なつかしい桜の中で、君を感じた


「なぁ、花火の日のお詫びがしたいんだ」

 不意に言われて、私はきょとんと春樹を見る。

「え、そんなのいいよ」

「俺がしないと気が済まない」

 少しだけ強い口調だった。
 それが、春樹なりのけじめなんだと分かる。

「じゃあ……何してくれるの?」

 冗談めかして聞くと、春樹は一瞬だけ視線を逸らしてから言った。

「今日の夜、空いてるか?」

「空いてるけど……」

「じゃあ、それまで内緒」

 そう言って、口元だけで笑う。

 それから私たちは、春樹の家で日が暮れるまでだらだら過ごした。
 記憶力のリハビリだと言って真剣衰弱をしたり、映画をつけたまま、内容よりも同じ場面を何度も見返していたり。

 窓の外が橙色に染まり始めたころ、春樹が立ち上がった。

「じゃあ、行ってきます」

「暗いんだから、気をつけてよー」

「お邪魔しました!」

 私は薫さんに頭を下げ、玄関を出た。

 春樹は自転車を引っ張り出して、何でもないことみたいに言う。

「後ろ、乗れよ」

「うん」

 私は言われるまま後ろに乗った。
 ハンドルを握る春樹の背中が、すぐそこにある。

 どこに行くのかは、まだ分からない。

 夜風が頬をなで、自転車が静かな道を進んでいく。
 コンビニの明かりが見えたとき、春樹はすっと止まった。

「ちょっと、待ってて」

 そう言って店に入り、すぐに戻ってくる。
 手にしていたのは、入口近くに並んでいた細長い袋。

「……まだあって、よかった」

 ほっとしたように笑う。

「それって……」

 袋の中身を見て、思わず声が漏れた。

「手持ち花火?」

「あぁ」

 春樹は少し照れたみたいに頭をかく。

「この前の花火、一緒に見れなかったからさ」

 胸の奥が、じんわり温かくなる。

「前に行った海のところでやろうぜ」

 私は小さく頷く。

「……うん」

 自転車がまた走り出す。
 春樹の背中に、そっと体を預けた。

 海に近づくにつれて、風の匂いが変わった。最近はもう暑くなくて、夏の名残を感じる。
 
「……涼しいな」

「もう、秋だもんね」

 春樹はそう言って、自転車を止めた。

 空は濃い群青で、星がいくつか瞬いている。
 波の音は静かで、遠くで一定のリズムを刻んでいた。

「どれからやろう」

 私はバケツを用意してから、「七色に変化する」と書かれた袋を開けた。

「私、これやりたい」

「じゃあ、俺はこれな」

 春樹がすぐに花火に火をつける。

「見て、すごい!」

 ぱっと火がついた瞬間、白い煙がふわっと広がって、火薬の匂いが鼻をくすぐった。
 勢いよく吹き出した光は、数秒ごとに色を変えていく。

 思わず春樹のほうを見ると、春樹も楽しそうに花火を見つめていた。

「子どもみたいな顔してる」

「お前もだろ」

 そんなやりとりをしながら、私たちは次々と花火に火をつけた。

 気づけば、時間を忘れるくらい夢中になっていた。

「もう、こんなにやったんだね」

 足元を見ると、たくさんあった花火は、もう残りわずかになっている。

「じゃあ、最後はやっぱこれだな」

 春樹が取り出したのは線香花火だった。

「勝負な。どっちが長いか」

「いいよ。負けないから」

 同時に火をつけると、ぷっくりした火玉のまわりで、ぱちぱちと小さな音が弾ける。

 ふたりでしゃがみ込んで、それをじっと見つめた。

「なんかさ、これ落ち着くよな」

「うん。ずっと見てられるね」

 派手じゃないけど、やさしい光。
 線香花火が、私たちの顔を淡く照らす。

「……あ、俺の消えた」

「やった。私の勝ち」

「今、風吹いてた!」

「言い訳!」

 そんなことを言い合っているうちに、私の線香花火もぽつりと消えた。

 使い終わった花火をバケツに入れて、片付けを終える。

 帰ろうとしたけど、なんとなくそのまま地面に腰を下ろした。

「風、気持ちいいな」

 夜風に当たりながら、春樹は静かに海を見つめている。

「夜ってさ、嫌いなんだ」

 不意に、春樹が話し始めた。

「朝になったら、全部忘れてるかもって思うと……怖くなる」

 私は何も言わず、その言葉を受け止めた。
 毎晩そんな不安を抱えて眠るなんて、私には想像もできない。

「でも」

 春樹は続ける。

「お前が、明日も来てくれるって思うとさ。そんなの、どうでもよくなる」

 そう言って、春樹は私に向かってにっこり笑った。

「私、ずっっっと春樹の隣にいるから!」

 私は何とか安心してほしくて、少し大げさに言うと、春樹の表情がふっと緩んだ。

 その優しい瞳に見つめられて、胸の奥がじんわり温かくなる。

 春樹の手が、そっと私の頬に触れた。
 指先がくすぐったくて、でも嫌じゃなくて。

 自然と距離が縮まって、私は目を閉じる。

 夜の空気と、波の音と、春樹のぬくもり。

 影が落ちて――
 優しく、唇が重なった。

 触れるだけの、やさしいキス。
 それなのに、胸がいっぱいになって息が詰まりそうになる。

 少しして、名残惜しそうに唇が離れた。

 ゆっくり目を開けると、春樹は目を細めて、穏やかに微笑んでいる。

 その笑顔を見て、思った。

 ――ああ、幸せだな。

 だからきっと、いつか思い出せなくなる日のことを、考えないようにしていた。