普段は考えもしないが、人間は酒をどうやって知るんだろうな。目で見て、耳で聞いて、手で触って。たしかに入口はそこだ。でも、それで酒そのものを知ったつもりになるのは、少し気が早い。たとえば酒豪だ。あれは目に見える。実在する。隣で同じ量を飲んでいるのに、平然としているやつがいる。顔色も変えず、足取りも乱れない。そういうのを見ると、人は強いと片づけたくなる。だが、あれは酒そのものを見ているわけじゃない。俺たちは、酒豪という現れを見ているだけだ。同じ一杯でも、顔が赤くなるやつもいれば、まったく変わらないやつもいる。酔っているのか、いないのか。その判断は、世界をそのまま映した結果じゃない。
人には、生まれつき備わった身体がある。肝臓だ。そいつを通して、酒ははじめて意味を持つ。酔った、酔っていない。その感覚自体が、人間側の受け取り方だ。酒の量と、飲んだあとの時間。俺たちは出来事を、だいたい時間の順で整理する。酔いが引いてから、結果が現れる。そういう並びで、世界を理解している。それは失敗してから覚える知恵というより、最初から頭の中に置かれている考え方に近い。それでも、人は酒に飲まれる。感覚も記憶も時間もばらけて、あとから拾い集めて飲みすぎたと判断する。理性は働くが、万能じゃない。理性には限界がある。見えるものは整えられるが、見えないものは測れない。酒豪は見える。だが、限界そのものや酒の力そのものは見えない。そこから先は、理性が勝手に筋道を作り始める。そんなことを考えていた夜だった。
ドンドン、ドンドン。
「マイクしゃん……」
「由里子ちゃんよ。夜中に事務所の扉を叩くのは勘弁してくれ」
由里子は都内で働くOLだ。酒で上司も部下も隔てなく話せたり、情報交換の道具として飲むのは悪くない。だが、扱いを誤ると厄介だ。一度だけ、商店街で吐いているのを手助けした。それがきっかけだった。それ以来、由里子が自分で危ないと感じたときや、酔いの境目が近づいたとき、俺の事務所は勝手に休憩所にされている。困った女だ。
「マイクしゃん, ひまぁ」
「いや。寝てたよ。おまえが起こしたんだろ」
「ごめんなさぁい」
「今日は、なんかあったのか」
「私、部長に推薦されたんです」
「何か問題があるのか」
「女の私に、勤まるかなって」
「皆から円満に推薦されたんなら、大丈夫だろ」
「えぇん。今日はもう、動けまてん」
「じゃあ、そこで寝ろ。歯ブラシはあそこだ」
ソファを伸ばして、毛布を掛けてやった。由里子は、自分がどこまで飲めるのかを知っているわけじゃない。ただ、越えそうな境目だけは、なぜか感じ取っている。
酒の神様がいるのか。酒縁というものがあるのか。考えることはできる。だが、経験で確かめようとすると、その前に人は潰れる。理性が届かないところだ。昔、飲み屋で聞いた話がある。酒の神様は、酔っぱらいの横には立たない。グラスの底にいる。飲むたびに少しずつ近づいてきて、限界を越えた瞬間、黙って背中を押す。顔も見せない。声もかけない。ただ、押すだけだ。それを酒縁と呼ぶやつもいた。偶然のようで、避けられない流れのことだ。だから、まだ飲めると信じすぎてもいけないし、最初からいないものとして切り捨ててもいけない。
人が飲める限界は、はっきり測れない。分かるのは、越えたあとだけだ。それでも、日常の中で適量を考える力は育てられる。見えるものと見えないもの。その境目を意識して飲めるようになったとき、酒はただの水じゃなくなる。薬と同じだ。量を誤れば毒になる。少し抑えて、たしなむ。それくらいが、ちょうどいい。ほどよく付き合えりゃ、魔法の水だ。
「おはようございます、マイクさん。昨夜はすみませんでした」
「かまわないぜ、俺は」
久美子を見た。少し睨んでいる。
「ごめんなさい、久美子さん」
久美子は、そういう顔をしただけだ。
「由里子ちゃん、出世だって」
「はいぃ。あたま、いてて」
由里子は頭を押さえた。
「ほら、水だ」
「私なんかに、勤まりますかね」
「さっき久美ちゃんと話してたんだがな」
今は、成績をごまかさなけりゃ、試験だけ見れば女性ばかりが上に来る。それも時代の流れだろう。医学界も、教育現場も、経営も、政治も。由里子に伝えたのは、女性であること自体が持っている強さだ。繊細さ、配慮、気づき。誰も口にはしないが、求められているから選ばれる。ただし、間違える女もいる。男の真似をして、芝居がかったやり方をごり押しする。配慮や繊細さを、支配に使う。そうなると、男より厄介だ。由里子には、女としての視点と、これまで積み重ねてきた仕事の視点、その両方を持ってやればいい。そう話した。もっとも、久美子の横やりで、男女の均等だの、共同参画だの、ジェンダーだのと、話はだいぶ脱線したがな。
