辺境伯家に来て、はじめて迎える朝。
窓から差し込む光は弱く、空気はひやりと冷たかった。秋の気配が深まる頃、というより、この領地ではもう冬の入口に足を踏み入れているのだろう。
使用人たちの足音が、朝早くから忙しなく動いていた。
冬支度の最中なのだと、昨日イリアが言っていた。
私は簡単に身支度を整え、屋敷の裏手に広がる作業場をそっと覗いた。
薪を割る音、倉庫から樽を運ぶ声、荷車のきしむ音。
どれも真剣で、少しの余裕もない。
(……もう冬が迫っているのね……)
食堂で素朴な朝食を摂っていると、背後で足音が止まった。
振り返ると、執事のカイネが姿勢よく立っていた。
「ルーチェ様。旦那様より伝言がございます」
「……辺境伯様から?」
「はい。旦那様は今朝早く、最前線の野営地へ向かわれました。冬に入る前の魔獣の動きが不穏との報せがあり、急ぎ確認が必要とのことです」
丁寧な言い方ではあるけれど、こちらを窺うような風情。
私の表情が曇るかどうか見られている、と咄嗟に思った。
私はスプーンを置き、深く息を吸った。
「……お忙しいのね。それなのに私にまで言伝をくださり、申し訳ありませんと……伝えてもらえるかしら」
カイネが一瞬、瞬きをした。
予想外だったのだろう。
私は続けて尋ねた。
「辺境伯様は……いつ頃、お戻りに?」
「はっきりとは申し上げられません。早ければ数日、長ければ数十日。魔獣の動き次第です」
「たいへんな時期なのね。……わかったわ」
本当に、ただそれだけだった。
心配はあるけれど、不満を感じる理由などひとつもない。
むしろ――
(最前線に立つ領主なんて、きっと多くはない)
無理をされていないといいのだけれど、とぼんやり思った。
ふと、カイネが私の顔をまじまじと見ているのに気づいた。
「……何かしら」
「いえ。思っていたより……いえ、失礼」
「?」
要領を得ない返事に首を傾げると、カイネは少しだけ口元をゆるめた。
「旦那様とルーチェ様は、似たもの同士かもしれませんね」
「…………え?」
意味が、よくわからなかった。
似ている? 私と、辺境伯様が?
何を根拠にそう言うのだろう。
考えている間に、カイネは丁寧に頭を下げた。
「ルーチェ様。旦那様のご不在のあいだ、邸のことは私どもにお任せください。ご不便のないよう尽力いたしますので、どうかご安心を」
「……ありがとう。よろしくお願いします」
それなら、と少し考えてから、おずおずと口にした。
「あの、お願いがあるの。書庫と、記録を拝見してもいいかしら。この領のことを、もっと知りたくて」
声は自然と慎重になる。
来て間もない身で、出しゃばってはいけない。
カイネは一瞬だけ目を細めて、私の言葉を吟味するように見つめた。
「……旦那様の命令です。邸内では自由に過ごして構わないとのこと。見たい部屋や書物があるなら、いつでも言ってください。お一人で訪ねて頂いても構いません。鍵のある部屋は私がご案内します」
てきぱきとした説明。
それからカイネは一拍置くと、ニヤっと楽しそうに笑った。
「……ま、盗まれて困るような宝物がある邸じゃありませんからね。鍵が掛かってる部屋の方が少ないですけど」
わざとらしく肩をすくめていた。
「私は本日、外出の予定があるので鍵を持っての案内ができませんが……鍵を開ける必要のある部屋は……っと、旦那様が留守の間に、旦那様の私室の調査でもされますか?興味深いので、その場合は予定を変えてお供しますよ」
「……はっ!?えっ、な、そんなこと」
「ははっ、冗談です」
