21話 みいなと美咲
仕事終わり、みいなと美咲は並んで歩き出した。
ビルを出た瞬間、夕方の空気がふっとゆるむ。
昼間の緊張がまだ肩に残っているのに、帰る方向が同じってだけで、少し気持ちが軽くなるのが不思議だった。
「今日、何食べる?」
美咲が当たり前みたいに聞く。
「んー……軽めでいいかな。なんか、ちょっと疲れてて」
「じゃあ、あそこ行こ。静かだし、仕事帰り多いし」
人混みを避けるように、路地に入る。
照明が落ち着いた小さな店で、カウンターに並んで座った。
グラスに注がれた飲み物を一口飲んで、みいなはようやく息をつく。
「あー……今日も一日終わった……」
「おつかれ」
その一言が、妙に沁みた。
仕事帰りに、こうしてごはんを食べるのはいつぶりだろう。
ふと、そのことに気づいて、みいなは笑った。
「あー、美咲とこんなふうにご飯行けるのなんて、もうなかなか無くなるよね~」
美咲はビールを一口飲んでから、肩をすくめる。
「そんなことないよ。結婚するだけだし」
「そ、れ、が大きいじゃん」
少し強めに言うと、美咲はくすっと笑った。
「今だって同棲してるからさ。環境はそんな変わらないよ。
子どもも、しばらくはいいかなって思ってるし」
その言い方が、妙に現実的で落ち着いていて。
みいなは箸を止めたまま、少しだけ安心する。
「だから、仕事も辞めるつもりないし、みいなの心配はまだまだ先ってこと」
「……そっか」
煮物の染みた大根を口に運びながら、みいなは小さく息を吐いた。
店内に流れる話し声と食器の音が、ちょうどいい距離感で耳に入る。
少し間が空いたあと、美咲がふっと口角を上げる。
「で。大地くん」
来た、と思った。
「……話したよ」
みいながそう言うと、美咲は何も言わずに続きを待つ。
「会ってさ。お願いしたら……
“お前が俺に隣にいて欲しいって言うなら行く”って」
「……真面目」
「でしょ」
思い出しただけで、胸の奥が少し温かくなる。
「そのあとも、普通に飲んでたんだけど。
楽しくて……正式に"一緒に来て欲しい"って言っちゃった」
美咲の顔が、ぱっと明るくなる。
「え、なにそれ。普通に良い流れじゃん」
「ちがうって。そういう意味じゃなくて」
「でもさ」
美咲はグラスを傾けて、少しだけ声を落とす。
「みいなが“大地くんといると楽しい”って思えてる時点で、だいぶ違うと思うよ」
みいなは言葉に詰まった。
楽しい。
安心する。
無理しなくていい。
全部、事実だったから。
「それでね。スーツ新調したいって言うから、今週末一緒に買いに行くことになった」
「はいー、完全デート」
「だから違うってば」
「違わない違わない」
美咲は楽しそうに笑う。
少し間があって、今度は美咲の方から、さらっと話題を切り替えた。
「……で。アプリの人は?」
みいなの指が、グラスの縁で止まる。
「ああ……あのね。
大地と飲んでる時にLINEきた」
「なんて?」
「飲み会なくなったから、今から会えないかって」
美咲は一瞬だけ眉をひそめた。
「それさ。
他の女にキャンセル食らった可能性、高くない?」
「……そう、かも」
みいなの声は、思ったより小さかった。
「平日は甘いこと言って、夜は会いたいって言うのに、朝とか週末になると距離ある感じ」
「うん」
「都合いい時だけ思い出されてる気がして……」
箸を持つ手が、少しだけ力を失う。
「……わたしもね。
最近、ちょっとそう思い始めてる」
美咲は、はっきりと言った。
「それ、感覚合ってると思うよ」
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ事実を置くみたいな言い方だった。
「比べちゃダメだけどさ」
美咲は続ける。
「大地くんは、予定組むでしょ。
時間も使うし、準備もする。
それって、“会う前”から人として向き合ってるってことだよ」
みいなは、黙ってうなずいた。
頭ではわかっていた。
でも、身体より先に心が動いてしまう夜が、まだ残っている。
「……決めなくていいよ、今は」
美咲がそう言って、笑った。
「ただ、流されない選択肢もあるってこと、忘れないで」
帰り道、駅まで並んで歩きながら、みいなはスマホを見なかった。
通知が来ている気配は、確かにあったけれど。
今夜は、それよりも――
胸の奥に残った、静かな確信の方が重かった。
