バスのドアが開くと同時に、クラスメイトたちが次々と外へ飛び出していった。
「わー! 空気めっちゃおいしい!」
「すごい! あれ、お城かな?」
「早く写真撮ろうよ!」
口々に歓声を上げながら、みんなが広がる景色に目を輝かせている。
目の前には、歴史ある城下町。
石畳の道が続き、風情ある建物が立ち並んでいた。
どこか懐かしい香りが、風に乗って鼻先をくすぐる。
――そう。今日は待ちに待った遠足の日。
……のはず、だった。
うぅ、気持ち悪い。
バスが目的地に着き、みんなが降りていく頃には、吐き気とめまいで足元がふらつきそうだった。
でも、ここで「酔った」なんて言えない。
みんながこんなに楽しそうなのに、私が足を引っ張るなんて、絶対に嫌だった。
酔い止めも、ちゃんと飲んだのに。
「咲良、早く!」
玲奈が手を振って呼んでくれる。
私は「うん」と小さく返すだけで精一杯だった。
そのとき――
すっと、後ろから低い声が耳に届く。
「咲良、大丈夫か?」
振り返ると、春樹が心配そうな表情で立っていた。
振り返ると、春樹が心配そうな顔で立っていた。
「な、なんともないよ」
慌てて否定する私を、春樹はじっと見つめ、少しだけ目を細める。
「嘘だな」
短く言い切られて、胸がぎくっとした。
春樹はそのまま視線を前に向ける。
クラスのみんなはすでにガイドさんの説明に集中していて、私たちのことには気づいていなかった。
「酔ったんだろ」
その言葉に、私は一瞬、息を詰まらせる。
「……そんなこと、ない」
否定したつもりなのに、声は自分でも驚くほど小さかった。
春樹は小さくため息をつくと、今度は少しだけ柔らかい笑顔を浮かべた。
「俺、咲良と一緒に残るわ。ちょっと具合悪そうだし」
その一言で、周囲の空気が一瞬ざわつく。
「え、大丈夫なの? 咲良」
朱里が心配そうにこちらを振り返った。
「ほんとごめん。ちょっと休めば大丈夫だから……」
慌てて答える私の横で、春樹が「そうそう」と軽く肩をすくめる。
「先生には俺がちゃんと伝えとくから。みんなは先、行ってて」
「わかった。お大事にね!」
「春樹、早く戻ってこいよ! 咲良ちゃんはゆっくり休んでな」
笑顔でそう言い、みんなは「お大事に!」と声をかけながら歩き出した。
その流れの中で、優香だけ足を止めた。
優香は微妙な表情を浮かべたまま、春樹を見る。
「春樹、本当に咲良と二人で大丈夫なの?」
少し強めの口調。
心配というより、どこか引っかかるものを含んだ声音だった。
「ああ、大丈夫だよ」
春樹はあっさりと答える。
優香の表情に潜んだ感情には、気づいていない様子だった。
「でも、私も残ろうか? 咲良のことなら――」
優香が言いかけたところで、春樹が軽く手を挙げて制した。
「優香は先に行っといて。少ししたら、すぐ戻るから」
一瞬、優香の唇がきゅっと結ばれる。
視線が落ちて、空気がわずかに沈んだ。
けれど次の瞬間、彼女は顔を上げ、いつもの笑顔を作った。
「……そっか。じゃあ、よろしくね」
そう言って、優香は足早にみんなの後を追っていった。
その背中が見えなくなってから、春樹は私の方を向き直った。
「ほら、座れよ。無理して立ってると、余計気分悪くなるぞ」
私は言われるまま、その場に腰を下ろした。
けれど頭の片隅には、さっき見た優香の表情が引っかかったままだった。
「おい、大丈夫か?」
「あっ、うん。外の空気吸ってたら、だいぶよくなったよ」
本当は、少しだけ嘘だった。
あの日から、春樹とふたりきりになると、どうしても胸が落ち着かなくなる。
「そっか。無理すんなよ」
春樹はそう言って、私の隣にしゃがみ込む。
軽く伸びをする仕草に、なぜか視線が引き寄せられて、慌てて逸らした。
「そういえばさ、ここの木、全部桜の木らしいぜ」
その言葉に、私は思わず木々を見上げる。
今はまだ葉が茂っているだけで、花の気配はない。
「絶対、桜が咲いたら綺麗だよな」
以前なら、その言葉を聞くだけで胸がきゅっと締めつけられた。
桜が咲くたび、雷の音と、焦げた幹の匂いと、あの日の光景が蘇っていたから。
でも——
今は、違った。
春樹の隣で、何気ない会話を交わしているだけなのに、
心の奥に沈んでいた重たい記憶が、少しずつ溶けていくような気がした。
「春樹……」
私は、ぽつりと彼の名前を呼んだ。
「ん?」
彼は私の方を見て、軽く首を傾けた。
