「ありがとうございました」
リンクから上がると、冷たい空気が肌に触れる。
私はタオルで首元を押さえながら、スケート靴の紐を緩めた。
冬真先輩は少し離れたところで、自分の靴を外していた。
横顔は落ち着いていて、特に変わった様子はない。
ただ――
靴を脱ぎ終えたあと、ほんの一瞬だけ足首に触れた。
触れたというより、確認するような、癖のような動き。
私の視線は自分の靴紐に向いていた。
「じゃ、帰るぞ」
先輩の声がして、私は顔を上げた。
「はい」
それだけの会話。
それだけで十分だった。
二人でリンクを出る。
更衣室前のベンチで、冬真先輩はタオルを肩にかけたまま汗を拭いていた。
私は靴紐を緩めながら、今日の練習を思い返す。
「……最後のフリップ、入りがちょっと遅かったです」
「踏み切りの前。氷の押し方を変えろ」
私は頷きながら靴を脱いだ。
先輩が続けようとしたその瞬間――
言葉が、ほんの一瞬だけ途切れた。
「……それと、助走の……いや、いい。明日でいい」
その一瞬の“間”は、時間がないから。
そのとき、リンクの奥からコーチの声が飛んできた。
「冬真ー! お前、次の大会出ないんだから、無理すんなよー!」
私は思わず顔を上げた。
「……え? 先輩、出ないんですか?」
冬真先輩はタオルで髪を拭きながら、視線を横にそらした。
「……まあ、色々忙しくて」
「そっか……」
私は、先輩も高校とかなんやらで忙しいのか。
来年になったら、私も忙しくなるのかな。
そんなことをぼんやり考えていた。
先輩は立ち上がり、軽く足を伸ばした。
伸ばした後、すぐにスニーカーに履き替えて、
「帰るぞ」
「あ、はい」
いつも通り、駅まで走ったら、ホームで、止まってる電車に出くわした。
いつもより、一本早い電車に乗れた。
ラッキーと言いながら、電車に乗る。
電車に乗ると、ちょうど座席がひとつ空いていた。
荷物を膝に置いて、息をつく。
窓の外はもう暗くて、街灯の光が流れていく。
なんとなくスマホを開いて、指が勝手にSNSのアイコンを押した。
一年前の大会の写真。
リンクの真ん中で跳んでいる瞬間。
空中で体がまっすぐ伸びていて、氷の上とは思えないくらい軽い。
「……やっぱり、すごいな」
思わず小さく声が漏れた。
何回見ても、同じところで止まってしまう。
助走のスピード、踏み切りの角度、空中姿勢。
全部が綺麗で、全部が自分とは違う。
スクロールすると、別の日の動画が出てきた。
跳んだ瞬間の音が、画面越しでもはっきり聞こえる。
私は無意識に再生を繰り返していた。
そのまま下へスクロールしていく。
ふと気づく。
最近の投稿には、大会の写真が一枚もない。
「……あれ?」
そういえば、今日先輩、“忙しい”って言っていた。
コーチも「今回のは、大会出ない」って言っていた。
忙しいなら、仕方ない。
私は画面を閉じて、窓の外を見た。
街灯の光が流れていく。
「……来年になったら、私も忙しくなって出れなくなるのかな」
大会のことなんて、まだ先の話だと思っていたのに。
先輩のSNSを見ていたら、ふとそんなことを考えてしまった。
電車が揺れて、私はスマホを握り直した。
――頑張らないと。
胸の奥で、小さくそう思った。
今できることをちゃんとやりたい。
そこで、ふと気づく。
「……あ、そういえば」
大会用のベージュのタイツ。
去年のは、もう薄くなっていた気がする。
電車が次の駅に止まった。
私は立ち上がって、降りる準備をした。
駅前のスポーツショップは、改札を出てすぐのところにある。
家に帰る前に寄っておこう。
そんな軽い気持ちで、私は電車を降りた。
店に入ると、暖房の風がふわっと肌に触れた。
スケート用品の棚には、大会用のタイツがきれいに並んでいる。
「どれにしようかな……」
手に取って、生地の厚さを確かめる。
去年のより少ししっかりしている。
ベージュの中でも、色味も微妙に違っていて、明るめのベージュ、少し濃いベージュ。
照明の下だと、どれも似ているようで違う。
しばらく悩んで、結局いつもと同じ色味のものを選んだ。
レジに向かう途中、スケート靴の紐や、大会用のヘアアクセサリーが目に入る。
どれも可愛いけど、今は必要ない。
袋を受け取って店を出ると、外の空気は少しだけ湿っていた。
大会まで、あと少し。
私は袋を持ち直して、家までの道を歩き始めた。
大会まで、あと3週間を切った。
リンクに入ると、空気がいつもより少しだけ張りつめている気がした。
