春樹は、いつだって明るかった。
少なくとも、私の前では。
不安も、怖さも、弱音も。
全部、冗談みたいに笑って隠していた。
だから私は、気づかなかった。
――いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。
今日は午後から会う約束だった。
でも、急に予定がなくなってしまって。
今行ったら、驚くかな。
そんな軽い気持ちで、病院の廊下を歩いていた。
消毒液の匂い。
遠くで鳴るナースコール。
いつもと変わらないはずの風景。
春樹の病室が近づいた、そのときだった。
「――なんでっ! なんで、俺なんだよッ!」
胸を打つような、怒鳴り声。
足が、ぴたりと止まった。
「落ち着いて、春樹くん!」
続いて聞こえたのは、看護師さんの声。
嫌な予感がして、心臓が早鐘を打つ。
私は、病室の前まで来て、ドアの隙間から中を覗いた。
――そこにいたのは、私の知らない春樹だった。
「点滴、外しちゃダメだから!」
「こんなのっ……こんなの、なんの意味もねぇだろ!」
絞り出すみたいな声。
ベッドの上で、春樹が暴れていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔。
必死に腕を振りほどこうとして、息を荒くしている。
明るく笑う春樹じゃない。
冗談を言う春樹でもない。
どうしようもなく、壊れそうな顔。
私は反射的にドアの陰に身を隠した。
中に入る勇気が、出なかった。
「離せよ……!」
次の瞬間、ガシャンと鈍い音が響いた。
倒れた点滴スタンド。
「春樹くん、お願いだから!」
看護師さんが二人がかりで、春樹の腕を押さえ込む。
それでも、春樹は抵抗していた。
泣きながら、叫びながら。
行き場のない感情を、全部ぶつけるみたいに。
――私は、その場から動けなかった。
声をかけることも、名前を呼ぶことも、ただ見てしまったことを、後悔することしかできなかった。
知らなかった。
こんなに春樹が抱え込んでいたなんて。
胸の奥が、ぎゅっと潰れる。
私は、思わずその場から逃げ出していた。
足が勝手に動いて、気づいたときには、病棟を抜けて中庭に出ていた。
ベンチに腰を下ろした瞬間、張りつめていたものが一気に崩れて、涙が溢れ出す。
止めようとしても、止まらなかった。
両手で顔を覆って、何度も息を吸う。
それでも胸の奥が苦しくて、うまく呼吸ができない。
――きっと。
あのとき、私が病室に入っていたら。
春樹は、何事もなかったみたいに、「大丈夫だって」って笑ったんだと思う。
さっきまで泣いて、叫んで、壊れそうだったことを、
全部なかったことにして。
私の前では、いつもそうだから。
優しい嘘をつく人だから。
春樹が一番つらいはずだって、そんなこと、わかってた。
忘れていく怖さも、自分が自分じゃなくなる不安も。
私より、ずっと。
それなのに私は――
向き合うことができなかった。
泣いている春樹を見る勇気も、何もできない自分を突きつけられる覚悟も。
ただ、逃げただけ。
「……ごめんね、春樹」
誰にも届かない声で、呟く。
中庭の木々が、風に揺れる。
さっきまで聞こえていた怒鳴り声は、もう聞こえない。
その静けさが、余計に胸を締めつけた。
しばらく時間が経って、私はようやく立ち上がった。
胸の奥に残った重さを抱えたまま、春樹がどうしているのか、それだけが気になって病室へ戻る。
廊下は、さっきと変わらないはずなのに、やけに遠く感じた。
――少し様子を見るだけ。
そう思って、そっと病室の前に立つ。
中は、静まり返っていた。
ベッドには人影がなく、点滴台も、椅子も、さっきの騒ぎが嘘みたいだった。
「……いない」
小さく呟いて、私は静かに部屋へ足を踏み入れた。
さっきの春樹の声が脳裏によみがえる。
胸が、きゅっと痛んだ。
そのときだった。
ベッド脇にある棚の、一番下の引き出しが、ほんの少しだけ開いているのに気づく。
――あれ?
無意識のまま、指が伸びた。
引き出しを開けると、中には、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた紙の束があった。
私は、震える手でそれを掴み、引き出す。
ばらり、と数枚が床に落ちる。
拾い上げた一枚を見て、息が止まった。
白い紙いっぱいに、余白なんてひとつもなく、同じ文字が、何度も、何度も書かれている。
――咲良
――咲良
――咲良
ただ、それだけ。
日付も、文章もない。
名前だけが、執念みたいに並んでいた。
「……これも」
次の紙も、
その次も。
全部、同じだった。
私は、その場にしゃがみ込む。
喉の奥が、ひりひりと痛む。
「……忘れないように、書いてたの?」
声に出した瞬間、涙がぽろぽろと紙に落ちた。
あんなふうに明るく笑って、何でもない顔をして。
その裏で、必死に、必死に、私の名前を繰り返し書いていたなんて。
胸が、ぎゅっと痛んだ。
私は紙の束を胸に抱きしめながら、思ってしまった。
――このままでいいのかな。
そんな考えが、胸の奥から、じわりと滲み出てくる。
私がいるから、思い出そうとして、苦しくなる。
だったら。
私がいなければ、こんなふうに自分を追い詰めることも、なかったんじゃないか。
忘れてしまった方がいいこともあるのかもしれない。
そう思った瞬間、心臓が、きゅっと縮んだ。
――それは、本当に春樹のため?
それとも、壊れていく姿を見るのが怖い私の逃げなんじゃないの?
「咲良?」
声をかけられて、私ははっとして立ち上がった。
春樹が、いつものように笑いながら近づいてくる。
「来るの、早かったな」
そう言ったあと、春樹の視線が私から、手元の紙へと移った。
「……泣いてたのか?」
春樹はそう言って、私の瞼を指先でそっと撫でた。
どうして、こんなに優しくできるんだろう。
本当は今だって、不安でいっぱいのはずなのに。
「ごめん……ごめんね、春樹」
私は、それしか言えなかった。
その瞬間、春樹の表情が、わずかに歪んだ。
傷ついたみたいな顔だった。
次の瞬間、私は強く抱きしめられる。
「咲良……」
耳元で、息が震える。
「どこにも、行かないでくれ」
そう言って、春樹は腕に力を込めた。
まるで、私の考えに気づいているようだった。