胸が軽くなるのを感じる。
とにかくそれくらい自由にしていいのだと、冗談に混ぜて伝えられたのだと遅れて理解した。
「……ありがとう、カイネ」
そう返すと、カイネはにっこりと笑って、静かに退室した。
(そういえば、似たもの同士、って……どういう意味だったのかしら)
気になりつつも、答えは出ない。
ただ胸のどこかで、ほんの少しだけくすぐったい感覚があった。
私は書庫へ足を運んだ。
(……今の辺境伯領について、もっと知らなくては)
そう思った。
私は新しい本を手に入れることができなかったから、歴史書の体裁になっていない近年の記録をほとんど知らないのだ。
書庫の扉は、きちんと磨かれた金具がぎしりと控えめに音を立てた。
中は思いのほか広く、窓からの光が木の棚に静かに降り注いでいる。
公爵家の巨大な書庫に比べればずっと小さいけれど、 ここには“実際に使われてきた知識”の匂いがあった。
(……すごい)
思わず声が漏れた。
背の低い棚には古い地図。
その上の引き出しには領の人口推移、税収の記録、魔獣被害の報告。
公的記録というより、“生きた記録”と言うべき整理だ。
私はひとつひとつ引き出しを開け、目を通し始めた。
……しばらくすると、背後で控えめな足音がした。
「ルーチェ様、こんな場所に」
侍女のイリアだった。
いつも淡々としているのに、わずかに驚いたような声音だ。
「書庫を見せていただいていたの。……イリア、筆記具を借りてもいいかしら?」
「構いません。すぐにお持ちします」
イリアは私を詮索するでもなく、ただ必要なものだけを用意してくれる。
その距離感が、とても心地よかった。
やがて戻ってきた彼女から羽根ペンと紙束を受け取り、 私は小さな机に向かって記録を整理し始めた。
最初に目を引いたのは、辺境伯様が十七歳だった年の記述だった。
魔獣の大量発生による防衛線の崩壊。
魔獣による畑への被害と、酷寒による食糧危機。
処理の遅れた魔獣の死骸から発生した疫病。
病に倒れた先代辺境伯の急死。
騎士団長や家令、主だった家臣たちの戦死、先代辺境伯夫人の急逝ーー
十七歳になったばかりで両親を喪い、家督を継いだダリウス・ヴァルト辺境伯の名前が、そこにある。
(……なんてこと……)
本来ならそのまま領が滅び、その波及によっては国が傾いてもおかしくないはずだ。
その中で、若者が領を束ね直している。
この邸の使用人に若者が多い理由も察しがついた。
記録によれば、辺境伯を継いだ後、まず最優先として「避寒施設の建設」に予算の大部分が割かれたらしい。
(……王都なら、“屋内に避難すればよい”で済むけれど……この土地は、外気がそのまま死へつながる。だから……)
冬の冷気に強い木材の確保。
魔獣避けの結界石の配置換え。
そのための労働力の調整。
魔獣の死骸処理。適切な埋却。
領民ひとりひとりに行き渡る配給。
どれも、実務を知らなければできない判断だった。
(……これは……)
記録は、想像以上に苛烈だった。
そして、私は見つけてしまう。
批判の文言——。
『領主は無能だ』 『若造の判断で我らが滅ぶ』 『税を下げろ、配給を増やせ、責任を取れ』
(……こんなにも……)
息が詰まりそうになった。
紙に書かれている言葉は冷たく、容赦がない。
けれどそれすらも、事務的に。記されている。
その隣には必ず硬筆な文字で簡潔に改善策が記載されていた。
そして——
『王都よりの支援金、急遽打ち切り通達あり』
その文を見た瞬間、私は凍りついた。
(……どうして打ち切りなんて……?)
