私は一人でジャンプの練習をしていた。
全国大会まで、あと一か月を切っている。
振り付けも決まっているし、ジャンプの構成も固まっている。
それなのに――どうしても、完成度が足りなかった。
跳んでも跳んでも、何かが足りない。
着氷の音が響くたびに、胸の奥がざわつく。
コーチには言われたばかりだ。
「表現力が足りない。淡々と滑りすぎ。」
その言葉が、氷より冷たく胸に残っている。
“淡々と”――そんなつもりはないのに。
昔から、ずっと、技術があれば、優勝できると思い込んでいて、ごまかしていた。
それが今になって響いている。
でも、どうすれば“気持ち”なんて乗せられるのか分からない。
焦りが、じわじわと広がっていく。
もう一度ジャンプに入ろうとしたとき――
「梨桜」
静かな声が、リンクに響いた。
振り返ると、リンクサイドに冬真先輩が立っていた。
練習着のまま、髪に少しだけ氷の粒がついている。
同じクラブの、一つ上の先輩。
技術も表現も高くて、誰もが認める存在。
私がずっと“目標”にしてきた人。
「コーチに、梨桜の練習見ろって言われた」
「えっ……コーチから!?」
思わず声が裏返った。
自分でも驚くくらい、動揺していた。
内心、めちゃくちゃ焦ってる。
でも、先輩の前なので必死に平静を装う。
「はい。よろしくお願いします」
そう言った瞬間、声が震えたのが自分でも分かった。
先輩の前だと、どうしても緊張してしまう。
冬真先輩はスケート靴のガードを外し、ゆっくりとリンクに足を踏み入れた。
その動きだけで、空気が変わる。
私の目の前で止まった先輩は、短く言った。
「一回、見せて」
その視線は、刺すように鋭い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、ちゃんと見てくれている気がして、胸が熱くなる。
失敗しませんように――
そう祈りながら、私はジャンプに入った。
助走。
氷を蹴る音。
体が浮く瞬間の、あの一瞬の無重力。
着氷。
悪くはない、はず。
でも、完璧でもない。
冬真先輩は、数秒だけ黙って私を見ていた。
その沈黙が、やけに長く感じる。
そして、静かに言った。
「途中で、気持ちが消えてる」
「気持ち……?」
自分でも分かっている弱点。
でも、言葉にされると、どうしても心が揺れる。
「淡々と滑りすぎだ」
先輩の声は冷たくない。真っ直ぐだった。
「あ……この前、コーチにも言われました……」
言った瞬間、恥ずかしさが込み上げる。
あこがれている先輩に弱点を見抜かれると、どうしても胸がきゅっとなる。
冬真先輩は、少しだけ目を細めた。
責めるような目じゃない。
ただ、ちゃんと見てくれている目だった。
冬真先輩は、私の言葉を聞いたあと、ほんの少しだけ視線を下に落とした。
考えているときの癖なのかもしれない。
数秒の沈黙。
その沈黙が、氷よりも冷たい。
やがて先輩は顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「ジャンプに入る前に“呼吸”が止まってる」
「……呼吸?」
自分では全然気づいていなかった。
冬真先輩は、リンクの中央にゆっくり歩いていく。
その背中を見ているだけで、“本物の選手”ってこういう人なんだと思わされる。
「来て」
呼ばれて、慌てて先輩の横に並ぶ。
距離が近い。
緊張で、手の先まで冷たくなる。
「ジャンプに入る前、こうやって――」
先輩は胸の前で軽く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「呼吸を整えると、気持ちが途切れにくい。動きに“流れ”ができるから」
淡々としているのに、
言葉の一つ一つが胸に落ちてくる。
私は真似してみる。
息を吸って、吐いて――
でも、先輩みたいにうまくいかない。
「もっと肩の力抜いて」
冬真先輩が、私の肩にそっと手を置いた。
一瞬、心臓が跳ねた。
憧れの先輩に触れられた緊張。
「……すみません」
「別に。緊張してるの、見れば分かる」
先輩はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか分からないくらいの、ほんの小さな変化。
