厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

 ヴァルト辺境伯邸では、冬支度が進められていた。

 私は、冬支度の準備で慌ただしく動く人々を見ながら、イリアを連れて中庭の端を歩いていた。
 木箱が積まれ、干し草が運び込まれ、縄を締める音が響いている。

 皆、真剣だった。
 生きるために働く気迫が、空気そのものを張り詰めさせていた。
 その様子を見つめていると、後ろから声がした。
「おや、ルーチェ様。見学で?」
 カイネが、いつもの軽い調子で歩み寄ってきた。
 こうして話すのにも、ずいぶん慣れてしまった気がする。

「ええ。ただ……様子を見ていたの」
「ほう。何か気づいたことでも?」
 そう聞かれ、胸の奥がわずかにざわつく。

 言えば、出しゃばっていると思われるかもしれない。

 けれど、言わずに後悔するのは嫌だった。
「……その……食料庫の箱の並び方、記録棚のように分類してみたらどうかしら。保存期間や用途、季節ごとに棚を分けて、札をつけるの。そうすれば、在庫確認も、急を要する時の捜索も、もっと素早くなるはず」
 静かに言うと、周囲の使用人たちが顔を上げた。
「札……?」

「分類を、棚自体で……?」
 不思議そうな声が漏れた。
 私はそっと説明を続けた。
「戦場の記録を扱う学者たちが、膨大な資料を管理するために使う方法よ。私は本しか見られなかったから……その整理手法を覚えてしまっていて」
 数秒の沈黙。
(つい、喋りすぎた)
 後悔が走る。しかし次に起きたのは、嘲りではなかった。
「……やってみる価値はありますね」

「分類に時間を割いておけば、後が楽になる」
 皆の動きが一斉に変わり、箱の位置が組み替えられていく。
 ほっと息をついたところで、カイネが続けざまに言った。
「他には? ルーチェ様。せっかくだ、もう一つくらい聞かせてくださいよ」
「ちょっと、カイネ」
 イリアが嗜めるが、あまり本気ではないようだった。
「そ、そんな。これ以上は……」
「聞きたいんですよ、私たちは。旦那様が迎えられた婚約者様が、どんな考えを持っていらっしゃるのか」
 逃げられない気配に、少し迷った。

 そして、中庭の片隅へ視線を向ける。
「……なら……中庭に生えている草、あれを乾燥させておいてはどうかしら」
 使用人たちの視線が、一斉に外の草へ向けられた。
「ただの雑草じゃ……?」
「煎じると、体を温めるお茶になるの。保存食ばかりだと体が弱りやすいから、少しでも助けになるはず……私も、寒さ対策によく飲んでいたわ」
 そう言って、私はそっと膝をついた。

 霜に強い、平たい葉。少し揉むと、指先にかすかな香りが残る。
「ルーチェ様、それ……本当に?」
「苦いだけじゃ?」
「そうね、このままでは苦いの。ちゃんと処理すれば飲めるようになるわ」
「処理、とは?」
「水洗いして土を落として、火で乾かすの。そのあと細かくして、軽く揉んで香りを立たせると、味が変わる」
 使用人たちが顔を見合わせた。
「湯は……どうしましょう」
「台所で用意してもらえるか?」
 カイネが指示を飛ばすと、数人が駆け出した。

 私は摘んだ草を抱えて立ち、井戸へ向かう。
 水で洗い、手のひらで優しく挟んで水気を切る。
「ルーチェ様、手ずからそんな」
「いいのよ、慣れてるの」

 少し震えながら、炊事場へ案内された。
 鉄鍋の上に薄い網を置き、草を広げる。
 じんわりと熱が伝わり、青い香りが立ちのぼる。
(懐かしい。寒くて、眠れない夜に、何度も……)
 それでも、誰かのためにお茶を淹れるのは初めてだった。
 頃合いを見て火から上げ、布の上で両手ですり潰す。