理由は、はっきりとは書かれていない。
ただ、“王都内の情勢不安定のため”とだけ。
本当の理由なんて、想像できる。
ヴァルト辺境伯領は魔獣の生息地と隣接している。けれど、隣国と接しているわけではない。
王都からすれば“遠くて目の届かない土地”であり、国益を生まない土地なのだ。
支援を止めても、自分たちの足元はすぐには揺らがない。
(見捨てられた……のよね。ほとんど)
ページをめくる手が震えた。
それなのに支援停止の翌年には、新しい食糧管理法が施行されていた。
貯蔵庫の統合、保存食の加工場を設置して働き口を増設、無駄を減らすために各村の記録制度を統一し領民への最低限の配給量を確保――
王都を頼れないからこそ、自力でやり抜く体制をつくっていたのだ。
少しずつ、着実に。
(……どうやって、こんな……)
信じがたい。 でも記録は嘘をつかない。
一つの施策ごとに、ほんの少しずつ死亡率が下がり、被害が減り、税収が安定していく様子が見て取れた。
領民からの批判の言葉の記録は、ページが進むにつれ減っていく。
(批判されながら……見捨てられながら……)
胸が締めつけられ、気づけば小さく吐息が漏れた。
(辺境伯様は……戦ってこられたのだわ)
ゆっくり、しかし確実に。
気づけば、私の手はどんどん紙の上を滑っていた。
年代ごとに施策を整理し、改善点と成果をまとめる。
まるで歴史書を読むときのような、落ち着いた速度で。
でもこれは、過去ではない。 “生きている領地”の記録だ。
「……こんなに動かれていたのね、辺境伯様……」
ぽつりと漏れた独り言は、書庫に吸い込まれるように消えた。
十七歳から二十八歳までの十一年。
記録の中のダリウス・ヴァルトは、ずっと戦い続けていた。
魔物と、雪と、飢えと、死と——そして領民の恐怖と。
そして、きっとそれは、今もなお。
(……あの人が質素な姿で遅くまで働くのは、当然なのね)
昨夜、あの伯爵位にあるとは思えない質素な服の理由が腑に落ちた気がした。
彼は領民を守るために、贅沢のできない生活を選んでいる。
(私なんかが、ここに来てしまって、ご迷惑でしょうね……)
胸が少し痛む。 でも、私にできることがあるのなら——。
ふと、視界の隅でイリアがこちらを見ているのに気づいた。
机の上の紙に書きつけたメモは、もう何十枚にもなっていた。
「ルーチェ様……まさか、それをすべて……?」
そっと声をかけてきたイリアが、驚いた顔をしている。 私は少し照れながら苦笑した。
「読めば読むほど、気づくことが多くて……歴史書を読むのが趣味だったから……つい、整理したくなったの」
イリアはしばらく私のノートを見つめていた。 そしてぽつりとつぶやいた。
「旦那様が……警戒なさるのも、気にかけるのも……理由がありますね」
「え?」
「いえ。独り言ですわ」
そう言って、イリアは小さく頭を下げた。 その目は、ほんの少しだけ優しかった。
(……理由、って……何のことかしら)
私は首をかしげつつ、また一枚、紙を取り上げた。
(……もっと、この領のことを知りたい)
そう思った。 ただの押しつけられた妻としてではなく、この土地に生きる者のひとりとして。
◆
辺境伯様が最前線へ赴かれてから、数日が経った。
秋の空気は日に日に冷たく、窓の外では森の木々が乾いた音を立てて揺れている。
私はというと、ほとんど部屋にこもって本を読んでいた。
邸の書庫は小さいけれど、現在の記録に加えて、古い歴史書も驚くほど整然と並んでいる。
誰かが丁寧に手入れしてきたのだとわかる配置や、虫食いの跡に対処した紙の継ぎ当てに触れるたび、胸の奥が少し温かくなる。
(……この領に、もっと合う人になりたい)
そんな思いが、自然と湧く。
今読んでいるのは、古王国時代の北辺開拓の記録。
越冬の方法や、寒冷期の家畜の扱い、村落を維持するための分析――
どれも辺境伯家の現状と重なる部分が多く、読み進めるほどに視界が開ける気がした。
頭の中にある記録と照らし合わせ、自分なりに整理を進めていく。
何か目的があるわけではないけれど、そうして古い時代の人々と共に考えるつもりになるのは、私の趣味だった。
ページを繰っていると、扉を軽く叩く音がした。
「ルーチェ様、お茶をお持ちしました」
イリアの声だった。
彼女はいつもより少し柔らかな表情で、盆をそっと机に置いた。