でも、そのわずかな変化に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「もう一回、やってみて」
促されて、私は助走に入る。
さっき教わった呼吸を意識して――
氷を蹴る音が、少しだけ軽くなった気がした。
完璧じゃない。
でも、さっきより“流れ”があった。
冬真先輩は、静かに頷いた。
「今の。さっきよりずっといい」
その一言が、胸の奥にじんわり広がっていく。
褒められたのが嬉しい。
気づけば、夢中で滑っていた。
リンクの端で息を整え、もう一度ジャンプに入ろうとしたとき――
「……まだやってんの?」
ふいに声がして、思わず顔を上げた。
冬真先輩が、リンクサイドに立っていた。
「せ、先輩……帰ってなかったんですか」
「コーチの話が長くて。今戻ってきた。……って、ずっと練習してたの?」
驚いたように目を見開いていた。
そんな表情を見るのは、初めてだった。
「えっと、まあ……はい。さっきの忘れたら意味ないので……」
言いながら、じわっと恥ずかしくなる。
嘘じゃないけど、なんか照れる。
冬真先輩は、しばらく黙って私を見ていた。
その沈黙が、氷より冷たく胸に響く。
「……熱心だな」
ぽつりと落ちたその言葉は、褒め言葉というより、本気で驚いているように聞こえた。
「え、いやでも……みんなさっきまで残ってたし……」
思わず言い訳みたいに返してしまう。
でも、先輩は首を横に振った。
「いや、みんな帰ってから一時間たってる」
冬真先輩が淡々と言った瞬間、頭の中が真っ白になった。
「え、今何時!?」
慌てていて、思わずため口が出てしまった。
先輩相手なのに、完全に素が出た。
けれど冬真先輩は気づいていないようで、自分の腕時計をこちらに向けて見せてくれた。
「もう……こんな時間」
針は、思っていたよりずっと進んでいた。
胸の奥が一気に熱くなる。
恥ずかしさで、おろおろしていると、
「……夢中になりすぎだろ」
冬真先輩は、呆れたような、でもどこか少しだけ感心しているような声で言った。
冬真先輩は腕時計を戻しながら、少しだけ視線を落として言った。
「……まあ、いいけど。でも、集中しすぎて怪我すんなよ」
先輩としての本気の心配って感じで、うれしかった。
「今日はもう上がれ」
その一言は、きっぱりとしていた。
「……でも――」
と言いかけたけれど、先輩の真っ直ぐな目を見たら、反論する気持ちはすぐに消えた。
「……はい。わかりました」
素直に返すと、冬真先輩は軽くうなずいた。
先輩はリンクサイドから少し離れ、私が上がるのを待つように立っていた。
私はリンクの端まで滑っていき、しゃがんでスケート靴にガードをはめる。
金属の刃がガードに収まる“カチッ”という音が、リンクに静かに響いた。
立ち上がって先輩の方へ歩くと、冬真先輩は何も言わずに歩き出した。
その後ろを、少し距離を空けてついていく。
更衣室へ向かう廊下は、リンクより少し暖かくて、さっきまでの緊張がふっとほどけていく。
更衣室の前で足を止め、私は軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」
冬真先輩は振り返り、ほんの一瞬だけ目を合わせて言った。
「……おつかれ」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
先輩はそのまま歩き去っていき、私はしばらくその背中を見送っていた。
更衣室で荷物をまとめ、
スケート靴の重さを肩に感じながら外へ出た。
リンクの冷たい空気がまだ体に残っていて、頬がほんのり火照っている。
――急がないと。
最寄り駅まで小走りで向かう。
冬の夕方の空気は冷たくて、走るたびに白い息がふわっと広がった。
駅に着くと、ちょうど電車の発車ベルが鳴っていて、私は慌てて階段を駆け上がった。
ホームに着いて、息を整えながら電車を待っていると――
ふと、視界の端に見覚えのある姿が映った。
反対側のホーム。少し離れた場所に、冬真先輩が立っていた。
練習着の上にパーカーを羽織って、イヤホンを片耳だけつけて、電車を待っている。
思わず固まってしまう。
声をかけるには距離が遠い。
それに、なんとなく恥ずかしい。
私はそっと視線をそらした。
冬真先輩は、ホームの端の方で、静かに電車を待っていた。
