夜の海は、まるで何もなかったかのように、静かに波を寄せては返していた。
彼女の姿が消えてしまったあとの砂浜には、ただ潮風の音と、遠くのうねりだけが残っていた。
男は、まだしばらくその場に立ち尽くしていた。身体は動かなくても、心の中では彼女の最後の姿が繰り返し再生されていた。あの光の下で見た彼女の尾のきらめき、それに浮かんだ、言葉なき微笑み――その一つひとつが、心の奥深くに残っていた。
ふと、足元の砂の中に目がとまった。
それは、彼女と初めて出会ったあの日、彼女が巻貝を拾ったあたりの近くにあった。月明かりの下で、濡れた砂の上に、ひときわ静かに光る貝殻がひとつ転がっていた。
やや小ぶりだが、白の内側にかすかに青とピンクの光沢を宿したその貝殻は、まるで最初からそこに置かれていたかのように自然で、それでいて目を逸らせない静かな美しさを持っていた。
男はそれをそっと拾い上げた。指の中で貝殻がわずかに冷たく、そしてなめらかだった。
しばらく手のひらに載せて眺めたあと、男はポケットの中からあの小さな鱗を取り出した。月の光にかざすと、鱗はまるで彼女の目のように、深く、そして静かに光を返した。
彼はその鱗を、ゆっくりと貝殻の内側にそっと置いた。まるで、貝の中に彼女の魂をしまいこむような、慎重で丁寧な動作だった。
鱗は、そこにぴたりとおさまった。
まるで最初から、そこがその居場所だったかのように。
男は貝殻を大切に両手で包み込んだ。そしてそれを持ったまま、砂浜を静かにあとにした。波の音を背にしながら、彼女の気配を抱いて歩いた。
帰り道は、不思議と長く感じなかった。風も冷たくなかった。ただ、彼女の気配が胸の奥に寄り添っているのを、彼ははっきりと感じていた。
家に戻ると、男は部屋の片隅にある小さな木箱を取り出した。何年も前に祖父から譲り受けたもので、ずっと空のまましまわれていた。
その中に、貝殻をそっと収めた。ふたを閉じるとき、一瞬だけ躊躇したが、静かに蓋をおろした。
そこにあるのは、たったひとつの小さな鱗。でも、男にとっては、海よりも深い記憶と、なにより彼女の存在そのものだった。
そして男は、灯りを消した部屋の中で、しばらくその木箱の前に座っていた。
目を閉じると、波の音が聞こえた気がした。彼女の笑い声のように、優しく、遠く、そして確かに。
男は思った――きっとこの鱗が、彼女との境界を越えて、ふたたび何かをつなげてくれる日が来るのかもしれないと。
彼女の姿が消えてしまったあとの砂浜には、ただ潮風の音と、遠くのうねりだけが残っていた。
男は、まだしばらくその場に立ち尽くしていた。身体は動かなくても、心の中では彼女の最後の姿が繰り返し再生されていた。あの光の下で見た彼女の尾のきらめき、それに浮かんだ、言葉なき微笑み――その一つひとつが、心の奥深くに残っていた。
ふと、足元の砂の中に目がとまった。
それは、彼女と初めて出会ったあの日、彼女が巻貝を拾ったあたりの近くにあった。月明かりの下で、濡れた砂の上に、ひときわ静かに光る貝殻がひとつ転がっていた。
やや小ぶりだが、白の内側にかすかに青とピンクの光沢を宿したその貝殻は、まるで最初からそこに置かれていたかのように自然で、それでいて目を逸らせない静かな美しさを持っていた。
男はそれをそっと拾い上げた。指の中で貝殻がわずかに冷たく、そしてなめらかだった。
しばらく手のひらに載せて眺めたあと、男はポケットの中からあの小さな鱗を取り出した。月の光にかざすと、鱗はまるで彼女の目のように、深く、そして静かに光を返した。
彼はその鱗を、ゆっくりと貝殻の内側にそっと置いた。まるで、貝の中に彼女の魂をしまいこむような、慎重で丁寧な動作だった。
鱗は、そこにぴたりとおさまった。
まるで最初から、そこがその居場所だったかのように。
男は貝殻を大切に両手で包み込んだ。そしてそれを持ったまま、砂浜を静かにあとにした。波の音を背にしながら、彼女の気配を抱いて歩いた。
帰り道は、不思議と長く感じなかった。風も冷たくなかった。ただ、彼女の気配が胸の奥に寄り添っているのを、彼ははっきりと感じていた。
家に戻ると、男は部屋の片隅にある小さな木箱を取り出した。何年も前に祖父から譲り受けたもので、ずっと空のまましまわれていた。
その中に、貝殻をそっと収めた。ふたを閉じるとき、一瞬だけ躊躇したが、静かに蓋をおろした。
そこにあるのは、たったひとつの小さな鱗。でも、男にとっては、海よりも深い記憶と、なにより彼女の存在そのものだった。
そして男は、灯りを消した部屋の中で、しばらくその木箱の前に座っていた。
目を閉じると、波の音が聞こえた気がした。彼女の笑い声のように、優しく、遠く、そして確かに。
男は思った――きっとこの鱗が、彼女との境界を越えて、ふたたび何かをつなげてくれる日が来るのかもしれないと。



