なつかしい桜の中で、君を感じた


 インターホンを押すと、すぐにドアが開いた。

「咲良ちゃん」

 薫さんだった。いつもと同じ、優しい声。

「春樹なら部屋にいるわよ。上がって」

「お邪魔します」

 靴を揃えながら、胸の奥がざわついた。
 理由はわからない。ただ、嫌な予感だけがあった。

 二階に上がり、春樹の部屋の前に立つ。

「春樹、入るよー」

 返事はなかった。

 ドアを開けると、春樹はベッドに腰掛けていた。
 スマホを握ったまま、ゆっくりとこちらを振り返る。

 一瞬、目が合う。

 それから――

 春樹は、眉を寄せた。

 困ったように、首を傾げる。

「……誰?」

 その一言で、世界が音を立てて崩れた。

「え……」

 手に持っていた鞄が、床に落ちる音がやけに大きく響いた。
 足に力が入らなくて、立っているのがやっとだった。

 わかっていた。
 いつか、こうなるかもしれないって。
 覚悟していたはずだった。

 それでも。

 涙は、勝手に溢れてきた。

 視界が滲んで、春樹の顔がよく見えなくなる。

「は、る……」

 名前を呼ぼうとして、声にならなかった。

 次の瞬間。

 強く、腕を引かれた。

「っ――」

 気づいたときには、春樹の胸に顔を押しつけられていた。
 少し息が苦しいくらい、きつく抱きしめられる。

「咲良ッ!」

 震えた声。

「ごめん……本当にごめん……」

 耳元で、何度も謝る声がした。

「今、一瞬……わかんなくなって……」

 必死に言葉を探すみたいに、春樹の腕が震える。

 「一瞬」でも、わからなかった。
 それが、現実だった。

 私は春樹の服をぎゅっと掴む。

「……大丈夫」

 声は、涙でかすれていた。

「大丈夫だよ、春樹」

 本当は、全然大丈夫じゃなかった。

 胸の奥が、冷たくなっていく。
 幸せだった昨日が、もう遠い。

 それでも――

 春樹の背中にそっと腕を回した。

 このとき震えているのは、どっちだったんだろう。

◆◆◆

 その日を境に、春樹は忘れることが増えた。

 前までは少し考えれば思い出せていたことも、今はもう戻ってこない。

 約束の内容。
 昨日食べたもの。
 さっきまでしていた会話。

 それなのに――

 春樹は、私の名前だけはよく呼ぶようになった。

 呼ぶ、というより。
 確かめるみたいに、呟く。

 夜、布団に並んで横になっているときだった。

「……咲良」

 暗闇の中で、春樹の声がした。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない」

 そう言って、春樹は小さく息を吐いた。
 その呼吸が、ほんの少しだけ緩む。

 名前が出たことに、自分でも安心したみたいだった。

「ねぇ、春樹」

「ん?」

「……なんでもない」

 私がそう言って笑うと、

「お前なぁ」

 春樹は、いつもの調子で笑った。

 その笑顔が、今までと同じに見えたから。
 私は、何も言えなくなった。

 ――そんな夜。

 トイレに行きたくて、目が覚めた。

 隣を見ると、春樹は眠っている。
 規則正しい寝息だけが、静かな部屋に落ちていた。

 起こさないように、そっと布団を抜け出す。

 廊下の電気をつけずに、トイレへ向かう。

 ――微かに、話し声が聞こえた。

 下の階からだった。

 私は眠気の残る頭のまま、音を立てないようにドアを開ける。
 階段を一段ずつ降りるたび、心臓が嫌な音を立てる。

 リビングのほうから、淡い光が漏れていた。

「……あなた、どうしよう」

 その声を聞いた瞬間、足が止まる。

 薫さんの声だった。

 昼間の柔らかさはなくて、張りつめた糸が切れそうな、震えた声。

「最近ね……春樹が、私のことを見て……一瞬、迷うの」

 胸の奥が、ぎゅっと縮む。

「……このまま、私のことも、わからなくなったらどうしようって」

 一拍、沈黙。

「このままじゃ、あなたのことも忘れちゃうわ」

 単身赴任先にいる、春樹のお父さんに向けた言葉だと、すぐにわかった。

「お願い、帰ってきて……」

 声が、少しだけ上ずる。

 私は、リビングの光の外で、息を殺した。

 聞いてはいけないものを、聞いてしまった気がした。

 私は、これ以上聞いていられなくなって、そっと階段を引き返した。

 知らなかったことには、もう戻れない。
 でも、知らないふりをするしかなかった。

 この夜のことを、春樹には、絶対に言えないまま。

◆◆◆

 次の日の朝、私たちは薫さんと向き合って座っていた。

 薫さんは少し背筋を伸ばして、いつもより真剣な顔で言った。

「……大事な話があるの」

 短い沈黙のあと、ゆっくりと言葉が続く。

「春樹も、もう気づいてると思うけど、病状が、少しずつ進んでるの」

 春樹は何も言わず、黙って聞いていた。

「前回の診察で先生と話してね。入院した方がいいって」

「……じゃあ、学校は?」

 そう聞くと、薫さんは小さく頷いた。

「もう連絡してあるわ」

 その瞬間、春樹の手が机の下でぎゅっと握られたのが見えた。

「……わかった」

 短い返事。
 それ以上、何も言わない。

 部屋に、少し重たい空気が落ちた。

 だから私は、思い切って声を出した。

「じゃあ!」

 自分でもびっくりするくらい、明るい声だった。

「私、毎日会いに行くよ!」

 二人の視線が、一斉に私に向く。

「放課後も、休みの日も! 面会時間、全部制覇するから!」

 春樹が呆れたように眉を上げる。

「……お前、暇人かよ」

「違うし! 彼女ですー」

 そう言って笑うと、春樹は一瞬だけ目を伏せて、困ったように口元を緩めた。

 薫さんも、少し驚いた顔をしてから、ふっと息を吐いた。

「……ありがとう、咲良ちゃん」

「いいえ! 好きでやってるんで!」

 胸の奥は、正直ちょっと怖かった。

 でも、それ以上に思った。

 ――離れるなんて、選択肢にない。

 私は春樹のほうを見て、にっと笑う。

「だから覚悟しといてね、春樹」

 春樹は少し照れたように顔を背けて、

「……わかったよ」

「春樹が照れてる」

「うるせぇ」

 笑っている春樹の顔を、何度も、何度も、目に焼きつけた。

 忘れられないようにじゃない。
 私が、忘れないために。