その姿を見ていると、今日の練習のことが胸の奥でじんわり蘇ってくる。
思い出すたびに、胸の奥があたたかくなる。
そのとき、反対側のホームで
冬真先輩がふと顔を上げた。
目が合った。
一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
そのとき、電車がホームに滑り込んできて、風がふわっと足元を抜けた。
私は小さく、軽く頭を下げた。
冬真先輩も、ほんのわずかに顎を引いて返してくれた。
電車の扉が開く。
私は乗り込み、振り返る間もなく扉が閉まった。
ガタン、と車体が揺れて動き出す。
窓の外に流れていくホームの景色の中で、冬真先輩の姿が一瞬だけ見えた。
そのまま電車は加速して、先輩の姿はすぐに遠ざかっていった。
座席に腰を下ろすと、今日の出来事が一気に胸に押し寄せてくる。
窓に映る自分の顔は、練習の疲れが残っているはずなのに、どこか少しだけ嬉しそうだった。
家に着くと、もう10時半を過ぎていた。
玄関を開けると、温かい匂いがふわっと広がる。
「おかえり、遅かったね」
家族がご飯を作って待っていてくれたので、私は急いで手を洗って席についた。
食べ終わって、ささっとお風呂に入り、髪を乾かしてベッドに倒れ込む。
スマホを開いて、なんとなくインスタを眺めていた。
フォローしている選手の動画や、
スケートの振り付けの参考になる投稿を流し見していると――
ふと、関連アカウントの欄に見覚えのある名前が出てきた。
冬真先輩のSNS。
「……あ、先輩」
タップしてプロフィールを開く。
自己紹介欄には、
○○大会優勝、ジュニア○○準優勝、○○選手権金メダルなど
その他にもいくつもの大会名と成績が並んでいた。
写真も、表彰台の上でメダルを持っているものや、
海外遠征のときのもの、
リンクでの練習風景などがたくさんあった。
――すごい人なんだな。
改めてそう思わされた。
リンクでは淡々としていて、必要なことしか言わない先輩。
でも、その裏にある努力や実績は、こうして見ると圧倒されるほどだった。
今日、そんな人に教えてもらっていたんだ。
褒めてもらったんだ。
スマホの画面を見つめながら、私はそっと息を吐いた。
「……もっと頑張らないと」
自分に言い聞かせるように呟く。
ベッドの上で、今日の練習の感覚をもう一度思い出しながら、私はゆっくり目を閉じた。
翌日の放課後、リンクに入ると、昨日より少しだけ空気が柔らかく感じた。
昨日の練習が、まだ胸の奥に残っている。
全部が、今日の私の背中をそっと押してくれている気がした。
スケート靴の紐を結びながら、私は深く息を吸った。
「……よし」
昨日よりも、少しだけ心が落ち着いていた。
助走に入る前、冬真先輩に教わった通りに呼吸を整える。
その瞬間、体の中の余計な緊張がふっと溶けた。
ジャンプに入る。
氷を蹴る音が軽い。
空中での一瞬の静けさが、昨日よりも長く感じた。
ほんの少しだけ、流れが良くなった気がした。
「……いい感じ」
自分で呟いて、少しだけ照れくさくなる。
そのとき、リンクサイドから声がした。
「昨日より、安定してる」
振り返ると、冬真先輩が立っていた。
練習着の上に薄手のジャケットを羽織って、腕を組んでこちらを見ている。
「せ、先輩……いつから」
「最初からいる。」
私は慌てて姿勢を正す。
冬真先輩は、腕を組んだまま少しだけ顎を上げた。
「昨日教えたとこ、ちゃんとできてる。昨日よりずっといい」
「……ほんとですか?」
「うん。」
私はもう一度助走に入り、先輩の視線を意識しながらジャンプに入った。
昨日よりも、体が素直に動いてくれる。
リンクの端に戻ると、冬真先輩が短く言った。
「次、入ってもよさそう。」
「次は、ルッツですね。」
「ルッツ、、やるのか。」
「はい。構成に入ってるので……」
そう言って助走に入ろうとした瞬間、冬真先輩が軽く手を上げて私を止めた。
「……それは、今はやらなくていい」
「え……でも――」
「今は、流れを優先した方がいい。フリップから入れ」
「……分かりました」
私は素直に頷き、言われた通りにフリップの助走へ切り替えた。
冬真先輩はそれ以上何も言わず、ただ静かに私の動きを見守っている。
ジャンプを終えて振り返ると、先輩は小さく頷いた。
「今の、悪くない」
