それから、何日も経った。
学校は相変わらずで、授業があって、昼休みがあって、帰りのチャイムが鳴る。
何かが変わったようで、何も変わらない。そんな毎日だった。
春樹とは、言葉を交わさないまま。
目も、ほとんど合わないまま。
その日も、いつも通り下駄箱で靴を履き替えていた。
「咲良ちゃんッ!」
名前を呼ばれて振り返ると、下駄箱の向こうから走ってくる人影があった。
「……和也くん?」
「ごめん、ちょっと話したいことがあって」
息を切らしながらそう言う和也くんは、どこか落ち着かない様子だった。
「話したいこと?」
聞き返すと、和也くんはきょろきょろと周囲を見回す。
「歩きながらでもいいかな?」
「大丈夫だけど……」
「じゃあ、行こっか」
そうして、私たちは並んで校門へ向かって歩き出した。
「和也くん、今日は部活休み?」
「そう。金曜は休みなんだよね」
他愛もない会話。
なのに、どこかそわそわして落ち着かない。
――もしかして。
頭に浮かんだ名前を、私は慌てて打ち消す。
「……それでさ、咲良ちゃん」
少し間を置いて、和也くんが口を開いた。
「春樹の話なんだけど……」
やっぱり。
心臓が、小さく跳ねた。
「あはは……和也くんも、知ってるよね」
「うん」
一瞬の沈黙のあと、和也くんは続けた。
「咲良ちゃん、春樹のこと……好きじゃない?」
その言葉に、喉が詰まる。
――そんなはず、ない。
好きじゃなかったら、毎日こんなふうに考えたりしない。
声や背中を探したりしない。
でも、それを口に出していいのか分からなくて。
しばらく、言葉が見つからなかった。
「……好きだよ」
やっと、絞り出す。
「私、まだ……春樹のこと好き」
声が、少し震えた。
「自分から別れといてさ……ほんと、自分勝手だよね」
視線を落とすと、アスファルトがやけに眩しく見えた。
和也くんは、何も言わずに聞いてくれていた。
「引き止めてくれるって……どこかで、確かめたかったんだと思う」
言葉にしてしまうと、自分の弱さがはっきりして、胸が痛む。
「なのに、春樹はいつも通りで……後悔してるの、私だけ」
「それは違うよ」
はっきりした声に、思わず顔を上げる。
「……え?」
和也くんは真っ直ぐこちらを見ていた。
その視線に、私の足が自然と止まる。
「……春樹はさ」
和也くんは、少し言いにくそうに息を吸ってから続けた。
「咲良ちゃんと別れてからも、ずっと咲良ちゃんのこと好きだよ」
「……そんなはずないよ」
反射的に首を振っていた。
「だって、そんな素振り……全然、なかったもん」
和也くんは、私の言葉を否定しなかった。ただ、静かに続ける。
「見せないだけだよ。咲良ちゃんを傷つけちゃうからって……一緒にいられないって、あいつ泣いてた」
「……なに、それ」
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
「じゃあ……好きなのに、一緒にいることは選べなかったってこと?」
声が震えるのを、止められなかった。
「本当はさ、俺が言っていいことじゃないんだろうけど……」
和也くんは、苦笑いを浮かべた。
「でも、あいつが一人で全部背負うの、見てられなかった」
少しだけ視線を逸らしてから、覚悟を決めたように口を開く。
「あいつ、病気なんだよ」
「……え?」
一瞬、和也くんが何を言っているのかわからなかった。
「春樹、記憶障害なんだ。昔のことが、少しずつ思い出せなくなってて……新しい記憶も、残りにくい」
言葉が、頭に入ってこない。
待ち合わせの時間に遅れたのも。
私の嫌いな食べ物を、間違えたのも。
――あれも、これも。
「……それって」
声が、掠れる。
「遅らせることはできても、治せないんだって」
和也くんは、静かに続けた。
「鈍臭いキャラみたいにさ、あいつ明るく振る舞ってるけど……全部、誤魔化してるだけ」
胸の奥が、じわじわと痛み出す。
「じゃあ……あの日、来なかったのは……」
「祭りに向かってる途中で、忘れちゃったんだ」
その一言で、息が詰まった。
「その時に友達に声かけられてさ。それで、“友達と約束してた”って、勘違いしたんだと思う」
視界が、滲む。
――私、何を言った?