コーチの声も、前より少しだけ大きいし厳しい。
「梨桜、そこ違う! 踏み切りの角度、もっと外!」
「はい!」
返事をしながら、息が上がる。
ジャンプの本数も、スピンの回転数も、前より増えていた。
コーチは私の動きを見て、次々に指示を出す。
「もう一回!」
「……はい!」
何度も跳んで、何度も回って、何度も注意される。
大会が近いから、仕方ない。
コーチが別の選手のところへ行くと、冬真先輩が近づいてきた。
「さっきの、入りが浅い。もっと前に」
「前……?」
「そう。氷の押し方が変わる」
先輩は短く言って、私の助走のラインを指で示した。
私は頷いて、もう一度跳ぶ。
でも、大会が近づくにつれて、先輩に教えてもらう時間も、だんだん短くなっていった。
コーチの指示が増えて、自分のメニューも増えたからだ。
先輩は、いつも通り淡々と滑っていた。
大会に出ないとはいえ、練習は欠かさない人だ。
私は自分のジャンプの位置に戻りながら、ちらっと先輩のほうを見た。
ただ静かに滑っていて、特に変わった様子はなかった。
「……はぁ……」
氷の上の空気は冷たいのに、体の中はずっと熱いままだった。
家に着いたころには、外はすっかり暗くなっていた。
玄関の灯りがついているのを見て、少しだけほっとする。
靴を脱ぐと、足がじんわり重かった。
つま先を動かすだけで、今日の疲れがどっと出てくる。
「……つかれた」
声に出すと、空気が少し震えた。
家の中は暖かくて、その温度差で体の力が一気に抜ける。
カバンを置いて、ストレッチマットを広げる。
床に座ると、太ももの裏がすぐに張った。
足を伸ばして、ゆっくり前に倒れる。
今日コーチに言われたことが頭の中に浮かんだ。
どれも、できているようでできていない。
明日になったら、また感覚を忘れている気がする。
ストレッチを終えて、スピナーを取り出す。
軽く、何もなしで回ってみてから、スピナーの上で回ってみる。
氷の感覚とは違って、いつまでたっても慣れない。
でも、これをするだけで、次の日のスピンは少しスムーズな気がしていた。
ぼーっとしながら回ると目が回るので、ならないように、視線を一点に研ぎ澄ませて追っていく。
スピナーの練習を終えて、次はジャンプの練習に入ろうと思ったけど、軽い休憩のつもりで、なんとなくスマホを手に取った。
指が勝手にSNSのアイコンを押す。
タイムラインには、同い年の選手たちの大会情報が流れていた。
新しい衣装の写真。
リハーサル動画。
「今年は調子いい!」というコメント。
胸の奥が、少しだけざわついた。
「……みんな、もう仕上がってるな」
呟いた声が、自分でも驚くくらい小さかった。
画面をスクロールすると、去年の大会の動画が流れてきた。
同じ年の子が綺麗に回っている。
私は思わず息を止めた。
「……頑張らないと」
自分に言い聞かせるように、スマホをそっと伏せた。
練習を再開すると、さっきより体が少しだけ重く感じた。
助走の足を置いて、肩の向きを合わせて、踏み切る直前で止まる。
何度も繰り返しているうちに、足の裏がじんわり熱くなってきた。
「……今日は、ここまででいいか」
そう思った瞬間、体の力がふっと抜けた。
マットの上に座り込んで、天井を見上げる。
明日も練習だ。
大会まで、あと少し。
胸の奥が、期待と不安でゆっくり揺れていた。
翌日のリンクは、いつもより少しだけ冷たく感じた。
氷の表面が、光を反射して白く光っている。
スケート靴を締めながら、足の甲に昨日の疲れがまだ残っているのが分かった。
「……よし」
小さく息を吐いて、氷に乗る。
最初の一歩で、足の裏にじんわりとした重さが広がった。
でも、動き始めればそのうち慣れる。
ウォームアップのスケーティングをしていると、コーチの声がリンクに響いた。
「梨桜、昨日言ったところ、ちゃんと意識してるか?」
「はい」
助走に入る。
全部、昨日の夜に確認した通り。
「……あ」
着氷の瞬間、ほんの少しだけ軸がぶれた。
疲れのせいか、焦りのせいか、自分でも分からない。
コーチが近づいてくる。
「もっと前に体重を乗せろ」
「はい……!」
もう一度跳ぶ。
今度はさっきよりマシだけど、まだ完璧じゃない。
「そこ、練習しとけ」
吐き捨てるように言って、コーチは別の選手のところへ向かっていった。
私は息を整えながら、リンクの端で軽くストレッチをした。
そのとき、冬真先輩がゆっくり近づいてきた。
「先輩、昨日のところ、もう一回見せてくれませんか」