「ほんとですか……?」
「うん。流れが途切れてない」
その言葉が嬉しくて、胸の奥がじんわり温かくなる。
私はそのまま、次のジャンプに向けて滑り出した。
リンクの冷たい空気の中で、私はただ、昨日より少しだけ軽くなった体を感じていた。
私は次のジャンプに向けて滑り出そうとしたが、冬真先輩がふいに言った。
「……一回、やるから見て」
「え?」
先輩が自分から滑るなんて、珍しい。
驚いて固まってしまう。
冬真先輩はリンクの中央に進み、軽く息を整えるように肩を回した。
その動きだけで、空気が変わる。
私は思わず息を呑んだ。
先輩が助走に入る。
氷を蹴る音が、私とはまったく違う。
軽くて、速くて、迷いがない。
ジャンプに入る瞬間――
空気が一瞬だけ止まったように感じた。
着氷した時の音がほとんどしない。
「……すご……」
思わず声が漏れた。
冬真先輩は息を整えながら、こちらを振り返る。
「こうやって、呼吸を切らさずに入ると……流れが途切れない」
いつも通りの淡々とした声。
でも、言葉の奥に“経験の重さ”があった。
私は慌てて頷く。
「はい……!」
そのとき、冬真先輩が小さく、ほとんど聞こえない声でつぶやいた。
「……よかった」
「え?」
「いや、なんでも。後輩の前でミスりたくないだけ」
そう言って、先輩はすぐに表情を戻した。
いつも通りの目。
何事もなかったように、私に向かって顎をしゃくる。
「ほら、次はお前の番」
私は深く考えることもなく頷き、助走へ入った。
でも――
先輩が滑ったあとの氷は、いつもより少しだけ冷たく感じた。
けれど、練習中の温度差なんてよくあることで、私はそのまま助走に入った。
氷を蹴る音が、リンクに静かに響く。
呼吸を整えて、フリップに乗る。
リンクの端に戻ると、冬真先輩が短く言った。
「……うん。今の流れでいい」
声はいつもと同じ調子。
ただ、言葉の終わりが少しだけ短かった気がした。
私はそのまま頷き、次の助走へ向かう。
背中に先輩の視線を感じたような気がしたけれど、練習中なら当たり前のことだ。
最後のジャンプを終えて、私はゆっくりとスピードを落とした。
リンクの端に向かうと、冬真先輩が時計をちらりと見た。
「……今日はここまで」
私は軽く息を整えながら頷いた。
全国大会まで、あと一か月を切っている。
振り付けも決まっているし、ジャンプの構成も固まっている。
それなのに――どうしても、完成度が足りなかった。
跳んでも跳んでも、何かが足りない。
着氷の音が響くたびに、胸の奥がざわつく。
コーチには言われたばかりだ。
「表現力が足りない。淡々と滑りすぎ。」
その言葉が、氷より冷たく胸に残っている。
“淡々と”――そんなつもりはないのに。
昔から、ずっと、技術があれば、優勝できると思い込んでいて、ごまかしていた。
それが今になって響いている。
でも、どうすれば“気持ち”なんて乗せられるのか分からない。
焦りが、じわじわと広がっていく。
もう一度ジャンプに入ろうとしたとき――
「梨桜」
静かな声が、リンクに響いた。
振り返ると、リンクサイドに冬真先輩が立っていた。
練習着のまま、髪に少しだけ氷の粒がついている。
同じクラブの、一つ上の先輩。
技術も表現も高くて、誰もが認める存在。
私がずっと“目標”にしてきた人。
「コーチに、梨桜の練習見ろって言われた」
「えっ……コーチから!?」
思わず声が裏返った。
自分でも驚くくらい、動揺していた。
内心、めちゃくちゃ焦ってる。
でも、先輩の前なので必死に平静を装う。
「はい。よろしくお願いします」
そう言った瞬間、声が震えたのが自分でも分かった。
先輩の前だと、どうしても緊張してしまう。
冬真先輩はスケート靴のガードを外し、ゆっくりとリンクに足を踏み入れた。
その動きだけで、空気が変わる。
私の目の前で止まった先輩は、短く言った。
「一回、見せて」
その視線は、刺すように鋭い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
むしろ、ちゃんと見てくれている気がして、胸が熱くなる。
失敗しませんように――
そう祈りながら、私はジャンプに入った。
助走。
氷を蹴る音。
体が浮く瞬間の、あの一瞬の無重力。
着氷。
悪くはない、はず。
でも、完璧でもない。