何も知らないまま、一方的に怒って、責めて、突き放した。
春樹の、あの傷ついた顔が浮かぶ。
「『俺じゃダメなんだ』って言ってた」
その声は、とても小さくて、どこか寂しそうだった。
「忘れていくたびにさ、誰かを傷つけるのが一番つらい。だから、最初から離れた方がいいんだって……」
胸が、ぎゅっと掴まれる。
守るために、離れる。
好きだからこそ、手放す。
和也くんは、苦しそうに息を吐いた。
「俺さ、何もいってやれなかったんだ。きっと、俺があいつのそばにいてもダメなんだよ」
それから、真っ直ぐに私を見る。
「……だから」
声が、ほんの少しだけ震えた。
「咲良ちゃん。あいつのそばに、いてやってほしいんだ」
――まだ、春樹の隣にいていいのかな。
ひどいことを言った。
傷つけた。
それなのに。
どんな言い訳を並べたって、私の気持ちは最初から決まっていた。
「……私、春樹のそばにいたい」
そう口にした瞬間、和也くんはほっとしたように、そして少し嬉しそうに笑った。
「それ、あいつに言ってやってよ」
「……うん」
短く頷いて、私たちはその場で別れた。
気づけば、私は走り出していた。
息が苦しくなるほど、足がもつれるほど、それでも止まれなかった。
早く、春樹に伝えたかった。
春樹の家に着き、インターホンを鳴らすと、すぐに扉が開いた。
「咲良……? どうして……」
突然の私に、春樹は戸惑ったように目を瞬かせる。
「春樹、ごめん……。私、何も知らなくて……自分のことしか考えてなかった」
勢いのまま言葉を吐き出すと、春樹はしばらく理解できていないようだった。
「全部、和也くんから聞いたの」
その一言で、春樹の目が大きく見開かれる。
「……和也が?」
「うん。でも春樹のこと思って……」
春樹は少しだけ黙り込み、それから小さく笑った。
「わかってるよ」
その笑顔は、どこか優しくて、少しだけ寂しそうだった。
「とりあえず……家、上がれよ」
そう促されて、私は春樹の家に足を踏み入れた。
――そして、息をのむ。
さっきまで聞いていた話が、ただの言葉じゃなかったことを、否応なく突きつけられる。
家の中のあちこちに、紙が貼られていた。
《鍵を閉めること》
《トイレを出たら電気を消す》
階段を上がった先。
一つの扉には、少し歪んだ文字でこう書かれている。
《春樹の部屋》
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「その辺、座って」
春樹はそう言って、ベッドの端を軽く叩いた。
私は言われるまま腰を下ろす。マットレスが小さく沈んだ。
壁には、紙が何枚も貼られている。
日付、時間、やること。
どれも短い言葉ばかりだった。
「気になる?」
私の視線に気づいたのか、春樹はそう聞いた。
「これ、俺のメモ」
そう言って、まるで笑い話みたいに差し出してくる。
「朝見るやつと、学校行く前のやつと、夜用。あと、忘れやすいこと」
私は言葉を失ったまま、メモを見る。
《7時20分には家を出る》
《携帯、鍵、財布》
《火曜日は体操服》
どれも、当たり前のことばかりだった。私はある一文を見て、拳を強く握った。
《咲良と祭り》
「約束も守れないし、覚えてもいられないし」
春樹は笑う。
「付き合う相手には、最悪だよな」
冗談みたいに言ったのに、目は笑っていなかった。
「だから、咲良が怒ったのも当たり前」
私を見ずに、そう言い切る。
「俺が悪いんだし」
その一言が、胸に落ちた。
責める言葉じゃなくて、もう自分に期待していない声だった。
「……だから、謝んな」
ぽつりと続ける。
「俺に合わせる必要、ないから」
まるで、ここで線を引くみたいに。
自分を守るためじゃなく、切り捨てるための言葉に聞こえて、私は息が詰まりそうになった。
私は、ぎゅっと握っていた手をほどいた。
そして、春樹のメモにもう一度目を落とす。
そこには、今日を生きるための言葉が並んでいた。
「今」をどうにかするための必死な跡。
「……ねえ、春樹」
春樹が、わずかに目を伏せる。
「私はそれでも、春樹のそばにいたいの」
その言葉に、春樹の指がぴくりと動く。
私の声は、震えていたけど、止まらなかった。
「私……忘れられた夜も、悲しかった」
息を吸う。
「でも、それでも……春樹が私を大切にしようとしてたってわかったの」
メモの紙に、そっと触れる。そこには私と話した会話や今日あったことがたくさん書かれていた。
「これ、全部その証拠じゃん」
春樹は一瞬、目を伏せた。
「……この先も俺は咲良を傷つける」
低く、言い切るような声。
「だから」
「それでも!」
思わず声が震える。
「それでも私が一緒にいたいの!」
春樹は苦しそうに顔を歪めた。
「俺、半年後には……自分のことだって、わかんなくなるかもしれねぇんだ」
拳を握りしめる。
「そんな奴が、誰かを幸せになんてできねぇだろ」
私は首を振った。
「私は、幸せにしてほしいわけじゃない」
涙が滲むのを、そのままに続ける。
「ただ、春樹が好きだから、そばにいたいだけ」
一歩、近づく。
「春樹が忘れても私が覚えてるから。何回でも教えてあげるよ」
声が掠れる。
「だから……」
胸に手を当てて、絞り出す。
「だから、そばにいさせて」
沈黙の中で、春樹がかすかに息を吸った。
「……俺、まだ咲良が好きなんだ」
その声は、壊れそうだった。
「だから、幸せになってほしいのに……一緒にいたいって、思ってる」
目が合う。
「咲良のことも、忘れるかもしれない」
「うん」
即答だった。
「デートだって、すっぽかして……また、ひとりで待たせるかも」
「そのときは、私が迎えに行くよ」
春樹の喉が、小さく鳴った。
「この先、きっと何度も……咲良を傷つけると思う」
「大丈夫だよ」
私は、泣きながら笑った。
「それでも、俺といてくれるか?」
「うん」
迷いはなかった。
「私が、春樹といたいの」
笑った瞬間、こぼれた涙が頬を伝った。
春樹は、伸ばしかけた手を一度だけ止めた。
それから、壊れ物を抱くみたいに、私を抱きしめた。
私も、その背中に腕を回した。
この体温も、いつか春樹は忘れてしまうのだろう。
だから、私が覚えておく。
いつか今日のことを、春樹に伝えるために。
このときの私たちは、本気で信じていた。
好きって気持ちさえあれば、なんだって乗り越えられるんだって。
それが、どれほど無謀な願いかも知らずに――