「今日はよく集中されていましたね。……熱いのでお気をつけを」
「ありがとう。助かるわ」
イリアは微笑んだが、ふと何かを言いかけるように私を見た。
――この数日、邸では事故らしい事故は起きていない。
皿は割れず、天井材が落ちてくることもなく、誰も怪我をしなかった。
領内の不作を声高に、私のせいにする声も聞こえない。
それが、私にとってどれほどの救いか。
怖がられることも、露骨に避けられることもなく、ただ「一人の客人」として扱われる日々。
慣れないほど、穏やかだ。
それでも、胸の奥にひやりとした影は残る。
(……いつ、変わってしまうのかしら)
王都では、何をしても駄目だった。
私の意志と関係なく、不運は起こった。
それで「厄災の烙印」はやはり「厄災」なのだと言われた。
ここでまだ何も起きていないのは、ただの偶然かもしれない。
もしも「厄災」が私を中心に広がるのなら…… この地の人々にどれほど迷惑をかけることになるのだろう。
考えると、指先が冷たくなる。
イリアはそんな私の気配に気づいたのか、柔らかく言った。
「……皆、ルーチェ様に安心していますよ。いい意味で……普通の方、だと」
「普通……」
その言葉は、少し胸に沁みた。
“普通”であることが、こんなにも難しいと知ったのは十四の時。
けれど、いまはその言葉がひどく優しい。
イリアは続ける。
「旦那様がご不在で不安かもしれませんが……邸のことは皆で守れますから。どうか、ご自身の時間を大切に」
「ありがとう」
本当に、ありがとう。
そう言いかけて、私はうつむく。
言葉がうまく出てこなかった。
イリアが下がると、また静寂が戻った。
私は本を閉じ、火の落ちかけた暖炉を見つめる。
(……辺境伯様が戻るまでに、少しでも力になれることを探したい)
その思いは恐れよりも強い。
けれど同時に――未来の想像は、どうしても胸をすくませる。
もしも、ここで“厄災”が起きてしまったら。
もしも、彼らが私を避けはじめたら。
もしも、辺境伯様に見限られたら。
寒さとは別の震えが、背筋を走った。
それでも、ページを開く。
過去は、私を嫌わないから。
(……大丈夫。まだ、出来ることがある)
小さく息を整え、私はまた文を読み進めた。
まるで、何かに追いつこうとするように。
窓から差し込む光は弱く、空気はひやりと冷たかった。秋の気配が深まる頃、というより、この領地ではもう冬の入口に足を踏み入れているのだろう。
使用人たちの足音が、朝早くから忙しなく動いていた。
冬支度の最中なのだと、昨日イリアが言っていた。
私は簡単に身支度を整え、屋敷の裏手に広がる作業場をそっと覗いた。
薪を割る音、倉庫から樽を運ぶ声、荷車のきしむ音。
どれも真剣で、少しの余裕もない。
(……もう冬が迫っているのね……)
食堂で素朴な朝食を摂っていると、背後で足音が止まった。
振り返ると、執事のカイネが姿勢よく立っていた。
「ルーチェ様。旦那様より伝言がございます」
「……辺境伯様から?」
「はい。旦那様は今朝早く、最前線の野営地へ向かわれました。冬に入る前の魔獣の動きが不穏との報せがあり、急ぎ確認が必要とのことです」
丁寧な言い方ではあるけれど、こちらを窺うような風情。
私の表情が曇るかどうか見られている、と咄嗟に思った。
私はスプーンを置き、深く息を吸った。
「……お忙しいのね。それなのに私にまで言伝をくださり、申し訳ありませんと……伝えてもらえるかしら」
カイネが一瞬、瞬きをした。
予想外だったのだろう。
私は続けて尋ねた。
「辺境伯様は……いつ頃、お戻りに?」
「はっきりとは申し上げられません。早ければ数日、長ければ数十日。魔獣の動き次第です」
「たいへんな時期なのね。……わかったわ」
本当に、ただそれだけだった。
心配はあるけれど、不満を感じる理由などひとつもない。
むしろ――
(最前線に立つ領主なんて、きっと多くはない)
無理をされていないといいのだけれど、とぼんやり思った。
ふと、カイネが私の顔をまじまじと見ているのに気づいた。
「……何かしら」
「いえ。思っていたより……いえ、失礼」
「?」
要領を得ない返事に首を傾げると、カイネは少しだけ口元をゆるめた。
「旦那様とルーチェ様は、似たもの同士かもしれませんね」
「…………え?」
意味が、よくわからなかった。
似ている? 私と、辺境伯様が?
