浦和探偵事務所帖 ぱぁとちゅ♡ 萬屋マイク

 隣の服屋のおばはんが、事務所に飛び込んできた。
「マイクちゃん、ちょっと来てちょうだい」
商店街のざわめきの中でも、はっきり耳に残る声だった。急いではいるが、切羽詰まってはいない。人助けの気配が先に立つ。外へ出ると、道の真ん中に一台、年季の入ったビートルが止まっていた。淡い色の車体は丁寧に磨かれていて、古さよりも手のかけ方が目につく。窓から身を乗り出しているのは、白髪の夫婦だった。
「すんませんなぁ……ふぐしまさ行ぐには、どっちさいげばいいんだい」
福島なまりが、重たく転がってくる。
「福島ね」
俺は一度うなずいた。話を聞くと、年に何度か墓参りでこちらへ来ているらしい。高速は使わない。国道だけを選んで走る。今日は煎餅を買うつもりで、いつもの道を外したら、分からなくなったという。それなら理由としては十分だった。
「新四号まで案内するよ」
「いやぁ、助がりますぅ」
奥さんが、ほっと息を吐いた。事務所へ戻り、退勤前の久美子に声をかける。
「久美ちゃん、新四号の越谷春日部バイパス付近まで付き合える?」
「……あと三十分で上がりなんだけど」
眉を下げた返事は、久美子なりの精いっぱいの断りだった。
「うん、そうだったな」
電話を取り、菜々緒を呼ぶ。
「今どこだ」
「給油中」
「迎えにこれっか」
「位置、送って」
「あんがと」
それで終わりだ。

 俺は奥田さんのビートルの後部座席に収まった。エンジン音が丸い。年式は古いが、鈍さはない。
「ようく手入れしてますね」
「これしか相棒いねぇがらなぁ」
奥田さんはハンドルに手を置いたまま言った。走りながら、奥田さんは自分の話を始めた。脳梗塞を五回。
「んでもな、そのたんび戻ってきたんだわ」
手のひらを開いて閉じてみせる。
「ほれ、まだ動ぐべ?」
誇示というより、確かめるような目だった。まだ走れる。まだ、この車と一緒に動ける。
「墓守も歳で大変だぁ。でもな、この車走らせっと、体が言うごど聞ぐんだ」
新四号の手前で、ビートルはゆっくり止まった。俺はここで降りるぜと言った。
「ここを、どこまでも真っ直ぐ行って、宇都宮で右折な。あとは福島まで曲がらねぇ」
「いづもの道だべ。親切に、ありがどない」
「萬屋さん。本当に、ありがとうございました」
二人は揃って頭を下げた。ビートルが軽くクラクションを二度鳴らし、走り去っていく。

 その直後、渋いエンジン音が重なった。
「あっぶな」
黒いライダースの女が、バイクを滑り込ませる。菜々緒だった。
「相変わらずエロいな。黒蜥蜴みてぇだぞ」
「……なにそれ。呼んどいて、失礼じゃない?」
視線だけで刺してくる。
「悪い悪い」
ヘルメットを受け取り、俺がハンドルを握った。
 走り出すと、風景が流れる。その流れに、記憶が引っかかった。調査の帰り道。二月の福島。深夜。街灯のない田んぼ道。幽霊かと思った。婆さんだった。立っているだけで、危うい。話を聞くと、息子が途中まで送ってくれたと、同じ言葉を繰り返す。聞き取った住所をナビに入れ、送り届けた。着いても、婆さんは首をかしげた。そこは、もう家じゃなかった。道中、婆さんは亡くなったじいさんの話をした。子ども、孫。順番に、宝物みたいに並べる。笑顔が、やけに明るかった。らちがあかず、最後は警察に託した。後日、気になって近所を回った。
「戻ってきやがった」
息子の言葉が、冬の空気に沈んでいた。婆さんが立っていたのは、民家の少ない、さびれた田んぼ道だった。関わった人間として、地域包括支援センターに連絡を入れ、民生委員にも話を通した。できることを、順に置いただけだ。

 回想を引きずったまま事務所に戻ると、久美子はもう帰っていた。菜々緒に、珈琲をいれる。
「またチューニングしただろう」
「わかる?」
「俺を誰だと思ってら。でも本当、ありがとな」
あのあとの商店街は、今日も騒がしい。煎餅屋の前で、人が立ち止まる。あのビートルは、もう見えない。俺は椅子に浅く腰をかけ、前のめりのまま、煙草に火を点ける。走り続けた車も、立ち尽くした婆さんも、全部、俺の時間の中に並んでいる。助けたとか、救ったとか、そういう言葉はいえない。俺がやったのは、少しだけ道を指しただけだ。それでも、指差した先に続きがあることを、俺は願っている。だから今日も、ここで待っている。