 乾いた葉がほろりと崩れ、甘い香りへ変わった。
 ちょうどそこへ、沸かした湯が運ばれてきた。
「お願いします、ルーチェ様」
 私は少しずつ湯を注ぎ、蒸らす。
 湯気が立ち昇り、鼻先を温める。
「折角だから騎士団の連中に振る舞いましょうか。……おい、なぁ、トトリ!セレス!」
 訓練場の方から歩いてきた騎士の一人が呼び止められる。

 なんですかぁ、とおっとりぽてぽてと歩いてきた騎士と、それを追い抜かすように凛と背筋を伸ばしてついてきた女性騎士につられるように、何人かが寄ってきた。
「あの……お茶の、実験を」
「またまた。ご馳走ですよ」
 イリアが手際よくお茶を配っている。
「良いのですか、ご馳走になって」
「皆様さえよろしければ……」
 セレスと呼ばれた女性騎士も遠慮がちに、しかし興味深そうにこちらを見ていた。
 静けさの中、おそるおそる一口ずつ口にした。
「……あれ」
「身体の芯が、温かくなる……」
「甘い香りだ」
 ざわり、と空気が変わった。
 カイネが腕を組み、真剣な目をする。
「軽い治癒効果があるのかな……先ほど草を弄られた際の……?」
 ぶつぶつ言って、手元の帳面に何か書きつけている。
「ルーチェ様、どうしてこの草を飲もうと?」
 イリアの言葉に、私は視線を落とした。
「……王都も、温熱魔法がなければそれなりに冷えるから。凍えそうな夜に、この草に身体を温める効果があると知ってから、何度も自分で試しただけ。最初は上手くいかなくて、折角淹れたお茶が苦くて吐き出してしまったこともあったのよ」
 微笑みながら言うと、しん、と場が静まった。
 不可解そうなまなざしだった。
「ルーチェ様は……努力をされたんですね」
 イリアが、穏やかな声で言った。
 胸の奥がきゅっと痛む。
(努力でも何でもない。生きるために、必死だっただけ)
 それでも、私は小さく息をついた。
「そんな。……でも、よかった」
 本心だった。
 ただ――邪魔に、なりたくなかった。


 
 それからも、冬支度を手伝いながら、辺境伯領について本を読む日々が続いた。
 紙をめくる音だけが、ひっそりと書庫に響く。
 
私は、積み上げられた帳簿に視線を落としたまま、そっと息を吸った。
 驚くほど几帳面で、迷いのない筆致。

 収支の記録はどれも詳細で、無駄がまるでない。

 読み進めれば進めるほど、胸が締めつけられるようだった。
(……こんなに、ぎりぎりまで切り詰めて)
 本で学んだ知識と照らし合わせれば、この領地が近年まで本当に瀬戸際だったのだと理解できた。
 
 そんな中でふと、私費の項目に目が止まった。
 一年に二度か三度。

 本当に小さな額。

 用途記載は──なし。
 恐らく、辺境伯様が私的に使われたのだろう。
(このくらいなら……)
 ページをなぞりながら、思わず想像してしまう。
 
(金額的に、娯楽の本か、あるいは煙草を買われたとか。お仕事の合間に、少しだけ息をつける時間も、あったのかしら……)
 もしそうなら、むしろほっとした。

 あのきっぱりとした態度の内側に、ひとりで支え続けてきた重さがあるのだろうと思えたから。
 けれど、
(……わたしは何を考えているんだろう)
 私は慌てて帳簿を閉じた。
 
辺境伯様の私的な時間の過ごし方を想像するなんて、あまりに差し出がましい。
 自分を受け入れてくれた方に、向こうが望まないような興味を向けてはいけない。
 誰にも必要とされず、息を潜めて生きてきた孤独が、不用意な甘えや依存に変わってはならない。
 私は自分に言い聞かせた。
 背筋を伸ばし、机に置いた手を静かに握る。
 それからもう一度、帳簿を開く。
 事実だけを見つめるために。

