目を開けるより先に、ぬくもりを感じた。
背中に回された腕が、寝息と一緒に規則正しく動いている。
あ、いる。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。
顔を動かすと、すぐそばに春樹の寝顔があって、まつ毛が影を落としている。
起こさないように、そっと息を潜める。
この距離、この温度が、今ここにあることが嬉しかった
それだけで胸が少しあたたかくなる。寝返りを打った拍子に、春樹が目を細めた。
「……おはよう」
眠そうに笑うその顔が、昨日とちゃんと同じで、私は安心する。
「んー、おはよう」
声がまだ眠気に溶けたまま、体を起こした。
学校のない日でも、私は春樹に会いに来る。気づけば土曜日は泊まるのが当たり前になっていた。
“今”を重ねるみたいに、同じ朝を何度も迎えたかった。
そのまま二人でリビングへ降りると、キッチンから明るい声がする。
「咲良ちゃん、おはよー。目玉焼き、何かける派?」
「おはようございます。ケチャップ派です!」
「え、目玉焼きにケチャップって合うのかよ」
意外そうに言う春樹に、私は肩をすくめた。
「ちょー、美味しいから!」
「ほんとか?」
半信半疑なまま、春樹は冷蔵庫からケチャップを取り出して、私の皿の横に置いた。
「じゃあ、一口ちょうだい」
「いいよ。春樹もケチャップ派になるから」
そんなやりとりが、朝の空気に溶けていく。
春樹の家に来るようになってから、薫さんは自然に、私の分の朝ごはんも用意してくれるようになっていた。そのことが、嬉しくて、少しだけくすぐったかった。
「春樹、今日は診察の日だからね」
「えっ、そうだったっけ?」
フォークを止めて、春樹が首をかしげる。
「……私もついて行ってもいい?」
「まじで暇だぞ。結構、待たされるし」
「じゃあ、尚更ふたりのほうがいいね」
そうして私たちは、近所にある大きな総合病院へ向かった。
道すがら、私は携帯を構える。
「何、撮ってんだ?」
「初めて病院について行く記念に」
「なんだそれ」
春樹は呆れたように笑った。
あれから私たちは、日々の小さなことを写真や動画に残すようになった。
他愛もない会話、歩く後ろ姿、朝の光。
毎日を忘れないように。
忘れてしまっても、思い出せるように。
夜になると、春樹はそれを一枚ずつ見返す。
その背中を見ながら、私はそっと思う。
――今日も、ちゃんと一緒にいられた。
春樹の言っていた通り、診察までかなり待たされた。
待合室の長椅子で並んで座り、私は壁の時計を見上げた。
「今日は何するの?」
「定期的に来て進行具合を見るんだよ。なんかいろいろ質問される」
春樹はそう言って笑ったけれど、その笑顔はどこか力が抜けている。
ようやく名前が呼ばれ、私たちは診察室に入った。
私は迷ったけれど、そのまま春樹の隣に座る。
「春樹くん、調子はどうかな?」
白衣を着た、柔らかい雰囲気の先生が穏やかに話しかける。
「まぁ……変わりません」
春樹は肩をすくめるように答えた。
「そっか。じゃあ、今日もやっていこうね」
先生はそう言って、小さめの箱を机の上に置いた。
「箱の中身を、十秒で覚えてみて」
蓋が開けられ、私は思わず身を乗り出す。
中にあったのは、えんぴつ、消しゴム、五円玉、ビー玉、それからりんごのイラスト。
すぐに、蓋が閉じられる。
これが、春樹の言っていた質問なんだ。
「じゃあ、ひとつずつ言ってみようか」
「えっと……えんぴつと、消しゴムと……」
少し間が空く。
「……りんご?」
「そうだね。他にはあったかな」
春樹はしばらく考え込んだあと、小さく首を振った。
「あと、二つくらいあった気がするんですけど……」
それ以上は出てこなかったらしい。
先生はメモを取りながら、静かに言った。
「前回は四つ答えられていたんだけどなぁ」
その言葉に、春樹の表情が曇る。
――減ってる。
その事実だけが、頭の中で何度も跳ね返った。
「次回は、お母さんも一緒に来てもらえるかな」
「……わかりました」
春樹の返事は、少しだけ掠れていた。
病院の自動ドアが開くと、外の空気が一気に流れ込んできた。
消毒液の匂いが、少しだけ薄まる。
「ふー……」
春樹は大きく伸びをして、わざとらしく息を吐いた。
「終わった、終わった。座ってんのも疲れるなー!」
その声は、いつもより少しだけ高かった。
「咲良、腹減ってない?」
振り返って笑う。
でも、その笑顔がどこか固いことに、私はすぐ気づいてしまった。
「……うん、お腹すいちゃった」
そう答えると、春樹は安心したみたいに頷く。
「だよな! 俺もさ、もう限界。待ってる間に昼飯の時間だし」
軽い調子で言いながら、歩き出す。
その背中は、さっき診察室で見たときより、少しだけ小さく見えた。
私は隣に並ぶ。
「……さっき」
言いかけて、言葉を探す。
「ん?」
「えんぴつと消しゴムはすぐに出てきたのにね」
「あー、関連してるものはなんか記憶に残るんだよ」
肩をすくめて、冗談みたいに続ける。
「元から記憶力いいほうじゃないし」
その言い方が、あまりにも軽くて。
まるで、自分のことじゃないみたいで。
「春樹……」
「大丈夫だって」
被せるように言われた。
「ほら、暗い顔してるとさ、お前まで病人みたいじゃん」
そう言って、私の頭をぽん、と叩く。
「今日はさ、どっか寄って食べてこうぜ。病院頑張った記念」
本当は、誰よりも傷ついて、誰よりも怖いはずなのに。
それでも春樹は、私の前では明るくいようとする。
その横顔を見ながら、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
――無理しなくていいのに。
――強がらなくていいのに。
そう思うのに、言葉にはできなかった。
私はただ、春樹の隣を、離れないように歩くことしかできなかった。
