なつかしい桜の中で、君を感じた


 この一ヶ月で、私の毎日は少しずつ変わっていった。

 学校では、朱里と一緒にいる時間が増えた。
 くだらないことで笑い合ったり、たまには本気で愚痴を言い合ったり。
 お互いに遠慮することがなくなって、気づけば毎日が少しずつ楽しくなっていた。

 一方で、優香と玲奈は別のグループに混ざったらしい。
 朱里の話では、ちょっと浮いているみたいだ。
 四ヶ月一緒に過ごした仲だから、心のどこかに引っかかるものはあるけれど――
 それでも、もう前みたいには戻れないんだと思った。

 そんな中で、春樹と付き合ってからも、いつの間にか一ヶ月が過ぎていた。

 最初は、「本当に付き合ってるのかな?」って、どこか現実味がなくて。
 “付き合う”って、正直どんな感じなのか、全然想像できなかった。

 でも今は、少しわかってきた気がする。

 廊下ですれ違うとき、ふと目が合う瞬間。
 春樹が照れたように笑うたび、胸の奥がぎゅっと温かくなる。

 手を繋いだときの感触も、
 名前を呼ばれる声も、
 全部が、私にとって特別になっていた。

 先週、放課後に寄り道した公園で。
 春樹が何気なく、私の髪を直してくれた。

 それだけで、心臓が跳ねた。

「咲良、こういうとこ可愛いよな」

 そう言われて、耳まで熱くなって顔を隠したけど、たぶん、全部バレていたと思う。

 朱里には「青春すぎる!」なんてからかわれたけど、私も、そう思う。

 それでも――
 こんな日々が、ずっと続けばいいのにって。

 浮かれてるのかな、と思いながらも。
 確かにそこには、幸せを感じている自分がいた。

 私はブランコに座り、足をぶらぶらさせながら、その幸せを分散させていた。
 キィ、と鎖が小さく鳴る。

 そのとき、公園の入口から春樹が入ってくるのが見えた。

「なに暴れてんだ?」

 少し離れたところから、不思議そうな声が飛んでくる。

「幸せを分散してるの」

 そう答えると、春樹は一瞬きょとんとしてから、

「はっ、なんだそれ」

 可笑しそうに笑った。

「自転車で来たの?」

 私は、またがったまま止まっている春樹の自転車を見て、首を傾げる。

「海、行こうと思って」

「……海?」

「そう」

 さらっと言うその感じに、思わず瞬きをした。

「えっ、今から行くの?」

「おう。だから、後ろ乗って」

 どうして、急に海なんだろう。
 そう思いながらも、もう出発する気満々の春樹に、私は慌ててブランコを降り、後ろに座った。

「行くぞ」

「わっ、ちょっと!!」

 最初はバランスがうまく取れなくて、身体がふらふら揺れる。
 思わず春樹の服を掴むと、風を切る感覚が少しずつ安定していった。

「……やっと乗れた」

 二人乗りなんて、いつぶりだろう。
 不安定な姿勢のまま、必死にバランスを取る。そのタイミングで、春樹が少しスピードを上げた。

「ちょっと! ゆっくりにして!」

 声を上げても、春樹はお構いなしにペダルを踏み込む。風を切る音が一気に大きくなる。

「振り落とさないでよ!」

 後ろで体を揺らしながら叫ぶと、前から余裕のある声が返ってきた。

「大丈夫。しっかり掴まっとけ」

 私は思わず、ぎゅっと春樹の背中にしがみついた。
 Tシャツ越しに伝わる体温と、一定のリズムで動く背中。さっきまでの不安が、少しずつ溶けていく。

 最初は戸惑っていた自転車の後ろも、いつの間にか怖さより安心感のほうが勝っていた。

「……意外と、楽しいかも」

「だろ?」

 そう言って笑ったのがわかる。
 その振動が、手のひらに伝わってきて、胸が少しだけくすぐったくなった。

 昼間の暑さはすっかり落ち着き、たまに吹く涼しい風が心地いい。
 さっきまで響いていたセミの声も消えて、代わりに小さな虫たちのかすかな音が夜に溶けていく。

 街灯に照らされながら、私たちはただ、その心地よさに身を任せていた。

 町を抜けて、広がる道路に出ると、周りの景色が少しずつ変わっていった。
 建物の数が減り、視界の先に、きらりと光る青が見える。

「もうすぐだよ。海まであと少し」

 春樹の声に、私は思わず前を見据えた。
 遠くに広がる青い海。風に乗って、波の音がかすかに届いてくる。

 視界が一気に開けた瞬間、胸の奥がふっと高鳴った。

「わあ……すごい。こんなに近くで見るの、久しぶり」

 いつ以来だろう。
 海のすぐそばまで来ると、風はさらに強くなり、波の音がはっきりと耳に届く。自転車のタイヤが砂浜に近づいたところで、春樹がゆっくりブレーキをかけた。

