透を見ていた。
何も言わない。
だが、言わなくても分かる。
(――知ってるな)
夜。
街のネオンが、一瞬だけ乱れた。
信号が点滅し、
広告の文字が、ノイズを走らせる。
透の闇糸が、勝手に反応した。
(……来る)
空気が裂ける感覚。
『……おにいちゃん』
声。
確かに、聞こえた。
透の呼吸が止まる。
「……灯!!!」
返事はない。
声は、もうどこにもない。
ただ、街の色が少しだけ薄くなった。
背後で、足音。
「……今の、聞こえた?」
フォールだった。
透は振り返らない。
「……お前、何を知ってる」
フォールは、珍しく即答しなかった。
「この街はね」
一拍。
「“直され始めてる”」
「誰に」
「さぁ?」
フォールは肩をすくめる。
「でもさ、直すって言葉は便利だよね。
壊した事実を、隠してくれる」
その瞬間。
フォールの右腕に、一瞬だけ光が走った。
見間違いかと思うほど、短い光。
透は、見逃さなかった。
翌朝。
透は机に突っ伏していた。
「一ノ瀬ぇ、寝るなら家で寝ろってーの」
クラスメイトになった、秋山に頭を叩かれる。
「……夜勤明け」
「バイトかよ!」
笑い声が起きる。
教室は、平和だった。
だからこそ、気味が悪い。
芽吹は、クラスの中心で笑っている。
その笑顔の奥に、透はもう別の顔を知ってしまった。
(……裁く側の目だ)
昼休み。
フォールが教室に顔を出す。
「おーい、昼飯誰か付き合ってくれないと寂しいなぁ」
軽口。
笑顔。
いつも通り。
だが、透には分かる。
この男は――
この街がどう壊れているかを知っている。
放課後。
校舎の影で、フォールは空を見上げた。
電光掲示板が、また文字を流す。
〈記憶補正キャンペーン〉
「……眠れない街だ」
誰に言うでもなく、フォールは呟いた。
「人が眠るたびに、
“都合のいい現実”が縫い上がっていく」
透は、その言葉を聞き逃さなかった。
縫い上がっていく。
街は、もう元には戻らない。
――それでも。
透は、闇糸を握りしめた。
救いたい声が、
確かにこの街のどこかにあると知ってしまったから。