冬真先輩は、数秒だけ黙って私を見ていた。
その沈黙が、やけに長く感じる。
そして、静かに言った。
「途中で、気持ちが消えてる」
「気持ち……?」
自分でも分かっている弱点。
でも、言葉にされると、どうしても心が揺れる。
「淡々と滑りすぎだ」
先輩の声は冷たくない。真っ直ぐだった。
「あ……この前、コーチにも言われました……」
言った瞬間、恥ずかしさが込み上げる。
あこがれている先輩に弱点を見抜かれると、どうしても胸がきゅっとなる。
冬真先輩は、少しだけ目を細めた。
責めるような目じゃない。
ただ、ちゃんと見てくれている目だった。
冬真先輩は、私の言葉を聞いたあと、ほんの少しだけ視線を下に落とした。
考えているときの癖なのかもしれない。
数秒の沈黙。
その沈黙が、氷よりも冷たい。
やがて先輩は顔を上げ、まっすぐこちらを見た。
「ジャンプに入る前に“呼吸”が止まってる」
「……呼吸?」
自分では全然気づいていなかった。
冬真先輩は、リンクの中央にゆっくり歩いていく。
その背中を見ているだけで、“本物の選手”ってこういう人なんだと思わされる。
「来て」
呼ばれて、慌てて先輩の横に並ぶ。
距離が近い。
緊張で、手の先まで冷たくなる。
「ジャンプに入る前、こうやって――」
先輩は胸の前で軽く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
「呼吸を整えると、気持ちが途切れにくい。動きに“流れ”ができるから」
淡々としているのに、
言葉の一つ一つが胸に落ちてくる。
私は真似してみる。
息を吸って、吐いて――
でも、先輩みたいにうまくいかない。
「もっと肩の力抜いて」
冬真先輩が、私の肩にそっと手を置いた。
一瞬、心臓が跳ねた。
憧れの先輩に触れられた緊張。
「……すみません」
「別に。緊張してるの、見れば分かる」
先輩はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
笑ったのかどうか分からないくらいの、ほんの小さな変化。
でも、そのわずかな変化に、胸の奥がじんわり熱くなる。
「もう一回、やってみて」
促されて、私は助走に入る。
さっき教わった呼吸を意識して――
氷を蹴る音が、少しだけ軽くなった気がした。
完璧じゃない。
でも、さっきより“流れ”があった。
冬真先輩は、静かに頷いた。
「今の。さっきよりずっといい」
その一言が、胸の奥にじんわり広がっていく。
褒められたのが嬉しい。
気づけば、夢中で滑っていた。
リンクの端で息を整え、もう一度ジャンプに入ろうとしたとき――
「……まだやってんの?」
ふいに声がして、思わず顔を上げた。
冬真先輩が、リンクサイドに立っていた。
「せ、先輩……帰ってなかったんですか」
「コーチの話が長くて。今戻ってきた。……って、ずっと練習してたの?」
驚いたように目を見開いていた。
そんな表情を見るのは、初めてだった。
「えっと、まあ……はい。さっきの忘れたら意味ないので……」
言いながら、じわっと恥ずかしくなる。
嘘じゃないけど、なんか照れる。
冬真先輩は、しばらく黙って私を見ていた。
その沈黙が、氷より冷たく胸に響く。
「……熱心だな」
ぽつりと落ちたその言葉は、褒め言葉というより、本気で驚いているように聞こえた。
「え、いやでも……みんなさっきまで残ってたし……」
思わず言い訳みたいに返してしまう。
でも、先輩は首を横に振った。
「いや、みんな帰ってから一時間たってる」
冬真先輩が淡々と言った瞬間、頭の中が真っ白になった。
「え、今何時!?」
慌てていて、思わずため口が出てしまった。
先輩相手なのに、完全に素が出た。
けれど冬真先輩は気づいていないようで、自分の腕時計をこちらに向けて見せてくれた。
「もう……こんな時間」
針は、思っていたよりずっと進んでいた。
胸の奥が一気に熱くなる。
恥ずかしさで、おろおろしていると、
「……夢中になりすぎだろ」
冬真先輩は、呆れたような、でもどこか少しだけ感心しているような声で言った。
冬真先輩は腕時計を戻しながら、少しだけ視線を落として言った。
「……まあ、いいけど。でも、集中しすぎて怪我すんなよ」
先輩としての本気の心配って感じで、うれしかった。