「次に桜が咲く頃には、昔みたいに『綺麗』って思えるかな」
そう口にした瞬間、自分の中で何かが、ふっと軽くなるのを感じた。
春樹はしばらく黙って私を見つめていた。
そして、ゆっくりと柔らかな笑みを浮かべる。
「絶対、思えるよ」
その言葉はまっすぐで、余計なものがなくて、
胸の奥にじんわりと染み込んできた。
「じゃあ……次に桜が咲くとき、一緒に見に行こうよ」
私がそう言うと、春樹は一瞬だけ目を丸くして、驚いたような顔をした。
けれどすぐに、照れたように笑う。
「それ、約束な」
その笑顔を見た瞬間、胸の中に溜まっていたもやもやが、少しだけ晴れていく。
桜が咲く頃には、きっと違う景色が見える。
そんな予感が、確かにあった。
「そろそろ、行くか」
「うん。ありがとう」
そう言って、私たちはみんなの後を追って歩き出す。
強い日差しの中で、ふっと風が吹いた。
その涼しさが、これから先の季節を、少しだけ楽しみにさせてくれた。
春樹と並んで歩きながら、私はその心地よさに目を閉じ、自然と歩調を合わせていた。
周りの景色も鮮やかなはずなのに、気づけば意識は隣にいる春樹に向いている。
「咲良、なんか香水つけてる?」
不意に聞こえた声に、私は驚いて顔を上げた。
春樹は少し眉をひそめ、確かめるように私を見ている。
「え? 香水? なにもつけてないよ」
すぐに首を振る。普段、香水なんて使わない。
「そうなのか?」
春樹は不思議そうに首を傾け、軽く鼻を鳴らした。
「なんかさ……咲良から、桜みたいな香りがする気がして」
思わず目を見開く。
桜? そんなはずないのに。
「桜の、香り?」
聞き返すと、春樹は少し考えるように視線を上げてから、ふっと笑った。
「うん。あったかくて、春っぽい匂い」
私は言葉を失ったまま、ただ歩き続ける。
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
「さすがに、名前に引っ張られてない?」
私は少し笑ってそう言った。
「じゃあ、そうかも」
春樹も笑い返した、その直後だった。「あ」と声を上げて、何かに気づいたように足を止める。
「俺、ちょっとトイレ行ってきていいか?」
「うん。私はここで待ってるね」
「悪い!」
そう言い残して、春樹は駆け足でトイレの方へ消えていった。
ひとりになり、私は近くのベンチに腰を下ろす。
何気なく視線を巡らせると、少し離れた場所に優香と玲奈の姿が見えた。
……まだ、春樹は出てこないよね。
私は一度トイレの方を確認してから、立ち上がる。
優香たちに近づこうとした、そのときだった。
「ねえ、正直のところ――咲良のこと、どう思う?」
自分の名前が聞こえた瞬間、心臓が跳ねた。
反射的に、近くの建物の陰に身を隠す。
……え。
私の、話……?
「正直、私たちと合わないよね~」
優香の声は、軽くて、冗談みたいだった。
「やっぱり? 朱里はいいんだけどねー」
玲奈も、くすっと笑いながら応える。
「奇数は面倒だから一緒にいるけどさ。咲良って、いつも無理して話合わせてる感じするし」
「そうそう! 無理に入ってこないでほしい」
その一言で、胸がぎゅっと締めつけられた。
聞いちゃいけない。
頭ではそう分かっているのに、足が動かない。まるで床に縫い止められたみたいに、私はその場から逃げられずにいた。
二人の声が、容赦なく耳に流れ込んでくる。
「それにさ、酔ったとか言ってたけど、あれも嘘なんじゃない? ほんと迷惑すぎるんだけど。せっかく春樹と回れると思ったのに」
「わかる。もしかして、春樹のこと狙ってるとか?」
「春樹、優しいからさぁ。自分のこと好きって勘違いしてそう」
――合わないよね。
――無理に入ってこないでほしい。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
胸が痛い。
息が詰まる。
私の居場所なんて、最初からなかったんじゃないか。
そう思った瞬間、体の中がすとんと空っぽになるような、ひどい喪失感に襲われた。
……全部、無駄だったんだ。
立ち尽くしたまま動けずにいると、背後から足音が近づいてくる。
そして、次の瞬間——
「お前ら、それ本気で言ってんの?」
低く、はっきりとした声が空気を切り裂いた。
咲良も、そして玲奈と朱里も、同時に息を呑む。
振り返ると、そこに立っていたのは春樹だった。