何を根拠にそう言うのだろう。
考えている間に、カイネは丁寧に頭を下げた。
「ルーチェ様。旦那様のご不在のあいだ、邸のことは私どもにお任せください。ご不便のないよう尽力いたしますので、どうかご安心を」
「……ありがとう。よろしくお願いします」
それなら、と少し考えてから、おずおずと口にした。
「あの、お願いがあるの。書庫と、記録を拝見してもいいかしら。この領のことを、もっと知りたくて」
声は自然と慎重になる。
来て間もない身で、出しゃばってはいけない。
カイネは一瞬だけ目を細めて、私の言葉を吟味するように見つめた。
「……旦那様の命令です。邸内では自由に過ごして構わないとのこと。見たい部屋や書物があるなら、いつでも言ってください。お一人で訪ねて頂いても構いません。鍵のある部屋は私がご案内します」
てきぱきとした説明。
それからカイネは一拍置くと、ニヤっと楽しそうに笑った。
「……ま、盗まれて困るような宝物がある邸じゃありませんからね。鍵が掛かってる部屋の方が少ないですけど」
わざとらしく肩をすくめていた。
「私は本日、外出の予定があるので鍵を持っての案内ができませんが……鍵を開ける必要のある部屋は……っと、旦那様が留守の間に、旦那様の私室の調査でもされますか?興味深いので、その場合は予定を変えてお供しますよ」
「……はっ!?えっ、な、そんなこと」
「ははっ、冗談です」
胸が軽くなるのを感じる。
とにかくそれくらい自由にしていいのだと、冗談に混ぜて伝えられたのだと遅れて理解した。
「……ありがとう、カイネ」
そう返すと、カイネはにっこりと笑って、静かに退室した。
(そういえば、似たもの同士、って……どういう意味だったのかしら)
気になりつつも、答えは出ない。
ただ胸のどこかで、ほんの少しだけくすぐったい感覚があった。
私は書庫へ足を運んだ。
(……今の辺境伯領について、もっと知らなくては)
そう思った。
私は新しい本を手に入れることができなかったから、歴史書の体裁になっていない近年の記録をほとんど知らないのだ。
書庫の扉は、きちんと磨かれた金具がぎしりと控えめに音を立てた。
中は思いのほか広く、窓からの光が木の棚に静かに降り注いでいる。
公爵家の巨大な書庫に比べればずっと小さいけれど、 ここには“実際に使われてきた知識”の匂いがあった。
(……すごい)
思わず声が漏れた。
背の低い棚には古い地図。
その上の引き出しには領の人口推移、税収の記録、魔獣被害の報告。
公的記録というより、“生きた記録”と言うべき整理だ。
私はひとつひとつ引き出しを開け、目を通し始めた。
……しばらくすると、背後で控えめな足音がした。
「ルーチェ様、こんな場所に」
侍女のイリアだった。
いつも淡々としているのに、わずかに驚いたような声音だ。
「書庫を見せていただいていたの。……イリア、筆記具を借りてもいいかしら?」
「構いません。すぐにお持ちします」
イリアは私を詮索するでもなく、ただ必要なものだけを用意してくれる。
その距離感が、とても心地よかった。
やがて戻ってきた彼女から羽根ペンと紙束を受け取り、 私は小さな机に向かって記録を整理し始めた。
最初に目を引いたのは、辺境伯様が十七歳だった年の記述だった。
魔獣の大量発生による防衛線の崩壊。
魔獣による畑への被害と、酷寒による食糧危機。
処理の遅れた魔獣の死骸から発生した疫病。
病に倒れた先代辺境伯の急死。
騎士団長や家令、主だった家臣たちの戦死、先代辺境伯夫人の急逝ーー
十七歳になったばかりで両親を喪い、家督を継いだダリウス・ヴァルト辺境伯の名前が、そこにある。
(……なんてこと……)
本来ならそのまま領が滅び、その波及によっては国が傾いてもおかしくないはずだ。
その中で、若者が領を束ね直している。
この邸の使用人に若者が多い理由も察しがついた。