「今日はもう上がれ」
その一言は、きっぱりとしていた。
「……でも――」
と言いかけたけれど、先輩の真っ直ぐな目を見たら、反論する気持ちはすぐに消えた。
「……はい。わかりました」
素直に返すと、冬真先輩は軽くうなずいた。
先輩はリンクサイドから少し離れ、私が上がるのを待つように立っていた。
私はリンクの端まで滑っていき、しゃがんでスケート靴にガードをはめる。
金属の刃がガードに収まる“カチッ”という音が、リンクに静かに響いた。
立ち上がって先輩の方へ歩くと、冬真先輩は何も言わずに歩き出した。
その後ろを、少し距離を空けてついていく。
更衣室へ向かう廊下は、リンクより少し暖かくて、さっきまでの緊張がふっとほどけていく。
更衣室の前で足を止め、私は軽く頭を下げた。
「ありがとうございました」
冬真先輩は振り返り、ほんの一瞬だけ目を合わせて言った。
「……おつかれ」
短い言葉なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
先輩はそのまま歩き去っていき、私はしばらくその背中を見送っていた。
更衣室で荷物をまとめ、
スケート靴の重さを肩に感じながら外へ出た。
リンクの冷たい空気がまだ体に残っていて、頬がほんのり火照っている。
――急がないと。
最寄り駅まで小走りで向かう。
冬の夕方の空気は冷たくて、走るたびに白い息がふわっと広がった。
駅に着くと、ちょうど電車の発車ベルが鳴っていて、私は慌てて階段を駆け上がった。
ホームに着いて、息を整えながら電車を待っていると――
ふと、視界の端に見覚えのある姿が映った。
反対側のホーム。少し離れた場所に、冬真先輩が立っていた。
練習着の上にパーカーを羽織って、イヤホンを片耳だけつけて、電車を待っている。
思わず固まってしまう。
声をかけるには距離が遠い。
それに、なんとなく恥ずかしい。
私はそっと視線をそらした。
冬真先輩は、ホームの端の方で、静かに電車を待っていた。
その姿を見ていると、今日の練習のことが胸の奥でじんわり蘇ってくる。
思い出すたびに、胸の奥があたたかくなる。
そのとき、反対側のホームで
冬真先輩がふと顔を上げた。
目が合った。
一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
そのとき、電車がホームに滑り込んできて、風がふわっと足元を抜けた。
私は小さく、軽く頭を下げた。
冬真先輩も、ほんのわずかに顎を引いて返してくれた。
電車の扉が開く。
私は乗り込み、振り返る間もなく扉が閉まった。
ガタン、と車体が揺れて動き出す。
窓の外に流れていくホームの景色の中で、冬真先輩の姿が一瞬だけ見えた。
そのまま電車は加速して、先輩の姿はすぐに遠ざかっていった。
座席に腰を下ろすと、今日の出来事が一気に胸に押し寄せてくる。
窓に映る自分の顔は、練習の疲れが残っているはずなのに、どこか少しだけ嬉しそうだった。
家に着くと、もう10時半を過ぎていた。
玄関を開けると、温かい匂いがふわっと広がる。
「おかえり、遅かったね」
家族がご飯を作って待っていてくれたので、私は急いで手を洗って席についた。
食べ終わって、ささっとお風呂に入り、髪を乾かしてベッドに倒れ込む。
スマホを開いて、なんとなくインスタを眺めていた。
フォローしている選手の動画や、
スケートの振り付けの参考になる投稿を流し見していると――
ふと、関連アカウントの欄に見覚えのある名前が出てきた。
冬真先輩のSNS。
「……あ、先輩」
タップしてプロフィールを開く。
自己紹介欄には、
○○大会優勝、ジュニア○○準優勝、○○選手権金メダルなど
その他にもいくつもの大会名と成績が並んでいた。
写真も、表彰台の上でメダルを持っているものや、
海外遠征のときのもの、
リンクでの練習風景などがたくさんあった。
――すごい人なんだな。
改めてそう思わされた。
リンクでは淡々としていて、必要なことしか言わない先輩。
でも、その裏にある努力や実績は、こうして見ると圧倒されるほどだった。
今日、そんな人に教えてもらっていたんだ。
褒めてもらったんだ。
スマホの画面を見つめながら、私はそっと息を吐いた。
「……もっと頑張らないと」
自分に言い聞かせるように呟く。
