それからの春樹は、どこか元気になったように見えた。
ここ数日、私のことを忘れていない。
名前も、顔も、ちゃんと覚えている。
――いいことの、はずなのに。
胸の奥に、嫌な予感が張り付いて離れなかった。
目の下のクマは日に日に濃くなっていく。
会話の途中で、ふっとぼーとすることも増えた。
もしかして、眠れていないのかな。
「春樹、ちゃんと眠れてる?」
そう聞くと、春樹は少しだけ間を置いてから、いつもみたいに笑った。
「しっかり、寝てるよ」
その笑顔が、どうしても胸に刺さる。
無理をしてる笑顔だって、分かるから。
「お母さんとお父さん、もう来た?」
「昼前に来たよ。お母さんの目、真っ赤でさ」
そう言って、春樹は困ったように笑う。
「ほんと……俺、なにしてんだろうな」
「春樹は悪くないよ」
私は、はっきり言った。
「誰も、悪くない」
春樹は一瞬だけ目を伏せて、それから小さく頷いた。
「……ありがとな」
その声は、少し掠れていた。
春樹は、しばらく黙ったまま私を見つめていた。
その視線が、やけに真っ直ぐで――逃げ場がなくて。
「咲良」
名前を呼ばれただけなのに、胸が跳ねる。
「好きだ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……え?」
「好き。大好きだ」
あまりにも突然で、私は言葉を失った。
「もー、急にどうしたの?」
春樹は少しだけ目を細めて、穏やかに笑った。
「言っておきたかったんだ」
それだけ言って、話題を切るように視線を逸らす。
嫌な予感が、胸の奥でざわついた。
「じゃあ……そろそろ帰るね」
「ああ」
「またね」
「……気をつけて帰れよ」
手を振る私に、春樹も軽く手を上げる。
病室のドアが、静かに閉まった。
――その瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
エレベーターに乗っても、頭の中は春樹のことばかりだった。
どうして、あんな言い方をしたんだろう。
どうして――
「またな」って、言わなかったんだろう。
嫌な想像が、ふっと浮かぶ。
喉の奥が冷たくなる。
「……え、まさか」
心臓が、大きく脈を打った。
気づいたときには、私は走り出していた。
エレベーターのボタンを何度も押す。
来ない。
「……っ!」
階段へ向かって、駆け出す。
一段飛ばしで駆け上がり、息が切れるのも構わず病室へ――
ドアを勢いよく開けた、その瞬間。
「春樹ッ!!」
目の前で、春樹が――
病室の窓から、体を乗り出していた。
血の気が、一気に引く。
「やめて!!」
考えるより先に、体が動いた。
私は春樹の腕を掴んで、思い切り引き寄せる。
次の瞬間、二人で床に倒れ込んだ。
鈍い音。
私の腕の中に、春樹の体温があった。
「……もう、耐えられないんだ」
春樹が、床に伏せたままぽつりと呟いた。
「みんなのこと悲しませてるくせ。自分だけが、忘れて」
その声は震えていて、最後まで言い切れなかった。
ぽた、と。
春樹の頬に、涙が落ちる。
「寝なければいいって、思った。寝なければ忘れないって」
喉の奥を押し殺すように、言葉を続ける。
「そしたら、お前のこと忘れずにすむだろ」
胸が、締めつけられた。
やっぱり。
春樹は、眠っていなかった。
だから――
だから、私のことを覚えていた。
その事実が、嬉しいはずなのに。
痛くて、苦しくて、息が詰まる。
「俺……」
春樹は、泣いたまま、私を見上げた。
「お前のこと、忘れるくらいなら……」
その先が、出てこなかった。
でも、私は分かってしまった。
この人を、生かしたい。
でも、生きることが、この人を壊している。
どうすればいい?
どうしたら、春樹を守れる?