いつもの柔らかな表情はなく、冷え切った目で二人を真っ直ぐに睨みつけている。
玲奈が戸惑ったように笑った。
「え、春樹? 何の話?」
「お前らが、さっき言ってたこと。全部聞こえてんだよ」
朱里が慌てて両手を振る。
「ただの冗談だって」
「そうそう」
軽く流そうとする二人に対して、春樹は一切表情を変えなかった。
むしろ、一歩前に出る。
「自分たちの都合で人を傷つけて、それで平気な顔してんのか」
低く、鋭い声だった。
その瞬間、二人の顔から笑みが消える。
「ちがっ――」
玲奈が反論しようと口を開いたが、春樹はそれを許さなかった。
「お前ら、最低だな」
吐き捨てるようにそう言うと、春樹は私の腕を掴んで歩き出す。
「えっ、春樹……」
一瞬だけ振り返ると、玲奈と朱里は何も言えず、その場に立ち尽くしていた。
しばらく腕を引かれるまま歩き続け、人気のない場所まで来たところで、春樹はようやく足を止める。
そして、私に向き直った。
さっきまでの張り詰めた空気が、ふっとほどける。
春樹の表情は、いつもの優しいものに戻っていた。
「大丈夫か?」
私は俯いたまま、小さく頷いた。けれど胸の奥では、温かいものがじわりと広がっていくのを感じていた。
「今まで嫌われないようにって、頑張ってきたのに……結局、意味なんてなかったんだね」
誰に向けるでもなく、独り言のように呟く。
「優香たちが言ってたことも、全部間違いじゃなくて……何も言い返せなかった」
話を合わせていたのは事実だし、それで合わないって思われるのも、きっと仕方ない。
「それでも、あいつらは――」
春樹が納得できない様子で口を開いたけれど、私はその先を待たずに続けた。
「正直、最初はすごく傷ついたよ。でも……春樹が、私のために怒ってくれたから」
胸の奥で、何かがふっとほどける。
「それだけで、もう大丈夫」
私はゆっくりと息を吸って、心の中に溜まっていたもやもやを吐き出すように、思いきり笑顔を作った。
「うん、もう大丈夫!」
自然にこぼれたその言葉と一緒に、胸の重さがすっと軽くなる。
今までずっと、誰かに合わせて無理をしてきた。でも――もう、それを背負わなくてもいい。
そう思えた瞬間、肩の力が抜けていくのがはっきりと分かった。
春樹の顔が一瞬、驚いたように強張った。けれどすぐに、いつもの優しい笑顔に戻る。
「俺はさ……そういう咲良が、好きだよ」
その言葉に、胸が跳ねた。顔が一気に熱くなって、心臓の音がやけに大きく響く。
そんなふうに思ってくれているなんて、正直、想像もしていなかった。
でも、春樹の目は真剣で、笑顔はあたたかくて、嘘なんてひとつも感じられなかった。
――気づけば、春樹は私にとって、とても大切な存在になっていた。
公園で交わしたあの約束も、夜に並んで歩いた時間も、いつの間にか私の居場所になっていた。
無理をしなくてもいい。
作らなくてもいい。
そのままの私で大丈夫だと、春樹は教えてくれた。
息を呑み、言葉を探す。頭の中で何度も考えたはずなのに、考えるより先に、自然と口が動いた。
「……私も、春樹のことが好き」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
春樹の目が少しだけ見開かれる。
そして次の瞬間、その瞳がやさしく細められた。
嬉しそうな表情に、胸の鼓動がさらに早くなる。
「……本当に?」
その言葉には、少しの驚きと、確かな喜びが混ざっていた。
私は頷きながら、春樹の目をまっすぐ見つめ返す。
「うん。本当」
それが、今の私の答えだと、迷いなく思えた。
春樹の口元がふっと緩み、照れたような笑みがこぼれる。そして、ゆっくりと私に手を差し出した。
「俺と付き合ってほしい」
「うん!」
私は迷わずその手を取った。
彼の手のひらはあたたかくて、触れた瞬間、胸の奥まで安心が広がっていく。
「咲良ー!」
遠くから私を呼ぶ声がして、思わず振り返った。
朱里がこちらに向かって駆けてきている。
「え、朱里? どうしたの」
肩で息をしながら、朱里は「実はさ……」と切り出した。
どうやら、春樹が優香たちと揉めていた場面を見ていたらしい。
「春樹が行ったあと、私が出てったらさ……今度は春樹のこと悪く言ってて。ほんと、人って簡単には変わんないよね」
苛立ちを滲ませる朱里の言葉を聞きながら、私は胸の中で静かに考えていた。
私は一度息を吸って、そっと口を開いた。