記録によれば、辺境伯を継いだ後、まず最優先として「避寒施設の建設」に予算の大部分が割かれたらしい。
(……王都なら、“屋内に避難すればよい”で済むけれど……この土地は、外気がそのまま死へつながる。だから……)
冬の冷気に強い木材の確保。
魔獣避けの結界石の配置換え。
そのための労働力の調整。
魔獣の死骸処理。適切な埋却。
領民ひとりひとりに行き渡る配給。
どれも、実務を知らなければできない判断だった。
(……これは……)
記録は、想像以上に苛烈だった。
そして、私は見つけてしまう。
批判の文言——。
『領主は無能だ』 『若造の判断で我らが滅ぶ』 『税を下げろ、配給を増やせ、責任を取れ』
(……こんなにも……)
息が詰まりそうになった。
紙に書かれている言葉は冷たく、容赦がない。
けれどそれすらも、事務的に。記されている。
その隣には必ず硬筆な文字で簡潔に改善策が記載されていた。
そして——
『王都よりの支援金、急遽打ち切り通達あり』
その文を見た瞬間、私は凍りついた。
(……どうして打ち切りなんて……?)
理由は、はっきりとは書かれていない。
ただ、“王都内の情勢不安定のため”とだけ。
本当の理由なんて、想像できる。
ヴァルト辺境伯領は魔獣の生息地と隣接している。けれど、隣国と接しているわけではない。
王都からすれば“遠くて目の届かない土地”であり、国益を生まない土地なのだ。
支援を止めても、自分たちの足元はすぐには揺らがない。
(見捨てられた……のよね。ほとんど)
ページをめくる手が震えた。
それなのに支援停止の翌年には、新しい食糧管理法が施行されていた。
貯蔵庫の統合、保存食の加工場を設置して働き口を増設、無駄を減らすために各村の記録制度を統一し領民への最低限の配給量を確保――
王都を頼れないからこそ、自力でやり抜く体制をつくっていたのだ。
少しずつ、着実に。
(……どうやって、こんな……)
信じがたい。 でも記録は嘘をつかない。
一つの施策ごとに、ほんの少しずつ死亡率が下がり、被害が減り、税収が安定していく様子が見て取れた。
領民からの批判の言葉の記録は、ページが進むにつれ減っていく。
(批判されながら……見捨てられながら……)
胸が締めつけられ、気づけば小さく吐息が漏れた。
(辺境伯様は……戦ってこられたのだわ)
ゆっくり、しかし確実に。
気づけば、私の手はどんどん紙の上を滑っていた。
年代ごとに施策を整理し、改善点と成果をまとめる。
まるで歴史書を読むときのような、落ち着いた速度で。
でもこれは、過去ではない。 “生きている領地”の記録だ。
「……こんなに動かれていたのね、辺境伯様……」
ぽつりと漏れた独り言は、書庫に吸い込まれるように消えた。
十七歳から二十八歳までの十一年。
記録の中のダリウス・ヴァルトは、ずっと戦い続けていた。
魔物と、雪と、飢えと、死と——そして領民の恐怖と。
そして、きっとそれは、今もなお。
(……あの人が質素な姿で遅くまで働くのは、当然なのね)
昨夜、あの伯爵位にあるとは思えない質素な服の理由が腑に落ちた気がした。
彼は領民を守るために、贅沢のできない生活を選んでいる。
(私なんかが、ここに来てしまって、ご迷惑でしょうね……)
胸が少し痛む。 でも、私にできることがあるのなら——。
ふと、視界の隅でイリアがこちらを見ているのに気づいた。
机の上の紙に書きつけたメモは、もう何十枚にもなっていた。
「ルーチェ様……まさか、それをすべて……?」
そっと声をかけてきたイリアが、驚いた顔をしている。 私は少し照れながら苦笑した。
「読めば読むほど、気づくことが多くて……歴史書を読むのが趣味だったから……つい、整理したくなったの」
イリアはしばらく私のノートを見つめていた。 そしてぽつりとつぶやいた。
「旦那様が……警戒なさるのも、気にかけるのも……理由がありますね」