 余計な感情を、そっと胸の奥に押し込んだ。


 
 蹄の音が、冷たい空気を震わせながら近づいてきた。

 その響きに、邸の空気がひと息に引き締まったようだった。

「辺境伯様が、お戻りになりました」
 扉が開き、辺境伯様が姿を見せた。

 厚手の古い外套には霜が残り、銀の髪にも雪解けの滴が光っていた。

 目元には深い疲労が刻まれているのに、その蒼い瞳はまっすぐで、少しも揺らがなかった。 
「旦那様、おかえりなさいませ」
「ああ、大事はなかったか」

 イリアが丁寧に頭を下げる。

 カイネは荷を受け取りながら、ちらりとこちらを見て、促してきた。
「ルーチェ様、いい機会です。例のお茶を旦那様にも召し上がって頂きましょう」
 私は思わず息を呑んだ。

 出すべきだろうか、と迷いが胸をかすめる。

 出しゃばりだと思われたらどうしよう。
 それに、いくら処理を施したと言っても、庭に生えた草だ。
 迷う私の背中を、イリアがそっと押した。
「心配なさらず。旦那様は正直なお方です」
 見れば、お茶は既に用意されていた。私は両手で茶を運び、静かに差し出した。

 庭に自生するありふれた草を乾かして、丁寧に煎れたもの。

 ささやかな、でも芯のある香りが湯気に乗って立つ。
 カイネの説明を聞くと、
「あなたが考案した、という話は伝え聞いたが。さて」
 辺境伯様は湯気の向こうから私を見た。
 そしてカップを口元へ運び、一口、喉を鳴らす。
 短い沈黙。
 そして、低く確かな声。
「……いい。身体に沁みる。疲れが抜けていく感覚がある」
 胸がどくん、と跳ねた。

 その音が外に漏れてしまいそうで、息を止める。
「この草、領内の者でも採れるのか」
「は、はい。誰でも。ありふれた草ですもの。それに、寒い土地で繁りやすいのです。だからこそ、雑草だと思えば駆除が面倒ですが、こうして使えるのなら……」
「そうか。──なら、なおさら価値がある」
 蒼い瞳が強く光った。
「庶民でも手に入る。薬を買えない者にも救いになる。俺にとっては、それが一番重要だ」
 その言葉が、心の真ん中に突き刺さる。

 辺境伯様は、まっすぐ私を見て言った。
「ありがとう、ルーチェ嬢」
 飾りも、哀れみも、義務もない。

 ただ、真っ直ぐな感謝。
 倉庫の暗闇で息を潜め、十年間ひっそりと生きてきた自分が、初めて光の下に引き上げられたようだった。
(……お役に立てたのだろうか)
 涙が溢れそうになり、必死に瞬きをした。

 視界がにじむ前に、胸の奥で言葉を小さく噛みしめる。
(よかった……)
 それは、誰にも聞こえないほどの、静かな祈りだった。


 
 夜更けの執務室は、凍えるように静かだった。

 暖炉の火がぱちりと弾け、その音だけが紙の上に落ちる灯の揺らぎとともに響いた。

 ダリウス・ヴァルトは、机に置かれた報告書へ目を落としていた。

 帰還の余韻など一瞬で切り捨て、表情に迷いはない。

 カイネが机の前に立ち、静かに一礼する。
「旦那様。留守の間、調べておくよう仰せつかった件について……ジークを送っていましたが、その報告がまとまりました」
「話してくれ」
 短い指示。
 カイネは胸元に抱えていた書類を一枚取り出し、声を低く落とした。

