なつかしい桜の中で、君を感じた

 
あの日から早くも一ヶ月が経ち、私たちの約束は今も続いていた。
 学校が終われば公園へ向かう。それが私の日常になっていた。初めはバンドの話ばかりだったのに、今では日々の些細なことまで話すようになっていた。

 休み時間、教室のざわめきが心地よく響く中、私は何気なく周りを見渡していた。ふと、視線が春樹と交錯した。その瞬間、彼の目が私を捉えて、すぐに小さな微笑みを浮かべてくれた。

 その笑顔に、私は思わず胸が高鳴る。

「おい、春樹!」

 友達の一人が大きな声で春樹を呼ぶ。
 春樹はすぐにそちらへ顔を向け、「おう、今行く!」と返事をしたあと、私に一瞬だけ視線を戻して、もう一度微笑んだ。

 その笑顔が、また私の心に残る。
 けれど春樹はすぐに、友達の輪の中へ戻っていった。

 春樹とは学校では今でと同じで特に変わったことはない。私たちはそれぞれの生活を続けている。でも、今のように目があったら微笑んでくれるようになった。

「なんだか天気悪いねー」

 誰かの呟きに、私は窓の外を見上げる。厚い雲が空一面を覆い、太陽の姿は見えない。

 胸がざわつき、慌ててスマホで天気予報を調べる。
 降水確率は五十パーセント。春樹との約束は、雨の日には中止になる。

 ――神様、どうか雨が降りませんように。

 心の中で強く祈った。

「咲良ってさ、最近なんか楽しそうだよね?」

 突然声をかけられ、顔を上げると、ミルクティーのパックを手にした朱里が目の前の席に座りながらじっと私を見つめていた。

「えっ、そうかな?」

 戸惑いながら答えると、朱里はニヤリと笑った。

「わかった!好きな人できたんでしょ?」

 その一言に、心臓が跳ねた。

「ち、違うよ!」

 必死に否定しながらも、頭の中には春樹の顔が浮かぶ。
 あの、少し照れたような笑顔。

 ――なんで、春樹が?

 自分でも理由はわからない。ただ、気づけば胸の奥がざわついていた。

「ほんとに?」

 朱里が少しだけ疑いの目を向けてきた。その目線に、私は焦って言葉を続けた。

「だ、だから違うって!」

 その反応が逆に自分を追い込んでいる気がして、心臓の鼓動はますます早くなった。胸の奥がドクドクとうるさくて、どうしてこんなにも動揺しているのか、自分でもまるでわからない。