「着いた」

 自転車が止まり、私は勢いよく立ち上がろうとして、思わずバランスを崩す。

「慌てんなって」

 すぐに伸びてきた春樹の手が、私を支えた。
 そのまま手を取られて、私は少し照れくさくなり、顔が熱くなるのを誤魔化すように笑った。

「ここ、座ろうぜ」

 海に近づきながら、春樹は砂を軽くならして、ぽんぽんと叩く。
 その仕草につられて、私はその場所にそっと腰を下ろした。

 目の前には、どこまでも続く海。
 潮の匂いと、波の音が、静かに私たちを包み込んでいた。

 月明かりが静かに波間を照らしている。
 冷たい砂浜に並んで座りながら、私たちの間に言葉はほとんどなかった。

 でも、不思議とそれが苦痛じゃない。

 寄せては返す波の音だけが、途切れることなく耳に届いている。

「こんなに静かなのに、波の音だけはずっと聞こえるんだな」

 春樹がぽつりと呟いた。
 横顔は月明かりに照らされて、いつもより少し柔らかく見える。

「うん……なんか、全部包み込んでくれるみたい」

 私もそう答えながら、手元の砂を指先でそっと撫でた。
 さらさらと指の間をすり抜けていく感触が、今の気持ちに少し似ている。

「どうして、海に来たかったの?」

 ずっと気になっていたことを、思い切って聞いてみる。

「お返し……」

 春樹がそう言って、少し照れたように笑う。
 意味がわからなくて、私は首を傾けた。

「お返し?」

「咲良に、見せたかったんだよ」

 そう言う春樹の表情が、どこか嬉しそうで。
 その瞬間、理由なんてどうでもよくなった。

「うん……ありがとう」

 短い言葉なのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 そのとき、私たちの間に、言葉では言い表せない何かが静かに流れた。
 触れていないのに、心が近づいているのがわかる。

 春樹が、そっと顔を近づけてくる。
 私は逃げることもできず、そのまま目を閉じた。

 静かな波の音と、月明かりに包まれながら、彼の唇が私の唇に触れる。

 その瞬間、胸の奥がふわりと温かくなって、世界が一瞬、止まったような気がした。

 春樹が少しだけ距離を取って私を見つめ、幸せそうに笑った。
 その笑顔はとても優しくて、胸の奥がふわりと温かくなる。

 いつもの軽い笑みじゃない。
 どこか大切なものを見るような、嬉しさを隠しきれていない目。

 その視線を向けられるだけで、心臓が跳ねた。

 ふいに春樹が立ち上がると、迷いなく靴を脱ぎ、海へと向かう。
 波打ち際で足を濡らしながら振り返った。

「来いよ。冷たいけど、気持ちいいぜ」

 無邪気にそう言って笑う。

 私も立ち上がり、少しだけ躊躇しながら隣に並んだ。
 波が足首をさらった瞬間、思わず声が出る。

「っ、冷たい……!」

 でも、その冷たさがくすぐったくて、気づけば二人同時に笑っていた。

「こんなに広い海があるんだからさ」

 春樹は大きく手を広げて言う。

「俺たちの悩みなんて、ほんとちっぽけだよな!」

 深く考えて出た言葉じゃないのかもしれない。
 それでも、不思議と胸の奥にじんわり染みていく。

「……ほんとだね」

 私はそっと波を蹴り、小さく微笑んだ。

 その表情を見た春樹が、少しだけ間を置いて、何気ない仕草で私の手を握る。

 驚く暇もなく、指先から伝わる温もりに心が落ち着いていく。

「海って、冬のほうが綺麗なんだって」

「じゃあ、冬になったら、もう一度来ようよ」

 そう言うと、春樹は短く、

「だな」

 と答えてくれた。

 それだけで、十分だった。

 ――この時の私は、何もわかっていなかった。
 ただ、毎日が幸せで、「もう一度」が当たり前にあるものだと、信じて疑わなかった。