「え?」
「いえ。独り言ですわ」
そう言って、イリアは小さく頭を下げた。 その目は、ほんの少しだけ優しかった。
(……理由、って……何のことかしら)
私は首をかしげつつ、また一枚、紙を取り上げた。
(……もっと、この領のことを知りたい)
そう思った。 ただの押しつけられた妻としてではなく、この土地に生きる者のひとりとして。
◆
辺境伯様が最前線へ赴かれてから、数日が経った。
秋の空気は日に日に冷たく、窓の外では森の木々が乾いた音を立てて揺れている。
私はというと、ほとんど部屋にこもって本を読んでいた。
邸の書庫は小さいけれど、現在の記録に加えて、古い歴史書も驚くほど整然と並んでいる。
誰かが丁寧に手入れしてきたのだとわかる配置や、虫食いの跡に対処した紙の継ぎ当てに触れるたび、胸の奥が少し温かくなる。
(……この領に、もっと合う人になりたい)
そんな思いが、自然と湧く。
今読んでいるのは、古王国時代の北辺開拓の記録。
越冬の方法や、寒冷期の家畜の扱い、村落を維持するための分析――
どれも辺境伯家の現状と重なる部分が多く、読み進めるほどに視界が開ける気がした。
頭の中にある記録と照らし合わせ、自分なりに整理を進めていく。
何か目的があるわけではないけれど、そうして古い時代の人々と共に考えるつもりになるのは、私の趣味だった。
ページを繰っていると、扉を軽く叩く音がした。
「ルーチェ様、お茶をお持ちしました」
イリアの声だった。
彼女はいつもより少し柔らかな表情で、盆をそっと机に置いた。
「今日はよく集中されていましたね。……熱いのでお気をつけを」
「ありがとう。助かるわ」
イリアは微笑んだが、ふと何かを言いかけるように私を見た。
――この数日、邸では事故らしい事故は起きていない。
皿は割れず、天井材が落ちてくることもなく、誰も怪我をしなかった。
領内の不作を声高に、私のせいにする声も聞こえない。
それが、私にとってどれほどの救いか。
怖がられることも、露骨に避けられることもなく、ただ「一人の客人」として扱われる日々。
慣れないほど、穏やかだ。
それでも、胸の奥にひやりとした影は残る。
(……いつ、変わってしまうのかしら)
王都では、何をしても駄目だった。
私の意志と関係なく、不運は起こった。
それで「厄災の烙印」はやはり「厄災」なのだと言われた。
ここでまだ何も起きていないのは、ただの偶然かもしれない。
もしも「厄災」が私を中心に広がるのなら…… この地の人々にどれほど迷惑をかけることになるのだろう。
考えると、指先が冷たくなる。
イリアはそんな私の気配に気づいたのか、柔らかく言った。
「……皆、ルーチェ様に安心していますよ。いい意味で……普通の方、だと」
「普通……」
その言葉は、少し胸に沁みた。
“普通”であることが、こんなにも難しいと知ったのは十四の時。
けれど、いまはその言葉がひどく優しい。
イリアは続ける。
「旦那様がご不在で不安かもしれませんが……邸のことは皆で守れますから。どうか、ご自身の時間を大切に」
「ありがとう」
本当に、ありがとう。
そう言いかけて、私はうつむく。
言葉がうまく出てこなかった。
イリアが下がると、また静寂が戻った。
私は本を閉じ、火の落ちかけた暖炉を見つめる。
(……辺境伯様が戻るまでに、少しでも力になれることを探したい)
その思いは恐れよりも強い。
けれど同時に――未来の想像は、どうしても胸をすくませる。
もしも、ここで“厄災”が起きてしまったら。
もしも、彼らが私を避けはじめたら。
もしも、辺境伯様に見限られたら。
寒さとは別の震えが、背筋を走った。
それでも、ページを開く。
過去は、私を嫌わないから。
(……大丈夫。まだ、出来ることがある)
小さく息を整え、私はまた文を読み進めた。
まるで、何かに追いつこうとするように。
