あの桜が咲き誇っていた季節が、今はずいぶん遠いものに感じられる。ついこの間まで街中が淡いピンクに染まっていたのにな、と私は机の上で携帯を触りながら考えていた。
三ヶ月近くが経ち、今は青々とした葉がぎっしりと茂っている。窓から差し込む日射しは、葉の隙間を縫うように教室へ強く降り注いでいた。四月には緊張した表情が多かった教室も、今ではすっかり落ち着いた雰囲気だ。
最初はぎこちなかった会話も、今では冗談が飛び交い、笑い声が自然と広がるようになっていた。
木陰は少し涼しいけれど、一歩外に出れば、じわりと肌にまとわりつく湿気がある。少し歩いただけで、額に汗が滲むほどの蒸し暑さだった。
「はあ~、今日も暑いね!」
小走りでこちらに向かってくる朱里は、片手にお弁当を握りしめ、息を切らしていた。
「朝は涼しかったのにさ、お昼になると暑すぎて汗かいちゃうよ!」
「そろそろ、夏服に変えなきゃねー」
そう言って、朱里は隣の席に腰を下ろす。
朱里は、席順が前後だったこともあって最初に仲良くなった子だ。誰と仲良くなるか手探りだった入学当初から、朱里はいつも明るく、どんな話でも笑顔で受け止めてくれた。
「はぁー、やっとお弁当食べられる!」
「授業中ずっとお腹鳴りそうでやばかったあ」
そう言いながらやってきたのは、優香と玲奈だった。
私たちは机を向かい合わせ、お弁当箱を広げる。もともとは私と朱里だけだったグループに、ふたりが加わり、今では四人になっていた。
「あっ、そうだ。昨日のドラマ見た人!」
「ああ、見た見た!」
「私も!」
お弁当を口に運びながら、優香が切り出すと、玲奈と朱里がすぐに反応する。
「あのシーンほんと最高だったよね!」
「あそこでハグはやばすぎた」
三人は目を輝かせて盛り上がる。
どうしよう。完全に出遅れた。
楽しそうな輪の中で、私は一瞬、自分だけが会話に入れていないことに気づいた。
「あれ、咲良ってあのドラマ見てなかったっけ?」
朱里が気づいて、こちらを振り返る。
胸の奥で、「仲間外れにされたくない」という気持ちが渦を巻く。
「えっと……見てはいるんだけど、昨日は見れなくて。録画してあるから、今日見ようかなって」
心臓の音をごまかすように、笑顔を作った。
「なんだあ、早く言いなよ。めっちゃネタバレしてたじゃん!」
「ほんとだよぉ」
三人が笑うのを見て、少しだけ肩の力が抜ける。
それでも、胸の奥のもやもやは消えなかった。罪悪感を抱えたまま、私は嘘をやめられずにいる。
話題がひと段落し、また別の話が始まった。
「そういえばさ、みんなこのバンド知ってる?」
玲奈が携帯の画面を差し出す。
「これ知ってる!」
「最近流行ってきてるよね」
私は画面を覗いたが、見覚えはなかった。それでも、みんなの反応を見て「あぁ、これね」と合わせる。
「夏休みに近くでライブするみたいでさ。みんなで行かない?」
「行こ行こ」と話が進んでいく中、玲奈がふと私を見た。
「どうしたの?」
「咲良がつけてるそのキーホルダー、どっかで見たことある気がして……」
玲奈が指さしたのは、私の携帯からぶら下がるキーホルダー。好きなバンドのゆるキャラ、ギタウサだった。
独特なリズムで、知名度は高くないけれど、歌詞が深くて心に響く。
本当は話したかった。でも、この話題を出すのが怖くて、ずっと避けてきた。だから触れてもらえたことが、少し嬉しかった。
「このキャラクター、このバンドのゆるキャラなんだよ!」
勢いで、昔友達と行ったライブの写真を見せる。
「これ、前ライブ行ったとき前座やってたやつじゃない?」
「ああ、歌詞薄っぺらくて全然印象残らなかったバンド?」
「ふたりとも、咲良の好きなバンドなのに言いすぎだよ」
玲奈が注意し、朱里が少し強めの口調で庇ってくれた。
「咲良、あんなバンド好きだったんだ」
「あっ……でも」
咄嗟に口が動いた。
「昔、友達の付き添いで行って、お揃いで買ったから。愛着湧いちゃっただけなんだ」
また嘘をつく。視線が一斉に集まる。
「あんなマイナーなの好きとか珍しいよね」
信じてもらうために、さらに嘘を重ねた。
「あはは、だよね」
「付き添いのライブってガチで暇じゃない?」
「それなー」
玲奈が同意を求めるように笑いかけてくる。私はそれに合わせて、作り笑いを返した。
胸が苦しい。
本音と、求められる自分の間で揺れ続けることに、疲れていた。
