一年前――世界大会。
照明はまぶしいほど輝き、リンク全体がキラキラと光に包まれていた。
観客席は満員で、張りつめた空気が会場を支配していた。
冬真自身も、あの日は完璧だった。
ウォームアップの滑りは軽やかで、ジャンプも美しく決まっていた。
そして冬真は、みんなに応援されていた。
褒められて、期待されて。
練習通り、完璧なパフォーマンスをするはずだった。
けれど――
今回の大会で初めて挑戦したルッツに入った瞬間、氷を蹴った足がほんのわずかずれた。
その小さな狂いが、体を空中で傾けさせ、そのまま氷に叩きつけられた。
鈍い音がリンクに響き、観客席がざわめいた。
痛みで顔が歪み、氷に手をついて震えながら立ち上がる。
コーチが止めようとしたが、冬真は無視して演技を続けた。
しかし、足の痛みは容赦なく襲いかかり、その後は何も手につかなかった。
動くたびに足が悲鳴を上げ、アクセルは高さが出ず、スピンは軸がずれ、演技は最悪のものになった。
終わったあと、控室でコーチにこっぴどく叱られた。
「無理をするな」
「選手をやめる気か」
その言葉を浴びながらも、冬真はただ静かにうつむいていた。
だって――
今回も優勝候補だと期待されていた。
たくさん応援してもらっていた。
それなのに、怪我で棄権したなんて、情けないと思ったから。
その怪我は、まだ残っている。
一年間、大会を控えて治療に専念し、完治したはずだった。
だけど、ジャンプをするたびに、たまに痛みが走る。
そしてルッツは、一生のトラウマになった。
ーー
「……誰にも言えなかった。
言ったら、選手引退しろって言われる気がして。
ごめんなさい……後輩にも、こんなに迷惑かけて」
冬真先輩の声は弱く、でもどこか必死で、胸の奥に深く響いた。
はじめは、なんて返せばいいのか分からなかった。
胸の奥が痛くて、言葉が喉につかえて出てこない。
ずっと憧れてきた先輩が、見たことないところを見せてくれている。
その事実が、胸のどこか深いところに触れて、どうしようもなく涙がこぼれた。
「……そんなの……言ってくださいよ……っ」
声が震えて、涙で視界がにじむ。
「ひとりで……そんなの抱えないで……私……ずっと……」
そこまで言って、言葉が止まった。
胸の奥で、苦しいような、温かいような感情が渦を巻く。
ずっと憧れてきた。
その気持ちは変わらない。
むしろ、もっと強くなっている。
でも――
先輩の過去を知った瞬間、その憧れが、別の形を帯びた気がした。
その変化に気づいた瞬間、胸の奥がふっと熱くなった。
憧れは、ずっと前からあった。
先輩の滑りも、努力も、背中も、全部が私の目標。
でも今、胸を締めつけているこの感情は、あの頃の憧れだけとは少し違っていた。
「……先輩のこと、ずっと見てきたから……
だから……そんなふうに言われたら……」
言葉がそこで途切れた。
続きが見つからない。
何というのが最適か、すぐにはわからなかった。
ただひとつだけ分かっていたのは――
先輩のことを、前よりもずっと強く想っている。
その事実だけだった。
梨桜が言葉を詰まらせたまま涙をこぼしているのを見て、冬真先輩は一瞬、息を呑んだように固まった。
「……梨桜……?」
驚きと戸惑いが混ざった声。
でも、その響きはさっきまでよりずっと柔らかかった。
先輩はそっと近づき、梨桜の肩に、ためらいがちに手を置く。
「……ごめん。
そんなつもりじゃなかった」
その言葉は、自分を責めるようでもあり、梨桜を気遣うようでもあった。
梨桜は首を振った。
うまく言葉にはできないけれど、“違う”という気持ちだけは伝えたかった。
先輩はしばらく黙って、ただそばにいてくれた。
リンクの空気は冷たいはずなのに、二人の間には、温かいものが静かに流れていた。
やがて、梨桜が少しずつ落ち着いていくのを見て、冬真先輩は小さく息を吐いた。
「……大丈夫?それから、怪我も。
応急処置はしたけど……歩けそう?少し休んでから、ゆっくり戻ろう」
その声で、梨桜ははっとした。
先輩の過去の話が衝撃的すぎて、自分が怪我をしていたことをすっかり忘れていた。
「……大丈夫です」
小さな声でそう返す。
リンクへ戻ると、氷の冷たさが、さっきより穏やかに感じられた。
「今日、無理はよくない。軽く滑って終わろう」
そうして、軽く通して終わった。
その余韻を味わう前に、すぐ大会前日に飛んでしまった。
ついに、大会の前日がやってきた。
今日は大会会場で公式練習がある。
新幹線を乗り継ぎ、会場へ向かっていた。
曲かけ練習で本番と同じリンクを使えるので、音響や氷の硬さ、サイズを確認するため。
怪我はまだ完全じゃない。
ルッツも安定していない。
それでも――
ブロック、地区と勝ち上がってきた全国大会。
だからこそ、完璧な滑りをしたかった。
胸の奥がざわつく。
焦りと不安と、それでも前に進みたい気持ちが混ざり合って、落ち着かない。
新幹線に揺られて一時間半ほどで着いた会場は、見慣れない雰囲気で新鮮だった。
向かう途中、同じように髪をお団子にまとめた、同年代の選手たちが歩いているのが見える。