ベッドの上で、今日の練習の感覚をもう一度思い出しながら、私はゆっくり目を閉じた。
翌日の放課後、リンクに入ると、昨日より少しだけ空気が柔らかく感じた。
昨日の練習が、まだ胸の奥に残っている。
全部が、今日の私の背中をそっと押してくれている気がした。
スケート靴の紐を結びながら、私は深く息を吸った。
「……よし」
昨日よりも、少しだけ心が落ち着いていた。
助走に入る前、冬真先輩に教わった通りに呼吸を整える。
その瞬間、体の中の余計な緊張がふっと溶けた。
ジャンプに入る。
氷を蹴る音が軽い。
空中での一瞬の静けさが、昨日よりも長く感じた。
ほんの少しだけ、流れが良くなった気がした。
「……いい感じ」
自分で呟いて、少しだけ照れくさくなる。
そのとき、リンクサイドから声がした。
「昨日より、安定してる」
振り返ると、冬真先輩が立っていた。
練習着の上に薄手のジャケットを羽織って、腕を組んでこちらを見ている。
「せ、先輩……いつから」
「最初からいる。」
私は慌てて姿勢を正す。
冬真先輩は、腕を組んだまま少しだけ顎を上げた。
「昨日教えたとこ、ちゃんとできてる。昨日よりずっといい」
「……ほんとですか?」
「うん。」
私はもう一度助走に入り、先輩の視線を意識しながらジャンプに入った。
昨日よりも、体が素直に動いてくれる。
リンクの端に戻ると、冬真先輩が短く言った。
「次、入ってもよさそう。」
「次は、ルッツですね。」
「ルッツ、、やるのか。」
「はい。構成に入ってるので……」
そう言って助走に入ろうとした瞬間、冬真先輩が軽く手を上げて私を止めた。
「……それは、今はやらなくていい」
「え……でも――」
「今は、流れを優先した方がいい。フリップから入れ」
「……分かりました」
私は素直に頷き、言われた通りにフリップの助走へ切り替えた。
冬真先輩はそれ以上何も言わず、ただ静かに私の動きを見守っている。
ジャンプを終えて振り返ると、先輩は小さく頷いた。
「今の、悪くない」
「ほんとですか……?」
「うん。流れが途切れてない」
その言葉が嬉しくて、胸の奥がじんわり温かくなる。
私はそのまま、次のジャンプに向けて滑り出した。
リンクの冷たい空気の中で、私はただ、昨日より少しだけ軽くなった体を感じていた。
私は次のジャンプに向けて滑り出そうとしたが、冬真先輩がふいに言った。
「……一回、やるから見て」
「え?」
先輩が自分から滑るなんて、珍しい。
驚いて固まってしまう。
冬真先輩はリンクの中央に進み、軽く息を整えるように肩を回した。
その動きだけで、空気が変わる。
私は思わず息を呑んだ。
先輩が助走に入る。
氷を蹴る音が、私とはまったく違う。
軽くて、速くて、迷いがない。
ジャンプに入る瞬間――
空気が一瞬だけ止まったように感じた。
着氷した時の音がほとんどしない。
「……すご……」
思わず声が漏れた。
冬真先輩は息を整えながら、こちらを振り返る。
「こうやって、呼吸を切らさずに入ると……流れが途切れない」
いつも通りの淡々とした声。
でも、言葉の奥に“経験の重さ”があった。
私は慌てて頷く。
「はい……!」
そのとき、冬真先輩が小さく、ほとんど聞こえない声でつぶやいた。
「……よかった」
「え?」
「いや、なんでも。後輩の前でミスりたくないだけ」
そう言って、先輩はすぐに表情を戻した。
いつも通りの目。
何事もなかったように、私に向かって顎をしゃくる。
「ほら、次はお前の番」
私は深く考えることもなく頷き、助走へ入った。
でも――
先輩が滑ったあとの氷は、いつもより少しだけ冷たく感じた。
けれど、練習中の温度差なんてよくあることで、私はそのまま助走に入った。
氷を蹴る音が、リンクに静かに響く。
呼吸を整えて、フリップに乗る。
リンクの端に戻ると、冬真先輩が短く言った。
「……うん。今の流れでいい」
声はいつもと同じ調子。
ただ、言葉の終わりが少しだけ短かった気がした。
私はそのまま頷き、次の助走へ向かう。
背中に先輩の視線を感じたような気がしたけれど、練習中なら当たり前のことだ。
最後のジャンプを終えて、私はゆっくりとスピードを落とした。
リンクの端に向かうと、冬真先輩が時計をちらりと見た。
「……今日はここまで」
私は軽く息を整えながら頷いた。