「朱里、私ね……本当は C-BlO が大好きで。でも、前に話してたドラマは見たことないし、本当はカラオケも苦手で……」
言葉を絞り出すように告げると、朱里の目が一瞬だけ大きく見開かれた。
「え、そうだったの?」
意外そうな声だったけど、そこに棘はなかった。
「えー! それ、言ってくれればよかったのに!」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「だって、そんなの気にする必要なくない?」
朱里の声は、思っていたよりずっと明るかった。
「でも……」
私は言葉を探しながら、続ける。
「みんなの話についていけないのが怖くて。だから合わせてただけで……本当のこと言ったら、困らせちゃうんじゃないかって思って」
話すほどに、声が小さくなっていくのが自分でもわかった。
朱里は何も言わず、じっと私を見ていた。その視線が少し重くて、思わず目を逸らしたくなる。
しばらくして、朱里は「はぁ」と小さくため息をついた。
「ねえ、咲良」
朱里はまっすぐ私を見て、続けた。
「誰かに合わせることが優しさだって思う時もあるけどさ。本当の優しさって、ちゃんと自分を出すことだと思うよ」
その言葉が、胸にじんわりと染み込んだ。
私は小さく、でも確かに頷く。
「……うん」
「じゃあさ!」
朱里はぱっと表情を切り替え、声を明るくした。
「また今度、C-BlOのおすすめの曲とか教えてよ! 私もおすすめのドラマ教えるし!」
「いいの? 本当はね、すすめたい曲いっぱいあるんだ!」
思わず笑いながら返すと、朱里もつられるように笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸に張りついていた緊張が、少しずつ溶けていくのがわかった。
――話を合わせないと、嫌われるんじゃないか。
ずっとそう思っていた自分が、なんだか馬鹿みたいに思える。
朱里は最初から私の気持ちを否定しなかった。
それどころか、こんなふうに受け止めてくれる。
朱里の「教えてよ」という言葉は、
まるで「それでもいいんだよ」と背中を押してくれるみたいだった。
「あっ、あとね……」
私は一歩後ろに下がり、少し離れたところに立っていた春樹へ視線を向ける。
目が合うと、春樹は私の意図を察したように、そっと微笑んだ。
その優しい表情に背中を押されるように、深呼吸をひとつ。
私はもう一度、朱里に向き直った。
「朱里、実はね……春樹と付き合うことになったの!」
少しだけ息を吸ってから、思い切って言った。
朱里は一瞬きょとんとして、次の瞬間、目を見開く。
「……え? 嘘でしょ!? いつの間に!」
「ほんと、今さっきなんだけど」
そう答えると、朱里は一拍置いてから、ぱっと顔を輝かせた。
「なにそれ! おめでとう!」
まるで自分のことみたいに喜んでくれるその様子に、胸がじんと熱くなる。
「ありがとう!」
自然と、笑顔がこぼれた。
「あ、あいつらからめっちゃ連絡きてたわ」
春樹がスマホを覗き込みながら、少し困ったように言う。
「だよね。そろそろ合流しないと」
「じゃあ、いろいろあったけど……食べ歩き、再開!」
朱里のその一言で、空気がまた一気に明るくなる。
それから春樹の友達とも合流して、私たちは城下町を思いきり満喫した。
計画していた肉寿司に、映え団子、フルーツ飴。
次から次へと食べ歩いて、気づけばお腹はすっかり満腹だ。
「ふぅ……さすがに、もう限界」
朱里はお腹をさすりながら、大きく息を吐いた。
「じゃあ、最後に参拝しよーぜ!」
「ここ、縁結びスポットらしいよ」
「まじか! それは行かないと!」
男子たちが興味津々に目を輝かせる。
私たちは笑い合いながら、石段を一段ずつ登り、神社へと向かった。
参拝に訪れた人たちが、静かに列を作り、順番を待っている。
私もその列に並び、前へ前へと、ゆっくり足を進めた。
前にいる人たちは、どこか穏やかな表情で。
きっとそれぞれ、胸の奥に大切な願いを抱えているのだろう。
ようやく私の番が来る。
五円玉を賽銭箱へ投げ入れると、鈴の音が澄んだ空気に響いた。
手を合わせ、そっと目を閉じる。
心の中で、願ったのはただ一つ。
――春樹と、これからもずっと一緒にいられますように。
その想いが空へ溶けていくようで、境内には、しばらく静かな時間が流れていた。
きっと、このとき。
私たちは、同じ気持ちだったよね。