「ま、いいけど〜」

 朱里は肩をすくめ、気にも留めていない様子で笑いながら、またミルクティーを口に運んだ。

 休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、教室の扉が開いて先生が入ってくる。

「やばっ」

 朱里はそう呟くと、慌てて自分の席へ戻っていった。

 始まりの挨拶を終えると、先生はチョークを手に取り、黒板に向かって文字を書き始める。

「えー、この時間では遠足のグループを決めてもらおうと思います」

 その一言で、教室の空気が一気に弾んだ。あちこちから期待に満ちた声が上がり、みんな嬉しそうな表情を浮かべている。

「やったー!」
「一緒になろう!」

 楽しげな声が飛び交い、私もその高揚感に、いつの間にか引き込まれていた。

「何人でもいいけど、少なくとも四人以上。誰も一人にならないように組んでねー」

 先生の言葉はそう告げたけれど、もうクラスのざわめきにかき消されている。

 一斉に立ち上がると、私は朱里たちの席へ移動した。

「遠足、どこ行くんだろ?」
「なんか、城下町らしいよ」
「やったー!食べ歩きしよ!」

 楽しげな三人の会話に混ざりながら、私も自然と笑って話していた。

「うちらは、この四人でいいよね?」

 優香がそう言ってこちらを見る。みんなが当たり前のように頷き、私もそれに続こうとした――その時だった。

「なぁ、咲良」

 突然、後ろから名前を呼ばれて、私は驚いて振り返った。そこには春樹と、いつも一緒にいる男子二人が並んで立っている。

「どうしたの?」

 私は少し戸惑いながら聞く。

「よかったらだけど、俺たちとグループ組まない?」

 春樹の言葉に、私は思わず「えっ!」と短く声を上げてしまった。心なしか、クラスから注目されているような気がして、少し焦る。

「こいつらがさ、どうせなら女子と組みたいって」
「だって、男子だけじゃつまんないだろ!」

 春樹の後ろにいる男子が、ちょっと照れくさそうに言った。

「私は全然、大丈夫だけど……」

 ひとりで決めていいことじゃないよね。私は答えを求めようとみんなの方を振り返る。

「えっ! 組みたい、組みたい!」
「私たちも全然、大丈夫だよ!」

 優香と玲奈は嬉しそうにテンションをあげて答えた。

「朱里もいいよね!」
「もちろん!」
「よっしゃ! じゃあ、このメンバーで決まりな!」

 みんな笑顔で頷き合った。

「決まった班から報告しに来てくださーい」

 先生がみんなにそう呼びかける。

「じゃあ、俺たち報告してくるわ」
「わかった。よろしく〜」

 私たちはそう言って春樹たちを見送った。

「待って、待って! 春樹たちと組めるなんて!」

 優香が目を輝かせながら声をひそめて言う。

 「そんなに嬉しいの?」

 私が聞くと、玲奈がすかさず口を挟む。

「だって優香、春樹のことーー」
「ちょ、ちょっと! 玲奈!」

 優香が慌てて玲奈の言葉を遮る。

「え、そうなの?」

 私が少し驚いて聞くと、優香は恥ずかしそうに笑いながら言った。

「別に、そんなんじゃないけどまあ、……ちょっと気になるっていうか」

「優香、ずっとかっこいいって言ってたもんね」

 朱里が同意するように言う。

「でもさ……」

 優香がちらっと私を見る。その目は少し探るようで、なんだか落ち着かない。

「なんで春樹、咲良に声かけたんだろうね?」
 
「え?」

 私は戸惑って言葉に詰まる。

「だってさ、わざわざ咲良に声かけるなんて意外だよね。咲良を誘ってるように見えたし?」

 玲奈が少し悪戯っぽく言う。

「そ、それはたまたまだよ!」

 私はそう言いながら笑ってみせたけど、なんとなく優香の視線が刺さるような気がした。

「女子と組みたいって言ったんだから、誰でもよかったんじゃない?」

 朱里はあまり気にしていないようにそう言った。

「……まあ、春樹と咲良って、そんなに仲良くないよね」

 優香が私をチラッと見て言った。その言葉は何気ないフリをしていたけど、明らかに刺すようなニュアンスが含まれていた。

「じゃあ、どの店回るか作戦会議しよっか!」

 朱里が空気を変えるように明るく言って手を叩いた。
 でも、優香の態度が気になったまま、私はどこか落ち着かない気持ちでその場にいた。

 私は家に帰ると自分の布団に飛び込んだ。

「優香が春樹のことーー」

 その言葉がなんだか頭から離れなかった。春樹が私の名前を呼んだ瞬間、少しだけ嬉しかった気がする。
 でも優香は春樹のことが好きなんだよね。いつもかっこいいと言うのはなんだか、もうそういうノリのような感じだと思っていた。

 どうして、こんなにモヤモヤしているのだろう。
 答えはわからないまま、しばらく天井を見つめていた。部屋が少し暗くなり、携帯を取り出すと、もうすぐ約束の時間だということに気づく。

 急いで支度をして玄関を出る前、私はそっと外を覗いた。分厚い雲が月を隠し、辺りは真っ暗だ。雨はまだ降っていないけれど――春樹、来るかな。

 そんな不安を胸に抱えたまま、私は公園へ向かって歩き出した。

 公園に着くと、ひんやりとした空気が肌を包んだ。街灯がぼんやりと地面を照らし、周囲には静けさが広がっている。私は約束の場所で足を止め、春樹の姿を探した。

 けれど、胸の奥に小さな不安がじわじわと広がっていく。空を見上げると、雲はさらに厚みを増し、冷たい風が頬を撫でた。

 ――ポツン。

 手の甲に、冷たい感触が落ちる。次の瞬間、ポツポツと雨が降り始めた。

 このまま強くなるかもしれない。そう思った私は、急いで近くの屋根付きのベンチへと駆け込んだ。

 雨は次第に音を立てて強まり、公園全体を覆い尽くすように激しく降り注いだ。私はベンチの下に身を寄せ、濡れないように体を小さくする。周囲に人影はなく、耳に届くのは雨が地面を叩く音だけだった。

 ――ふいに、空が白く閃く。

 反射的に目を閉じた、その直後。

 ゴロゴロ……という低い唸りのあと、大きな雷鳴が公園に響き渡った。

「……っ」

 雷鳴が再び轟いた瞬間、私は反射的に耳を塞いだ。心臓が激しく脈打ち、息が急に苦しくなる。冷たい雨音が遠ざかるように感じて、頭の中が真っ白になった。

 私は膝を抱え込み、震える体を必死に抑えようとする。けれど、どれだけ力を入れても震えは止まらない。

 そして、次の雷鳴が響いたその瞬間。

 ――幼い頃の記憶が、鮮明によみがえった。

 あの日も、こんなふうに激しい雷雨だった。

 息が浅くなる。空気を吸おうとしても、胸が締め付けられるようで、うまくいかない。
 頭がくらくらして、視界がにじむ。

 大丈夫。落ち着け。
 そう思うのに、体はまるで言うことを聞かなかった。

 息ができない。
 ――苦しい。

「咲良!」

 遠くから、聞き覚えのある声がした気がした。雨音にかき消されそうになりながらも、それでも確かに――私を呼んでいる。
 胸が締め付けられる感覚の中、私はかすかに顔を上げる。