本当はひとりが好きだ。でも、誘われたら断らない。休みの日の予定を無理やり埋めて、カレンダーを眺めて安心する。
「咲良がやっぱ一番だわ!」
その言葉を聞くと、肯定された気がして、少し救われる。
「優香ほんと面食いだよね。このボーカルもイケメンだし……ほら、春樹くんも」
春樹という名前に、体が小さく跳ねた。
「やっぱ、クラスだとダントツだよね」
視線の先で、春樹はいつも人の輪の中心にいる。
休み時間になると、自然と人が集まり、雑談やゲームの話題が途切れない。騒がしいのに、不思議と居心地がいい。
派手ではないけれど、目を引く存在。背が高く、すらりとした体型で、女子からの人気も高い。
入学式以来、話す機会はあっても、深く関わることはなかった。
「春樹っ!」
廊下から呼ばれ、視線が向く。
体操服の袋を掲げた男子が立っていた。
「ありがと! まじで助かった!」
「いいって。でも明日使うから絶対入れんなよ?」
「ちゃんと、わかってるって!」
「お前の“ちゃんと”信用できねぇんだよな。前も漫画返さなかったし」
そのやり取りを聞きながら、玲奈が小声で言った。
「あのふたり、地元一緒らしいよ」
「だから仲良いんだ。帰りも一緒だもんね」
予鈴が鳴り、会話は途切れる。
「じゃ、今度ジュース奢れよ!」
「それでチャラな」
笑いながら戻ってくる春樹。
「また忘れ物かよ」
「春樹って、ほんと抜けてるよな」
「お前も今日の課題、忘れてたけどな」
春樹は楽しそうに笑っている。
どうしたら、あんなふうに自然でいられるんだろう。
繕わなくても受け入れられる春樹が、少し羨ましかった。
放課後、廊下ですれ違ったとき、春樹が一瞬だけ足を止めた気がした。
「どうしたの?」と声をかける間もなく、彼はまた歩き出していた。
駅の改札を抜けると、すぐに人の流れが広がった。
私はその流れに逆らうように、足早にホームへ向かう。辺りはすっかり夕暮れで、空はオレンジから濃紺へと色を変えつつあった。
電車に乗り込み、空いている席を見つけて腰を下ろす。重たい体を預けると同時に、電車はホームを離れ、ガタンゴトンという音とともに揺れ始めた。
――疲れた。
心の中で、誰に聞かせるでもなく呟く。
学校には友達もいる。いじめられているわけでもない。それなのに、胸の奥がひどく息苦しい。
窓の外を流れていく景色を、ぼんやりと目で追う。
いつからだろう。相手の顔色を窺うようになったのは。
最初は本当に些細なことだった。
「どっちがいい?」と聞かれれば、「どっちでもいいよ」と答える。行きたくない場所にも、「楽しそうだね」と笑う。
気づけば、嘘ばかりついていた。
誰かと一緒にいるためには、それが一番簡単だった。合わせていれば、嫌われることはない。
――その代わりに。
日に日に、自分が薄れていくのを感じていた。
駅に到着する少し前、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
電車の揺れが、まるで私をどこか遠くへ連れて行ってくれるような錯覚を覚えながら、ただそのリズムに身を任せていた。
夜の街は静まり返り、薄暗いホームに降り立つ。冷たい風が頬を撫で、空には雲が広がっていて、星の光は見えなかった。
重い足を引きずるように、街灯に照らされた道を歩く。
家に着き、私はドアノブに手をかけて大きく息を吸った。
「ただいま」
返事はない。
鍵を閉める音だけが、静けさの中で不自然に響いた。
明かりのついた扉を開けると、食卓の上にはいつものように母の作った料理が並んでいた。
「早く食べなさい」
キッチンに立つ母は、それだけを言って背を向ける。
私は味のしないハンバーグを急いで口に運び、二階の自分の部屋へ逃げるように上がった。
静かな部屋で、黙々と課題を進める。
しばらくして終わる頃、下の階でドアの閉まる音がした。
「今日は早上がりなんだ」
時計を見上げ、飲み物を取りに階段を降りる。
――そのときだった。
刺々しい声が耳に飛び込んでくる。母の声が高くなり、それに父の低い声が重なる。互いの言葉を遮るようなやり取りが、階段まで響いていた。
「何度言えばわかるの? あなたはいつもそうやって適当に済ませる」
「いい加減にしてくれよ。俺だって忙しいんだ。いちいち責められる筋合いはない」
