カーテンの隙間から差し込む光が、やけにやわらかい。
冬の白さとは違う、あたたかい色だった。
「……あれ」
声が、自分のものじゃないみたいに響く。
天井が高い。
鼻をつく、消毒液の匂い。
腕に繋がれた、点滴の管。
目を開いて、最初に理解できたのは、それだけだった。
「……ここ、どこだ?」
ゆっくりと上半身を起こすと、体が少し重い。
頭の奥が、妙にすかすかしている感じがした。
視線を動かす。
戸棚の扉に、紙が貼ってあった。
【起きたら、まずノートを見ること】
「……ノート?」
意味が分からないまま、机に目をやる。
そこに、一冊のノートが置いてあった。
使い込まれた、青い表紙。
嫌な予感がした。
それでも、手が勝手に伸びる。
ノートを開いた。
《俺へ》
……俺へ?
《まず、落ち着け》
落ち着けって、なんだよ。
《俺は、去年の冬から、ほとんどの記憶がない》
……は?
文字の意味が、すぐに頭に入ってこない。
もう一度、読む。
ゆっくり、なぞる。
それでも、理解した瞬間――
息が、止まった。
《混乱すると思うけど、それが現実だ》
ページをめくる指が、震える。
《まずは、その現実を受け入れろ》
「……受け入れろって……」
喉が、ひくりと鳴った。
《明日の予定》
《昼過ぎに、母さんがお見舞いに来る》
《だから、驚いた顔はしないこと》
《母さんを、悲しませたくない》
胸が、じわっと熱くなる。
あれ、俺の母さんって……。
思い出そうとするたびに、頭の中に靄がかかる。
声は?
笑い方は?
怒ったときの顔は?
記憶がないなんて、信じられなかった。
悪い冗談か、誰かの手の込んだいたずらだと思った。
だって、俺はちゃんとここにいて、考えてるのに。
――忘れているはずがない。
そう思っていた。
でも……
母さんの顔を思い浮かべようとして、何度も、何度も、頭の中を探して。
何も、出てこなかった。
――これは、本当なんだ。
俺は、忘れている。
《それから》
文字が、少しだけ歪んでいた。
《毎日、決まった時間に会いに来る女の子がいる》
女の子?
ページをめくる、
ごくり、と唾を飲み込む。
「……友達、か?」
そう呟いた瞬間――
ガチャリ、とドアが開いた。
金属の音に、肩がわずかに跳ねる。
「春樹、起きてる? おはよー!」
軽やかな声。
病室には似つかわしくないほど、明るい。
反射的に顔を上げる。
そこにいたのは、春の光みたいな女の子だった。
春の陽射しが、背中越しに差し込んで、少し長い髪が、淡く透けている。
初めて会うはずなのに――
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「……?」
俺が黙っていると、その子は一瞬だけ表情を揺らして、すぐ笑った。
「初めまして」
そう言って、ベッドの横に立つ。
「私、咲良って言うの。“咲く”って書いて、咲良」
「……咲良……ちゃん?」
そう呼ぶと、彼女は少し驚いた顔をして、でもすぐに微笑んだ。
「うん。そう」
その笑顔が、どうしようもなく胸に刺さる。
「今日はね。桜が満開の日なんだって」
そう言って、咲良は窓のほうへ歩いていく。
「あ、ほら。ここにもたくさん咲いてる」
ガラス戸を開けた瞬間、春の風が吹き込んだ。
桜の花びらが舞い、やわらかな香りが部屋いっぱいに広がる。
舞い込んだ桜の花びらが、シーツの上に落ちて、音もなく止まった。
その匂いに――胸が、ぎゅっと痛んだ。
懐かしい……この匂いどこかで。
「……さくら」
無意識に口をついて出た言葉に、咲良が振り返る。
「そう。桜」
笑いながら答えた咲良が、次の瞬間、はっと目を見開いた。
「大丈夫? どこか痛い?」
「え……?」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
視界が、少し滲んでいる。
頬に手を当てて、ようやく気づく。
――濡れている。
俺、泣いてる……?
「分からない……」
声が震える。
「分からないけど……なんか……」
言葉を探そうとするほど、胸が苦しくなる。
病室に残る、桜の匂いがやわらかくて、あたたかい。
それが、どうしようもなく懐かしかった。
胸の奥が誰かの想いで苦しくなる。
『私が、春樹といたいの』
『私、毎日会いに行くよ』
『私は、春樹のことを忘れない』
――知らないはずの声。
なのに、確かに“俺の中”にある。
「……忘れちゃ、いけない気がするんだ」
その言葉を口にした瞬間、咲良の表情が、ほんの一瞬、揺れた。
唇をきゅっと噛んで、泣き出しそうなのを必死に堪えるみたいに。
それでも彼女は、笑った。
泣きそうなままの、とても、優しい笑顔で。
「私はね」
一歩、近づいてくる。
「春樹のことが好きなの」
まっすぐな目。
「だから、私と付き合ってください」
「……え」
思わず言葉に詰まる。
「でも俺……明日には……」
喉の奥で、言葉が絡まる。
「また、全部忘れるんだろ」
声が、かすれた。
「今日、こうして話したことも、この気持ちも――咲良のことも」
俺は、気づいたら咲良の手を握っていた。
理由なんて、分からない。
でも、離したくないと思った。
「それってさ……何度も、咲良を一人にするってことじゃないか」
言葉にした瞬間、胸の奥がずきりと軋んだ。
咲良は、少しだけ目を伏せる。
たったそれだけで、どれだけ考えてきたかが分かってしまうくらいの、沈黙。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……うん」
否定しなかった。
その一言が、何よりも痛かった。
「それでもね」
重ねられた手が、震えている。
「私は、春樹に選ばれた“今日”を、ちゃんと覚えてる」
にこっと、笑う。
「だから、今日がなかったことにはならないんだよ」
でも――
その笑顔は、どこか泣きそうで。
「忘れちゃったら……また、伝えに来るから」
「明日も。明後日も。何度でも」
俺は咲良のこと何も覚えてない。
覚えていないはずなのに……すごく大切だったってことだけは感じるんだ。
「……俺も」
声が、少し掠れる。
「咲良のこと……好きだ」
思い出したからじゃない。
理由が分かったからでもない。
どうしようもなく、心がそう叫んでいた。
咲良は、一瞬だけ目を見開いて、それから――今度は泣きながら、笑った。
春の光が、舞い落ちる桜の花びらが、その笑顔を、そっと包み込む。
――毎日、決まった時間に会いに来る女の子がいる。
ノートに書かれていた、その一文。
きっと、これは。
これは、恋の記録だ。
忘れられても。
消えてしまっても。
それでも残る、たったひとつの、約束。
彼女は、今日も明日も、俺に恋をしに来る。
俺が、忘れてしまっても。
何度でも、最初から。
そして俺は、今日もまた――
忘れると分かっていながら、恋をするだ。
終