 雨の中、こちらへ駆け寄ってくる人影が見えた。雷鳴が一瞬、その姿を照らし出す。

「……春樹?」

「大丈夫か! お前、これ……過呼吸」

「私……雷が、ダメで……」

 消え入りそうな声でそう伝えると、春樹はすぐ目の前にしゃがみ込み、迷いなく私を抱きしめた。

「大丈夫だから、ゆっくり呼吸しろ」

 春樹は優しくそう言って、私の耳を両手で塞いでくれた。雨音と雷鳴が遠のき、代わりに彼の声だけが、すぐそばで聞こえる。

「ゆっくり吸って……吐いて」

 その声に導かれるまま、私は必死に息を整えようとする。うまくできなくても、春樹は焦らせることなく、何度も同じ言葉を繰り返してくれた。

 遠くで雷鳴はまだ響いていたけれど、春樹の手のぬくもりが、私を確かに現実につなぎ止めてくれていた。

 雨の音は徐々に弱まり、雷鳴も遠くへと消えていく。私は春樹のそばで、ただ静かに座っていた。

 春樹は何も聞かず、何も言わず、ただ私の隣にいてくれる。その距離が、今はとても心強かった。

「……春樹、ありがとう」

 しばらくして、ようやく絞り出すようにそう口にすると、春樹は少し照れたように「気にすんな」と軽く笑って答えた。

 その笑顔を見た瞬間、胸の奥に押し込めていた記憶が、静かに揺れ動き始める。

 ずっと閉じ込めていたはずのものが、今にも溢れ出しそうで――私は、視線を落とした。

「あのね……」

 私は小さく息を吸い込み、震える声で話し始めた。

「昔、まだ小学生だった頃、家族で桜を見に行こうって約束したことがあったの。でも、その日は雨が降って、行けなくなっちゃって……」

 春樹は、何も言わずに私の顔を見つめている。その眼差しがあまりにも優しくて、止めていた言葉が、自然とこぼれ落ちた。

「でも、雨が降ったら桜が散っちゃうから……どうしても行きたくて」

 私はぎゅっと拳を握りしめる。心の奥にしまい込んでいた記憶が、昨日のことのように鮮明によみがえってきた。

「家を飛び出したんだけど……近所のおばあちゃんに見つかって、危ないからって家に入れてもらったの。でも、そのあと……お父さんが、私を追いかけて来て」

 自分の喉が鳴る音が、やけに大きく聞こえた。ここから先を話すのが、怖い。それでも――春樹にだけは、伝えたかった。

「お父さん……桜の木のそばまで行ったところで、雷が落ちたの。桜の木が真っ黒に焦げて……」

 そこで、言葉が詰まる。

「……お父さん、そこに、いたから」

 声は震え、途中で途切れた。視界が滲み、涙があふれて、もう言葉にならなかった。

「そのあと……お母さんが迎えに来てくれたんだけど、すぐにお父さんのところに行って……」

 私は春樹の顔を見られないまま、視線を落とし続けた。

「桜の木の下で……お母さん、ずっと泣いてた」

 喉の奥が詰まって、言葉がかすれる。

「それ以来、雷が鳴ると……そのときのこと、全部思い出しちゃって」

 話し終えた瞬間、胸の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出した。堪えていた涙が、止まらない。

「……あの日のこと、全部忘れたい」

 私は涙をぬぐいながら、ぽつりと呟いた。

 次の瞬間、ずっと話を聞いてくれていた春樹の声が、静かに響いた。

「忘れちゃダメだよ」

 その言葉に、私ははっとして顔を上げる。彼の瞳は真剣で、迷いも揺らぎもなかった。

「忘れたいって思うかもしれないけど……でも、忘れちゃダメだ」

「どうして……?」

 喉の奥から絞り出すように問いかけると、春樹は少しだけ微笑んで、穏やかに続けた。

「その日を忘れたら……お父さんのことまで、忘れちゃうだろ?」

 言葉を選ぶように、一度だけ間を置く。

「お父さんが咲良のことを、どれだけ大事に思ってたのか……それまで全部、なくなっちゃう」

 言葉に詰まった私の肩を、春樹はぎゅっと掴んだ。その手の温もりが、じんわりと伝わってくる。

「辛い思い出は、簡単には消えない。でも……忘れるのは、きっとお父さんも悲しいよ」

 その言葉に、私の目からまた涙がこぼれた。でもそれは、さっきとは違う涙だった。

 私は春樹の言葉を胸の奥で受け止めながら、ずっと押し固めていた感情が、少しずつ形を変えていくのを感じていた。

「……そうだね。忘れちゃ、いけないよね」

 私は小さく頷き、深く息をついた。

 春樹はその様子を見て、安心したように微笑み、私の頭を軽くぽんと叩く。

「無理して、一人で抱え込む必要なんてないから」

 その言葉を聞いた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。

 痛みが消えたわけじゃない。
 それでも、抱えたままでも前を向いて生きていける――
 そんなふうに、少しずつ思えるようになった気がした。

「……うん、ありがとう」

 静かな夜。
 いつの間にか、空には星が瞬き始めていた。

 春樹と私は、そのまましばらく並んで座っていた。

 言葉はなくても、同じ時間を共有していることが伝わってくる。
 それだけで――今の私には、十分だった。