「細かいことじゃないわ。家のこと、全部私に押し付けて」
「押し付けてる? お前こそ、自分が正しいって思い込んでるだけだろ」
父の声が荒くなり、母の言葉をかき消す。
私は階段の途中で立ち止まり、リビングの扉に手を伸ばせずにいた。
昔は聞いたことのなかった母の荒げた声が、胸を締めつける。
――全部、私のせいだ。
そう思った瞬間、息ができなくなった。
私は耐えきれず、家を飛び出した。
しばらく走って、体力が尽きる。膝に手をつき、大きく息を吸い込んだ。
周囲は、さっきまでの空間が嘘のように静まり返っている。
呼吸が整うと、宛もなく歩き出した。
母は、私が嫌いだ。
それは、私のせいで父が亡くなったからだった。
小さい頃は、本当に仲のいい家族だった。三人で公園に行った記憶が、今でもはっきり残っている。
私が小学校に上がったばかりの頃、父は亡くなった。
母はその後、今の人と再婚した。
きっと理由の大半は、生活のためだったと思う。そこに愛や恋があったとは思えない。父にも事情があるようで、ふたりは互いに深く干渉しない。最低限の会話だけを交わす、そんな暗黙の距離があった。
けれど最近は口喧嘩が増え、父が早く帰る日は決まって今日のようになる。
その声を聞くたび、私は罪悪感に押し潰されそうになり、外に出ていた。
行き場のない私は、今日もまた、いつもの公園へ向かう。
「あれって……」
憂鬱な気持ちのまま顔を上げると、ふいに視界の先に人影が映った。暗がりの中でも、はっきりと見覚えがある。
……やっぱり、春樹だ。
思わず立ち止まる。どうして、こんなところにいるんだろう。
遠目に見える春樹は、携帯を片手にきょろきょろと辺りを見回していて、何かを探しているようだった。
落とし物?
そんなことを考えながら、声をかけるべきか迷う。
学校で特別に仲がいいわけでもない。
でも、このまま無視して通り過ぎるのも、それはそれで私の良心がダメだと言っている。
「……春樹?」
勇気を出して小さく呼びかけると、彼はハッとした表情でこちらを振り返った。
「えっ、咲良じゃん!」
私だと分かると、春樹はいつものようにニカッと笑う。
「こんな時間にどうしたの?」
気になっていたことを、そのまま尋ねると、春樹は少し近づいてきて、困ったように笑いながら肩をすくめた。
「んー……迷った」
「……迷った?」
冗談みたいな答えに一瞬理解が追いつかなかった。でも、真剣な顔を見て嘘じゃないと悟る。
「この辺なら私わかるけど、どこに行きたかったの?」
「行きたいっていうか……帰りたい、かな」
「えっ。まさか、家までの道がわからないの?」
差し出された住所を見て、思わず声が大きくなる。
「引っ越してきたばっかでさ。夜だと余計わかんなくて」
「そうだったんだ。……あ、ここなら私の家からも近いよ。送る」
「ほんと? まじ助かる」
私は踵を返して歩き出す。
隣に並んだ春樹が、「ありがとな」と小さく呟いた。
迷子だったことにも驚いたけど、それ以上に家が近いことが意外だった。
そんなことを考えていると、春樹が覗き込むように顔を近づけてくる。
「咲良は、こんな時間に何してたんだ?」
「私は……夜の散歩、かな」
「俺もだよ! よく夜に歩いてる」
「じゃあ、毎回迷子?」
「ちがうし! 今日はたまたま!」
そんなやり取りをしているうちに、春樹の家はすぐそこだった。
「あ、あの白い家。俺ん家」
指さす先を見て、思わず息を呑む。
家と家を二軒挟んだだけ――私の家だった。
「私の家、ここだよ」
そう言うと、春樹は目を丸くする。
「え、近っ!」
――ガシャーンッ!!
突然、家の中から何かが割れる大きな音が響いた。
わざと叩きつけたような、嫌な音。続いて、怒鳴り声。
現実に引き戻されて、体が強張る。
「……じゃあ、またね」
早くこの場を離れたくて、踵を返す。
「咲良ッ!」
呼ばれて、足が止まった。
振り返ると、春樹が私の手首をぎゅっと掴んでいた。
「帰らないのか?」
真剣な眼差しに、言葉が詰まる。
それでも、無理に笑って答えた。
「……もう少し、散歩しようかな」
少しの沈黙のあと、春樹はそっと手を離す。
「じゃあ、俺も行く」
そう言って隣に並び、先に歩き出した。
「ほら、行くんだろ」
なぜか、私は駆け足で追いついていた。
また、さっき通った道を歩き始める。
――これ、どういう状況?
