執行猶予の恋人




拾ったタクシーの後部座席。

冷房が効きすぎていて、濡れた体が小刻みに震える。
隣に座る彼は、運転手に行き先を告げた後、窓の外を流れる雨景色を無言で見つめていた。

車内にはタイヤが水を弾く音だけが響く。沈黙が痛い。
私は意を決して、まだ互いに名乗っていなかったことを思い出した。

「……名前は?」

彼が窓の外を見たまま、不意に問いかけてきた。
私が聞こうとしたタイミングと重なり、少し肩が跳ねる。

「あ、えっと……潮見夏菜、です。27歳で、事務の仕事をしています」

「潮見、か」

「あなたは?」

彼はゆっくりと視線を窓から外し、けだるげに私を一瞥した。

「折原京一。32歳、法律屋だ」

「法律屋……」

その言葉を聞いて、私はハッとした。
なるほど。先ほど彼が言っていた『真面目な人間ほど損をするようにできていることを日々実感する仕事』というのは、そういうことか。
法律というルールブックを使って、人間の汚い部分を裁いたり、守ったりする仕事。
よく見れば、乱雑に着崩したスーツの襟には、鈍く光るバッジが付けられている。天秤と向日葵の紋章――弁護士バッジだ。

……イケメンで、弁護士で、32歳。

いわゆる「ハイスペック」な男性だ。こんな人が、どうしてあんな公園で雨に打たれていたのだろう。

独身、なのだろうか?
そんな下世話な好奇心が、ふと頭をもたげる。

「……折原、さん。あの、家って、一人暮らしなんですか」

恐る恐る聞いてみる。

「……恋人とか、奥さんとか、いらっしゃらないんですか? いきなり連れ込んだりして」

彼はふっと目を細め、再び窓の外へ視線を逃がした。
その横顔に、一瞬だけ鋭い痛みが走ったように見えた。

「……半年前に同居人が出て行って以来、一人だ」

「あ……」

出て行った。それはつまり、別れたということだろうか。
深く聞いてはいけない気がして、私は「そうですか」と短く呟くことしかできなかった。

彼の纏う寂しさの原因は、その失恋(?)にあるのかもしれない。勝手にそう納得する。
やがてタクシーは、汐留の高層ビル群の一角、見上げるようなタワーマンションのエントランスで静かに停車した。

自動ドアが開くと、ホテルのようなロビーが見える。

「降りろ」

彼は短く告げ、支払いを済ませて先に降りた。
私も慌てて続く。

「あの、折原さん」

エントランスへ向かう彼の背中に声をかけると、彼は自動ドアの前で立ち止まり、振り返った。
その目は、冷徹な「法律屋」の目に戻っていた。

「一つ目の忠告だが」

「はい?」

「初対面の男に強引に迫られたからと言って、家にノコノコついて行くな」

彼は呆れたように吐き捨てた。

「えっ……だ、だって折原さんが来いって……!」

「俺が『安全な男』だという保証がどこにある? 俺がその気になれば、部屋に入った瞬間に君を襲うことも、殺して埋めることもできるんだぞ」

「そ、それは……」

「危機感が足りない。それが君がカモにされる最大の理由だ」

彼は意地悪く口角を上げると、「まあ、今日は特別だ」と呟き、オートロックの解除キーをかざした。

重厚なガラス扉が、静かな音を立てて開く。