そう言うと、先輩は軽くうなずいた。
「わかった。じゃあ、やるから見といて」
先輩は助走ラインに立ち、氷を切り始める。
私は足元をよく見ようと、少し前に出た。
その瞬間――
「……っ」
着地の音が、ほんの少しだけずれた。
エッジがわずかに滑り、先輩の体が一瞬だけ傾く。
先輩の顔が、かすかに歪んだ。
「せ、先輩……だいじょうぶですか」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
先輩はすぐに体勢を立て直し、何事もなかったように言った。
「ごめん、ミスった」
でも、その平気は薄かった。
どこかに、わずかな痛みがにじんでいるように感じた。
「ごめんなさい……私が頼んだから」
「違う。ほんとにミスっただけだから。大した怪我とかじゃないし」
「……大けがじゃなくてよかった」
私は先輩の言葉を信じて、いつもの練習に戻った。
スケート靴を締めていると、
視界の端に冬真先輩の姿が入った。
いつも通りストレッチをしている。
私はそのまま靴紐を結び終えた。
氷に乗ると、先輩もリンクに入ってきた。
でも、最初の一歩が、ほんの少しだけ重そうに見えた。
気のせいかもしれない。
でも、昨日バランスを崩した瞬間が、頭の中でよみがえる。
「おはようございます」
声をかけると、先輩はいつも通り軽く頷いた。
「おはよ」
その声も、いつも通り。
だけど、どこか疲れが混じっているように聞こえた。
私はウォームアップをしながら、
先輩の滑りをちらっと見る。
助走のスピードはいつもと変わらない。
姿勢も綺麗。
でも――
ジャンプに入る前の“ため”が、少し長い。
「……昨日の、やっぱり痛かったのかな」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
先輩は回転も、着地もきれいに決まった。
でも、着いた瞬間、ほんの一瞬だけ眉が動いた。
普通なら気づかないくらいの小さな変化。
でも、昨日のことがあったから、私はその一瞬を見逃さなかった。
「……先輩」
声をかけようとして、でも、言葉が喉の奥で止まった。
“昨日のせいだ”なんて、そんなこと言えるわけがない。
ただ、不安だけが胸の中でゆっくり広がっていく。
先輩は何事もなかったように滑り続けている。
でも、私はどうしても、昨日のあの歪んだ表情を思い出してしまった。
「……大丈夫、だよね」
自分に言い聞かせて、まだ心配が残るけど、私は自分の練習に戻った。
そのあと、冬真先輩は、しゃがんで足元を押さえていた。
けれど、私はその姿に気づいていなかった。
所々、先輩のおかしな部分がありつつも、ついに大会一週間前になっていた。
コーチもさらに厳しくなり、焦りが出てきて、毎日夜の11時、閉館くらいまで練習をしていた。
10時を過ぎ、みんな帰って、リンクが貸し切り状態になったとき、ちょっと休憩がてらに外の自販機へ水を買いに行こうとした。
そして外に出たとき、誰かの会話が聞こえてきた。
はじめはスタッフの人かと思ったけど、聞こえてきたのはコーチの声だった。
「そんなわけないだろう」
その声には、少し怒りがにじんでいた。
本当はよくないけど、私は声のするほうに近づいて、聞き耳を立てた。
ひそひそとしたコーチの声と、誰かの声。
そっと覗いてみると、コーチと冬真先輩の姿があった。
「ほんとに大丈夫なので」
先輩の声は静かだった。
「でも、確実に去年の滑り方と最近の滑り方が違う」
コーチの声は低くて、鋭かった。
「なので……」
その先の言葉は聞こえなかったけれど、二人の空気が張りつめているのが分かった。
しばらくやり取りを聞いていたけれど、私は居ても立ってもいられなくなって、どうしようか迷った末、何も知らないふりをして自販機へ向かった。
(やっぱり……あの怪我、痛かったんだろうな)
胸の奥がぎゅっと痛くなる。
先輩に申し訳ない。
先輩に怪我をさせてしまった申し訳なさと、罪悪感がひどく残った。
自販機で水を買って、そのままリンクへ戻った。
リンクへ戻ってからも罪悪感にのまれながら、適当に滑っていると、話を終えたらしいコーチが戻ってきた。
「梨桜、まだやってるのか。そういえばさっき言い忘れてた。ルッツのところ、練習してないだろ。練習しといて」
「あ、はい」
返事をして、ルッツを一回跳んでみる。
そういえば、先輩に言われて、まだちゃんとやっていなかったな――
と、思い出した。
もう一回、ルッツを跳んでみる。