仕事終わり、みいなと美咲は並んで歩き出した。
ビルを出た瞬間、夕方の空気がふっとゆるむ。
昼間の緊張がまだ肩に残っているのに、帰る方向が同じってだけで、少し気持ちが軽くなるのが不思議だった。
「今日、何食べる?」
美咲が当たり前みたいに聞く。
「んー……軽めでいいかな。なんか、ちょっと疲れてて」
「じゃあ、あそこ行こ。静かだし、仕事帰り多いし」
人混みを避けるように、路地に入る。
照明が落ち着いた小さな店で、カウンターに並んで座った。
グラスに注がれた飲み物を一口飲んで、みいなはようやく息をつく。
「あー……今日も一日終わった……」
「おつかれ」
その一言が、妙に沁みた。
仕事帰りに、こうしてごはんを食べるのはいつぶりだろう。
ふと、そのことに気づいて、みいなは笑った。
「あー、美咲とこんなふうにご飯行けるのなんて、もうなかなか無くなるよね~」
美咲はビールを一口飲んでから、肩をすくめる。
「そんなことないよ。結婚するだけだし」
「そ、れ、が大きいじゃん」
少し強めに言うと、美咲はくすっと笑った。
「今だって同棲してるからさ。環境はそんな変わらないよ。
子どもも、しばらくはいいかなって思ってるし」
その言い方が、妙に現実的で落ち着いていて。
みいなは箸を止めたまま、少しだけ安心する。
「だから、仕事も辞めるつもりないし、みいなの心配はまだまだ先ってこと」
「……そっか」
煮物の染みた大根を口に運びながら、みいなは小さく息を吐いた。
店内に流れる話し声と食器の音が、ちょうどいい距離感で耳に入る。
少し間が空いたあと、美咲がふっと口角を上げる。
「で。大地くん」
来た、と思った。
「……話したよ」
みいながそう言うと、美咲は何も言わずに続きを待つ。
「会ってさ。お願いしたら……
“お前が俺に隣にいて欲しいって言うなら行く”って」
「……真面目」
「でしょ」
思い出しただけで、胸の奥が少し温かくなる。
「そのあとも、普通に飲んでたんだけど。
楽しくて……正式に"一緒に来て欲しい"って言っちゃった」
美咲の顔が、ぱっと明るくなる。
「え、なにそれ。普通に良い流れじゃん」
「ちがうって。そういう意味じゃなくて」
「でもさ」
美咲はグラスを傾けて、少しだけ声を落とす。
「みいなが“大地くんといると楽しい”って思えてる時点で、だいぶ違うと思うよ」
みいなは言葉に詰まった。
楽しい。
安心する。
無理しなくていい。
全部、事実だったから。
「それでね。スーツ新調したいって言うから、今週末一緒に買いに行くことになった」
「はいー、完全デート」
「だから違うってば」
「違わない違わない」
美咲は楽しそうに笑う。
少し間があって、今度は美咲の方から、さらっと話題を切り替えた。
「……で。アプリの人は?」
みいなの指が、グラスの縁で止まる。
「ああ……あのね。
大地と飲んでる時にLINEきた」
「なんて?」
「飲み会なくなったから、今から会えないかって」
美咲は一瞬だけ眉をひそめた。
「それさ。
他の女にキャンセル食らった可能性、高くない?」
「……そう、かも」
みいなの声は、思ったより小さかった。
「平日は甘いこと言って、夜は会いたいって言うのに、朝とか週末になると距離ある感じ」
「うん」
「都合いい時だけ思い出されてる気がして……」
箸を持つ手が、少しだけ力を失う。
「……わたしもね。
最近、ちょっとそう思い始めてる」
美咲は、はっきりと言った。
「それ、感覚合ってると思うよ」
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ事実を置くみたいな言い方だった。
「比べちゃダメだけどさ」
美咲は続ける。
「大地くんは、予定組むでしょ。
時間も使うし、準備もする。
それって、“会う前”から人として向き合ってるってことだよ」
みいなは、黙ってうなずいた。
頭ではわかっていた。
でも、身体より先に心が動いてしまう夜が、まだ残っている。
「……決めなくていいよ、今は」
美咲がそう言って、笑った。
「ただ、流されない選択肢もあるってこと、忘れないで」
帰り道、駅まで並んで歩きながら、みいなはスマホを見なかった。
通知が来ている気配は、確かにあったけれど。
今夜は、それよりも――
胸の奥に残った、静かな確信の方が重かった。