頭は混乱しているのに、春樹の隣を歩くことで精一杯だった。
あの音を聞かれてしまったから、きっと気を遣っている。でも、春樹は何も聞いてこない。
「そういえばさ、こうやって話すの、入学式以来じゃね?」
振り返った春樹が、優しく笑う。
「お前のこと、教えてよ」
「急に言われても……」
「好きなものとか」
好きなもの。
――私、何が好きだったっけ。
答えに詰まっているうちに、足はいつもの道を通り、公園に着いていた。
「公園入るのか?」
考え込んでいるうちに、気がつけば足はいつものルートを通って、公園に来ていた。
「あっ、いつもここに来てるから癖で」
「ここって……」
春樹はゆっくり当たりを見渡すと目を見開いた。
「ここ昔、来てた公園だ。入ろうぜ!」
春樹はそう言って、ズンズンと公園に入っていく。そんなに遊んだ記憶があるのか、春樹は懐かしそうに微笑んでいた。
「ブランコ、久々だわ」
彼が腰を下ろし、私も隣に座る。
錆びたチェーンがきしむ音。
少し低く感じるブランコを揺らしながら、空を見上げる。
雲が切れて、月明かりが差し込んでいた。
「……え、それ、ギタウサ?」
春樹は私の携帯から揺れるキーホルダーを見つめたあと、ばっと顔を上げた。 期待の眼差しに思わず「うん」と頷く。
「ガチ! しかも、それライブ限定グッズで今はもう再販されてないやつじゃん!」
春樹は目を輝かせて言った。ほんとに好きでないと知らないであろう情報に私も前のめりになる。
「うん! C-BlO好きなの! マイナーだってみんな言うけど、感情の表現とか歌詞だってすごくて、中学生の頃からほんッッと大好きで」
私は我に返ると、恥ずかしさに俯いた。高校に上がってから誰とも共有出来なかった話に思わず、なにかが弾けたようだった。
「あははッ」
隣から聞こえてくる笑い声に思わず私は顔を上げた。すると、そこには腹を抱えてひたすらに笑っている。
「――なッ!」
「いや、ごめん。でもお前めっちゃ早口だったから」
謝罪しつつも春樹は笑うのをやめるつもりはないようで反省している様子はない。
無邪気な笑顔に怒る気なんてなくなってしまった。それに春樹がこんなに笑っていることがおかしくて……。
「ふっ、あははッ」
ついに耐えられなくなった私は春樹につられて笑い出していた。
私が笑っているのを春樹は少し驚いたように見つめていた。
「お前が笑ったの初めて見た」
「へっ、そんなことないでしょ。私、学校でも笑ってるよ」
笑いを引きずりながら、首を傾げて私はそう答えた。
「いや、笑ってるけど、そんな声出して笑ったことないだろ」
そう言われて気づいた。私はいつも笑っていた。
友達の話に合わせて、作り笑いを浮かべる。だけど、それが本当の笑顔かなんて、自分でも分からなくなっていた。
「.....そんなことないよ」
口では否定しながらも、私は思わず視線を逸らした。自分の笑い声が耳に残っていて、何だか妙にこそばゆい。
でも春樹は、まるで何かを確かめるようにじっと私を見てくる。
「今みたいに笑えばいいのに」
顔が熱くなって、視線を逸らす。
でも、胸の奥がふわっと温かかった。
――こんなふうに、自分の話を聞いてもらえたのは初めてだった。
今まで、ずっと抑えてきたことが何だったのか。ただ、中学に上がってから誰にも話せなかった「私」を、春樹はあっさりと引き出してしまった。
こんなふうに自分の話を真っ直ぐ受け止められるのは初めてでそれが、少し怖くて、それ以上に、嬉しかった。
気づけば、私の口元も自然と緩んでいた
「じゃあ、あの映画も知ってるか? C-BlOが主題歌の……」
「知ってる! 死んじゃった彼女のセリフが歌詞になっててやつでしょ」
「そうそう! 曲流れるタイミング最高すぎてめっちゃ泣けた」
私たちはお互いを見つめ、同時に笑い出した。最初に感じていた微妙な距離感が、いつの間にか消えていた。
言葉が止まらなくなる。次のライブ、歌詞の意味、メンバーの話。話題が尽きるどころか、どんどん広がっていった。
「なぁ、明日も来ていい?」
少し照れながら頷くと、春樹は嬉しそうに笑った。
この夜のことを、春樹はもう覚えていないかもしれないね。
でも、この約束があったから、私は明日を考えられるようになったんだよ。
孤独な夜は、私にとって大切な時間になった。
……春樹は、気づいていたかな。
