改訂版 タイムリミットは三年のプロポーズ

始まり

龍太郎は一般就労の道を選んだ。
「三年後、ちゃんとプロポーズするから」
今日は入社初日だった。場所は隣県にある部品工場。
自宅から40キロ。クルマで片道50分。職安の職員は何度も言った。
「遠いですよ。きついですよ。そもそも、病歴は?」
「……ありません」
「え? あ、クローズですね。じゃあ……」
しばらく渋っていた職員も、龍太郎の押しに根負けしたのか、最後は小さくため息をついて紹介状を書いてくれた。
「この人、もしかして、本気かもしれないな」
そんなことを、誰かが心のなかでつぶやいたような気がした。更衣室は、鉄のにおいがした。新品の白い作業着に着替えながら、龍太郎は鏡の前でネクタイを外す自分を見つめた。
「似合わねえな……」
そう呟いて笑う自分が、どこか別人のように見えた。
朝一番、安全講習があった。フォークリフトの通路には絶対に立ち入らないこと、エンジンの熱は想像以上だから手を出すな、タバコは所定の場所で、隣の椅子の青年が、眠そうに頷いている。新卒だろうか。
講師の言葉が右耳から左耳へ抜けていく。でも今日は、楽勝だった。昼にはカレーライスが出た。200円。工程にはまだ入っていない。研修扱いだ。それでも、退社時に手渡された賃金明細には「日給:8,000円」とあった。思わず目を細めた。障害者枠での就労支援施設にいたころ、一ヶ月働いても6,000円を下回ることがざらだった。それが、今日一日で——。
「これは、世界が変わるというやつだな」
帰り道、夕陽のなかを車で走りながら、龍太郎は鼻歌まじりで独り言をつぶやいた。風景が黄金色に染まっていた。民家の庭先で、子どもが縄跳びをしていた。
その一つひとつが、やけに眩しかった。その夜、真子にLINEを送った。
「初出勤、無事終わりました。安全講習ばっかりだったけど、日給8000円! カレーは200円(笑)」、既読がすぐについた。でも、返信はなかった。
「既読スルーか」
スマホを伏せて、窓の外を見上げた。今日一日で稼いだ八千円の重みと、それとはまた別の、重たい沈黙が、胸に降り積もっていく。だが——それでも。龍太郎は、布団に入る前にもう一度スマホを開いて、こう打った。
「俺、がんばるよ。絶対に、がんばるから」
送信ボタンを押す指が、ほんの少し震えた。でもそれは、寒さのせいだったかもしれないし、期待のせいだったかもしれない。
一週間が過ぎた。
作業着はもう真っ白ではない。袖口には油の染みがこびりつき、手のひらの皮が少しだけ厚くなった気がした。龍太郎は「バリ取り」の工程に配属されていた。鋳造された金属部品の端に残る微細な突起——それを削り取る仕事だ。刃物を使う。細かい。根気がいる。
そして何より、失敗すれば、それはそのまま「不良品」になる。その日も、単調な作業のリズムに身を任せながら、数百個目の部品にやすりをあてていたときだった。
「これ、誰がやったんだっ!!」
工場内に、雷のような声が響いた。思わず手が止まる。ヘルメットの下で顔を上げると、リーダーの佐々木が、顔を真っ赤にして叫んでいた。
長机の上には、例の部品が一つ、ぽつんと置かれている。
「納入先から戻ってきたぞ。バリが残ってたってよ! 何回言ったらわかんだよ、これは命に関わるんだぞ!」
怒鳴り声の刃が、空気を裂いた。誰も口を開かない。
龍太郎は、反射的に「あっ」と小さく声を漏らした。あの工程。あれ、俺だったかもしれない。だが、確証はない。数が多すぎる。そのときもよくわからないまま、周囲の真似をしてバリ取りをしていた記憶がある。でも、それがどう「不良」なのか、正直よく分かっていなかった。リーダーが、不良の部品を持って一人ずつに見せて回る。龍太郎の目の前にも、その部品が突き出された。
「見ろよ。これがバリ。これが分かんなかったら、もう終わりだぞ」
目を凝らす。小さな、小さな、棘のような突起。素手で触れば怪我をする。確かに、これは……。龍太郎は口を開こうとしたが、何も言えなかった。代わりに、軽くうなずいた。
「わかりました」
そう言ってしまった。本当は、まだわかっていなかった。けれど、空気を読んだ。そういう世界だ。その日の帰り道、車のなかでため息が漏れた。ラジオをつける気にもなれず、窓の外を走る街灯が、やけに遠かった。
「バリ取り……バリ……バリ……」
頭のなかで言葉がこだまする。家に着いても、眠れなかった。湯船につかりながら、手の甲についた油の匂いを嗅ぎ、爪の隙間の汚れを見つめた。俺、本当に、やっていけるのか?スマホを見る。真子からの返信はなかった。でも、自分からも何も送っていなかった。送る言葉が見つからなかった。龍太郎は、部屋の天井を見つめながら、深く深く息を吐いた。まだ一週間目だった。でも、心のどこかで、なにかが静かにきしみはじめていた。