答えなんて、どこにもなかった。
「春樹……一緒に、寝よ」
その言葉が落ちた瞬間、春樹が息を詰まらせた。
「……っ、やだ……!」
叫ぶみたいな声だった。
「寝たら……寝たら、全部なくなるだろ!!」
掴まれた腕が痛い。
でも、離せなかった。
「お前の顔も! 声も! 今までのことだって!!」
「全部……全部、消えるんだぞ……!」
喉が裂けそうな声で、春樹は泣きながら叫ぶ。
「忘れたくない……!」
床に崩れ落ちるみたいに、春樹は膝をついた。
「俺、まだお前としたいことたくさんあるんだ!」
両手で頭を抱えて、何度も首を振る。
「なんで……なんで、俺ばっかり……!」
私は、春樹の前にしゃがみこんで、顔を無理やり上げさせた。
「春樹」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。
それでも、目だけは、必死に私を探していた。
「聞いて」
喉が震える。
「忘れてもいい」
「私のこと、思い出せなくなってもいい」
春樹の瞳が、大きく揺れた。
「……やだ……」
小さく、子供みたいに呟く。
「それ……一番、いやだ……」
「私が覚えてる」
私は、声を張り上げた。
「春樹のこと、全部覚えてる」
「だから……」
息を吸う。
「生きて」
その一言で、春樹の身体が、がくっと崩れた。
「……ずるい……」
嗚咽混じりの声。
「そんなこと言われたら……」
春樹は、私の服を掴んで、縋りつく。
「死ねねぇじゃん……」
肩を震わせて、子供みたいに泣いた。
私は、その身体を抱きしめる。
苦しいほど、強く。
「一緒に寝よう」
耳元で、何度も囁く。
「でも……」
「大丈夫、ここにいるから」
春樹は、何度も、何度も首を振ったあと――
とうとう、抵抗をやめた。
「……なぁ……」
鼻声で、私を見上げる。
「俺……」
声が、途切れる。
「起きたら……お前のこと、忘れてるかもしれない」
胸が、痛む。
「お前のこと好きだったことも、今こうしてることも」
それでも、春樹は顔を上げた。
泣き腫らした目で、必死に私を見る。
「それでも……」
喉を震わせながら、続けた。
「それでも……また、好きになるから」
息が止まった。
「初めて、会ったみたいに……何も知らなくても……」
春樹は、弱々しく笑った。
「俺、記憶がなくなっても……好きって気持ちだけは……どっかに残る気がするんだ」
ぽろっと、涙が落ちる。
「だから……」
私の手を、ぎゅっと握る。
「お前は忘れないでくれ」
「大丈夫。私は、春樹のことを忘れないよ」
春樹は、安心したみたいに目を閉じる。
「なぁ、咲良」
「なに?」
「……好きだ」
私は迷わず答えた。
「私も、大好きだよ」
それを最後に、春樹は眠りに落ちた。
泣き腫らした目のまま、子供みたいに小さな寝息を立てている。
私は、眠ってしまった春樹の髪に、そっと触れた。
春樹は、きっと明日になれば私を見て首を傾げる。
「誰?」って、困ったように笑う。
そしたら、何度でも伝えよう。
私たちが出会った日のこと、春樹と公園で話したこと、私を好きになってくれたことも、全部……全部伝えるから。
春樹は、眠ったあとも、何度か私の名前を呼んだ。
たぶん、夢の中で探していた。
この顔も、
この温度も、
この夜も――
明日には、全部消えてしまう。
本当は――
本当はね。
忘れてほしくなんて、なかった。
この声も、
この名前も、
あなたが「好きだ」と言ってくれた日のことも。
全部、覚えていてほしかった。
目を覚ましたとき、私を見て、いつもみたいに少し照れた顔で笑って、「おはよう」って呼んでほしかった。
――それでも
忘れられることより、この命が消えてしまうことのほうが、ずっと怖かったから。
私は、起こさないように声を殺して泣いた。
この夜のことを覚えているのは、もう、私ひとりだけだった。