その背中を見ているだけで、「みんな同じように緊張しているのかな」と思うと、少しだけ心が軽くなった。
会場に着くと、コーチが待っていた。
「おはようございます」と挨拶をして、更衣室へ向かう。
キャリーケースから丁寧に取り出した衣装は、届いた日に一度試着しただけで、これを着て滑るのは今日が初めてだった。
繊細でキラキラしていて、胸が高鳴る。
鏡に映る自分の姿に、ほんの少し自信が芽生える。
リハーサルなので、メイクもある程度本番仕様に整える。
準備を終えてコーチのもとへ戻ると、コーチはいつもより険しい顔で、
「今日は確認だけして終わる」
と短く言った。
その声に、緊張感がさらに増す。
リンクに入り、軽く滑って氷に慣れる。
試しにジャンプを跳んでみると、病院出テーピングをしてもらったので、怪我の痛みは感じにくくて、ほっとした。
ウォーミングアップが終わると、選手が一人ずつ中央に立ち、通し練習が始まった。
ほかの子のパフォーマンスを見ていると、みんな完璧なパフォーマンス。
ジャンプも安定していて、笑顔もあって、自信が全身からあふれていた。
フリップもスピンも美しくて、胸の奥にまた焦りが湧き上がる。
そして、何組かが終わったあと――
ついに私の番が回ってきた。
「次、梨桜選手、曲かけに入ります」
アナウンスが響いた瞬間、緊張が一気に押し寄せ、手足が冷たくなる。
深呼吸をして、コーチに背中を押され、中央へ歩いた。
最初のポーズを取ると、曲が流れ始めた。
予定通りに滑り出し、助走に入る前、ふと胸の奥がざわついた。
「……先輩なら、ここでどう滑るんだろう」
その考えが浮かんだ瞬間、背筋がすっと伸びた。
冬真先輩の滑りは、いつだって迷いがなくて、丁寧。
感情も動きに表れているような。
私も、あんなふうに滑りたい。
ただ技術をこなすんじゃなくて、“気持ち”を乗せて。
そして、ジャンプに入る瞬間、リンク全体が張りつめる。
思い切って氷を蹴った。
――成功。
周りから拍手が起こり、コーチもうなずいていた。
初めて着た衣装がふわっと揺れる。
ついこの間まで不安定だったルッツも無事成功し、思わず安堵の笑みがこぼれた。
最後のポーズを決めると、音楽が止まった。
リンクサイドに戻ると、コーチが言った。
「いい感じ。このまま明日に備えて、少し確認しよう」
その言葉に緊張がほどけ、胸が軽くなった。
リンクを出たあとは、コーチと反省会をして、調整のために陸で入りの動きを再確認する。
そして休憩がてら、反省点や氷の感触をメモしていく。
その時、同じく休憩している、コーチがペットボトルの水を飲みながら、ふっと笑った。
「そういえば冬真が、“梨桜、大丈夫かって”心配してたぞ」
「……え?」
思わず顔が上がった。
コーチは特に深い意味もなさそうに肩をすくめる。
「お前、最近無理してたからな。あいつ、気にしてたみたいだ」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
先輩は今日ここにいないのに。
それでも、自分のことを気にかけてくれている――
その事実だけで、呼吸が少し楽になった。
「……そうなんですか。」
小さくつぶやくと、コーチは「まあな」とだけ返し、また水をひと口飲んだ。
その何気ないやり取りが、張りつめていた心を少しだけほぐしてくれる。
私はメモ帳を閉じ、深呼吸をした。
胸のざわつきはまだ完全には消えないけれど、さっきよりも前を向ける気がした。
「よし、あと少し確認して終わるぞー」
コーチの声に、私は立ち上がる。
明日は本番。
不安もある。
でも――
先輩が見てくれている気がする。
それだけで、もう一度、氷の上に立つ勇気が湧いてきた。
練習が終わって、お母さんが取ってくれていた大会会場近くのホテルへ向かった。
チェックインを済ませ、部屋に案内してもらう。
部屋はビジネスホテルの一人部屋で、広くはないけれど、一人で過ごすには十分だった。
キャリーケースを端に置き、スマホを取り出して、そのままベッドに倒れ込む。
ベッドは私の重さでふわっと沈み、思った以上に柔らかくて、体を優しく包み込んでくれた。
ビジネスホテルなのに、驚くほどふかふかで気持ちいい。
スマホの画面を見ると、通知がひとつ。
開いてみると――冬真先輩の名前があった。
「えっ……冬真先輩……?え、嘘……先輩が?
ていうか、なんで私のLINE……?」
情報量が多すぎて、一瞬思考が止まる。
心臓がどくん、と跳ねた。
指先が震える。
でも、意を決してメッセージを開いた。
そこには、冬真先輩らしい、冷たくはないけれど、必要以上に馴れ馴れしくもない、ちょうどいい距離感の応援の言葉が並んでいた。
「グループメッセージからもらった勝手にごめん
明日、頑張れ」
グループから見つけてくれたんだ。
しかも、応援メッセージまで。
ちゃんと私のことを気にしてくれている。
胸の奥がじんわり温かくなる。
スマホを胸に抱えたまま、私はベッドの上で小さく息を吐いた。
「……がんばらなきゃ」
誰に言うでもなく、自然とその言葉がこぼれた。