「まず、ルーチェ様のご実家──公爵家の状況です。現在、公爵家の実権はルーチェ様の義父殿、エドムンド公爵が握っています。ルーチェ様の兄君はそれが原因で家に寄りついていないとの情報を掴みました」
 ダリウスの眉がわずかに動いた。
「理由は」
「遺産と家督争いですね。元々、正統な継承者はルーチェ様の母君。その方が亡くなられた後……公爵位とその財産は、本来ならばルーチェ様の兄君であるリヒト・シェリフォード卿に受け継がれるはずでした。もし兄君に何かあった場合も、次の継承者はルーチェ様です」
 カイネは言葉を区切り、さらに続けた。
「しかし、義父殿はまだ成人の儀を迎えていなかった兄君を留学の名目で国外に追い出し、「厄災」だとされたルーチェ様を管理の名目で幽閉して、実権を掌握したようです」
 室内に、乾いた沈黙が落ちた。
 暖炉の火が鳴る音だけが響く。
「また、「厄災」を不自由なく保護するために送られていた、かなりの額の支度金も、義父殿の懐に入っています」
「横取りしたというわけか」
「ほぼ、間違いないでしょう。つまり──良かれ悪しかれ、ルーチェ様には正式に家を出て静かに暮らす手段が、本来ならあったのです。それを義父殿が握りつぶし、支度金を横領、ルーチェ様の幽閉を続けたものと思われます」
「……」
「領内の不祥事はルーチェ様の「厄災」による不運だと触れ回って、領政への不満も押さえていたようですね」
 ダリウスの指先が、机の縁を静かに叩いた。


「最後に、ルーチェ様が辺境へ送られた理由ですが……領民からの不満を逸らすため、「厄災を払った」という名目で、ルーチェ様を辺境へ送ったということのようです。……ついでに」
 そこでカイネは声を潜めた。
「ここ数年、王宮官吏になられた兄君が動かれていました。恐らくルーチェ様をお手元に引き取ろうとされていたのでしょう。その中で、公爵家への不正の追求が何度か見られました。すべて証拠不十分として早い段階で棄却されていますし、公爵家の帳簿は、ジークが覗き見た限りでは綺麗なものだったようですが――」
「――ルーチェ嬢の持参金か」
「それが真相のようです。やたらと離婚時の条件がついていると思いましたが、離婚の際には持参金を返還する約束になっています。……旦那様が「厄災」に我慢できなくなったところで、金を取り返すつもりなんでしょうね」
「……俺も、軽く見られたものだな」
 ダリウスはふっと笑った。 
「俺を利用し、ルーチェ嬢を厄介払いした振りをして、盗んだ金を洗おうとしていると」
 長い溜め息をひとつ。
「……理解した」
 その声音は凍りつくほど冷たかった。
「俺が利用されたこと自体は、構わん。俺は金を受け取った。ルーチェ嬢は邸を去ってここへ来た。それで少なくとも公爵家と我々の間では、決めた通りの契約が執行されたわけだからな。だが──」
「だが?」
「女ひとりを、十年騙していた事実は、許し難い」

 短く、鋭く、断ち切るように。

 カイネはわずかに目を見開いた。

 しかし次の言葉は、少しだけ低く、柔らかかった。
「……今日。俺は見た。自分を売り込むでもなく、怯えながら、それでも誰かのためになる方法を探す女性を」
 ダリウスは、あの茶の淡い香りを思い返す。
「控えめで、賢い。あるはずだった十年を無為に搾取されていいはずがない」
 カイネがじっとダリウスを見る。
 そして、不意に口元を綻ばせた。
「やっぱり似ていますよ、ルーチェ様と旦那様は」
「……どこがだ」
「ご自分を後回しにされるところです」
 ダリウスは返す言葉を持たず、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

 火の明かりが銀髪を照らし、影を作った。
「おい、今はそんな話は……」
「ついでに、そういうご様子が我々を心配させるところもですね」
「……」
「更に言えば、ご自身の魅力を低く見積もって」
「もういい……! くだらん冗談はよせ」
「これは失礼」
 カイネは軽く頭を下げた。
「とにかく。我々は、旦那様が幸せになる未来を望んでおりますので」
 その言葉に、ダリウスは返さなかった。

 ただ、静かに視線を落とし、積まれた書類へと手を伸ばす。
「……もっとも、だ。ルーチェ嬢当人にも確認は必要だな」
「承知しております」
 ──暖炉の火が、どこか熱く感じられた。