後日、少し酔ってはいるようだったが、
「今日は、呑まれてません」
そう言い残して、由里子はスキップしながら挨拶だけして通りすぎていった。俺は胸をすっとなでおろした。俺の周りには、いつも気を抜かせない連中がいる。だから、油断ならん。
人には、生まれつき備わった身体がある。肝臓だ。そいつを通して、酒ははじめて意味を持つ。酔った、酔っていない。その感覚自体が、人間側の受け取り方だ。酒の量と、飲んだあとの時間。俺たちは出来事を、だいたい時間の順で整理する。酔いが引いてから、結果が現れる。そういう並びで、世界を理解している。それは失敗してから覚える知恵というより、最初から頭の中に置かれている考え方に近い。それでも、人は酒に飲まれる。感覚も記憶も時間もばらけて、あとから拾い集めて飲みすぎたと判断する。理性は働くが、万能じゃない。理性には限界がある。見えるものは整えられるが、見えないものは測れない。酒豪は見える。だが、限界そのものや酒の力そのものは見えない。そこから先は、理性が勝手に筋道を作り始める。そんなことを考えていた夜だった。
ドンドン、ドンドン。
「マイクしゃん……」
「由里子ちゃんよ。夜中に事務所の扉を叩くのは勘弁してくれ」
由里子は都内で働くOLだ。酒で上司も部下も隔てなく話せたり、情報交換の道具として飲むのは悪くない。だが、扱いを誤ると厄介だ。一度だけ、商店街で吐いているのを手助けした。それがきっかけだった。それ以来、由里子が自分で危ないと感じたときや、酔いの境目が近づいたとき、俺の事務所は勝手に休憩所にされている。困った女だ。
「マイクしゃん, ひまぁ」
「いや。寝てたよ。おまえが起こしたんだろ」
「ごめんなさぁい」
「今日は、なんかあったのか」
「私、部長に推薦されたんです」
「何か問題があるのか」
「女の私に、勤まるかなって」
「皆から円満に推薦されたんなら、大丈夫だろ」
「えぇん。今日はもう、動けまてん」
「じゃあ、そこで寝ろ。歯ブラシはあそこだ」
ソファを伸ばして、毛布を掛けてやった。由里子は、自分がどこまで飲めるのかを知っているわけじゃない。ただ、越えそうな境目だけは、なぜか感じ取っている。
酒の神様がいるのか。酒縁というものがあるのか。考えることはできる。だが、経験で確かめようとすると、その前に人は潰れる。理性が届かないところだ。昔、飲み屋で聞いた話がある。酒の神様は、酔っぱらいの横には立たない。グラスの底にいる。飲むたびに少しずつ近づいてきて、限界を越えた瞬間、黙って背中を押す。顔も見せない。声もかけない。ただ、押すだけだ。それを酒縁と呼ぶやつもいた。偶然のようで、避けられない流れのことだ。だから、まだ飲めると信じすぎてもいけないし、最初からいないものとして切り捨ててもいけない。
人が飲める限界は、はっきり測れない。分かるのは、越えたあとだけだ。それでも、日常の中で適量を考える力は育てられる。見えるものと見えないもの。その境目を意識して飲めるようになったとき、酒はただの水じゃなくなる。薬と同じだ。量を誤れば毒になる。少し抑えて、たしなむ。それくらいが、ちょうどいい。ほどよく付き合えりゃ、魔法の水だ。
「おはようございます、マイクさん。昨夜はすみませんでした」
「かまわないぜ、俺は」
久美子を見た。少し睨んでいる。
「ごめんなさい、久美子さん」
久美子は、そういう顔をしただけだ。
「由里子ちゃん、出世だって」
「はいぃ。あたま、いてて」
由里子は頭を押さえた。
「ほら、水だ」
「私なんかに、勤まりますかね」
「さっき久美ちゃんと話してたんだがな」
今は、成績をごまかさなけりゃ、試験だけ見れば女性ばかりが上に来る。それも時代の流れだろう。医学界も、教育現場も、経営も、政治も。由里子に伝えたのは、女性であること自体が持っている強さだ。繊細さ、配慮、気づき。誰も口にはしないが、求められているから選ばれる。ただし、間違える女もいる。男の真似をして、芝居がかったやり方をごり押しする。配慮や繊細さを、支配に使う。そうなると、男より厄介だ。由里子には、女としての視点と、これまで積み重ねてきた仕事の視点、その両方を持ってやればいい。そう話した。もっとも、久美子の横やりで、男女の均等だの、共同参画だの、ジェンダーだのと、話はだいぶ脱線したがな。
後日、少し酔ってはいるようだったが、
「今日は、呑まれてません」
そう言い残して、由里子はスキップしながら挨拶だけして通りすぎていった。俺は胸をすっとなでおろした。俺の周りには、いつも気を抜かせない連中がいる。だから、油断ならん。