でも、うまくできない。
完成していないの、ピンチすぎる。
最後のルッツで全体の流れが決まるのに、そのあと一つがどうしても繋がらなかった。
焦りと、毎日の疲れと、それに加えて先輩の様子も気になって、いろんな感情がぐるぐるしていた。
ミスる回数も、確実に増えている気がする。
入賞どころか、最下位だってありえる。
胸の奥がぎゅっと縮まる。
それでも、できるまでやらなきゃと思って、何回も何回も跳んだ。
足が疲れてきて、跳ぶたびに衝撃が走って、着地のたびに足首がじんわり痛くなる。
限界が近いのは分かっていたけど、止まったらもっと不安になりそうで、なかなかやめられなかった。
けれど、ついに足がずきっと痛んで、私はリンクの端にあるベンチに座り込んだ。
「疲れた……」
小さく呟いて、壁に体を預ける。
リンクの照明がぼんやり滲んで見えた。
まぶたが重くなっていく。
気づいたら、私はそのままベンチで少しだけ眠ってしまっていた。
「梨桜、梨桜」
ぼんやりした意識の中で、誰かに名前を呼ばれているのが聞こえた。
まぶたを開けると、目の前にコーチと冬真先輩の顔があった。
「……っ、すみません!」
私は慌てて飛び起きた。
寝てしまったなんて、恥ずかしすぎる。
すぐにリンクへ戻ろうとして立ち上がった瞬間――
「わっ……!」
中途半端にはまったガードと、慌てていたせいで、そのままこけた。
「大丈夫か」
コーチがすぐに手を差し伸べてくれて、私は起き上がらせてもらった。
「す、すみません……!」
「もう11時。閉館の時間だから帰れ」
その言葉に、私はさらに慌てた。
「すみません、すぐ帰ります!」
頭を下げて、急いで荷物のところへ向かう。
スケート靴を脱ぎながら、胸の奥がまだドキドキしていた。
建物から外に出ると、夜の空気が一気に肌に触れた。
熱がすっかり消えたアスファルトは、まるで冷たい水面みたいに静かで、足音だけが小さく響いた。
そのとき――
「梨桜」
背後から名前を呼ぶ声がした。
冬真先輩だった。
でも、私はさっきの恥ずかしさがまだ胸に残っていて、振り向く勇気が出なかった。
背中に視線を感じるのに、足だけが勝手に前へ進んでいく。
胸の奥が、どくどくとうるさく脈打っていた。
「……梨桜」
さっきより少し強い声。
夜の静けさの中で、その響きがやけに鮮明だった。
それでも私は、顔を上げられなかった。
そしてついに――
「おい」
短く、でもはっきりとした声が背中を撃った。
その瞬間、“先輩に無礼なことをしている”という思いが、胸の奥にずしんと落ちてきた。
私は立ち止まり、深く息を吸って、「……はい」と振り返った。
街灯の光が先輩の輪郭を縁取っていて、その姿が少しだけ滲んで見えた。
疲れのせいか、それとも胸のざわつきのせいか分からない。
「無理しすぎ。体調管理も、選手として大事。」
冬真先輩の声は、夜の空気に溶けるように静かだった。
叱るでもなく、優しすぎるわけでもなく、ただ真っ直ぐで、胸の奥にすっと刺さるような響きだった。
私は思わず口を開いた。
「先輩も、……!」
言った瞬間、自分が何を言おうとしているのかに気づいて、心臓が跳ねた。
“先輩も無理してるじゃないですか”
“先輩こそ、もっと自分を大事にしてください”
その言葉が喉の奥までせり上がってきていた。
でも、言ってしまったら、先輩の秘密を暴くことになる。
それが怖かった。
触れたら壊れてしまいそうで。
私は慌てて頭を下げた。
「す、すみません……!」
冬真先輩は一瞬だけ目を見開いた。
その表情には、ほんの少しだけ傷ついたような影が差していた。
「……なに」
短く、低い声。
怒っているというより、“どうして言ってくれないんだ”と静かに問いかけられているような響きだった。
胸がぎゅっと縮まる。
私は視線を落として、小さく首を振った。
「ごめんなさい。……何でもないです」
夜風が頬を冷やしていくのに、胸の奥だけが熱くて、苦しかった。
先輩はしばらく私を見つめていたけれど、やがて小さく息を吐いて、視線をそらした。
「言って」
先輩は、目をそらしたまま、訴えた。
だけど、私は、言ってしまった後悔と、先輩の表情を見てしまったという罪悪感で、少しでも早くこの場を去りたくて先輩を置いて駅のほうへ駆け出した。
走りながら先輩の顔が頭の中に浮かび上がってくる。
何度も移り出てくるあの横顔は、寂しそうに見えた。
まるで、空に浮かぶ薄い月みたいに、静かで、触れたら消えてしまいそうだった。



