厄災烙印の令嬢は貧乏辺境伯領に嫁がされるようです

 公爵邸を出発してから、私はほとんど休みなく移動を続けていた。

 王都から辺境伯領までは、休みなく移動しても一週間はかかる長い道のりだ。
 王都の外に出るのは、私にとって初めてだった。

 広がる畑の匂いも、深い森も、街道の起伏も、どれも見慣れない。
 倉庫に押し込まれていた日々を思うと、すべてが現実味のない風景に思えた。
 そんな中で、道中では馬が落ち着かず、御者の腕から何度も手綱が滑りかけた。

 寄った宿では釣瓶が外れて水が汲めなくなり、宿の主が困った顔をしていた。
 そのたびに御者は、こちらを窺うように一瞬だけ視線を寄こした。舌打ちが聞こえる。

 冷ややかな眼差しだった。
 私のせいだと言いたいのを、ぎりぎり仕事で抑えているような目だった。
「……出発します。乗ってください、ルーチェ様」
 声だけは丁寧だったが、どこまでも温度がなかった。

 必要最低限の言葉だけを投げ、道中の説明もほとんどしてくれなかった。
 それでも、私はその態度を咎める気になれなかった。

 公爵家で過ごしていた間、似た視線などいくらでも浴びてきた。
(……悪いことが起きるたび、やっぱりそう思われる)
 胸が重くなるのを感じながら、私は馬車に乗り込んだ。
 それでも、窓の外に流れていく景色は新鮮だった。

 王都の整えられた街並みとは違い、荒々しい自然が途切れなく続いていく。

 厄災を恐れて倉庫から出られなかった自分が、今こうして遠く離れた土地に向かっていることが、不思議で仕方なかった。
(それでも、外の世界は……思っていたよりずっと広いのね)
 不運が続くたびに御者の視線が突き刺さったが、それでも、その広い世界から目を逸らしたくはなかった。


 辺境伯領に近づくにつれ、馬車の外の景色は少しずつ姿を変えていった。

 きっと荒れた土地だろう、と私は当然のように思っていた。なにせ噂の「貧乏辺境伯」の領地だ。
 けれど実際に窓の外へ目を向けた時、胸の内に浮かんだのは驚きだった。
(……綺麗。こんなに整えられているなんて)
 道は広く固められており、馬車がほとんど揺れない。道端の草木は手入れが行き届いていた。

 農民たちは活力に満ちていて、ときおり馬車に気づいた子供たちが気さくに手を振る。
 その顔には疲弊ではなく、生活の手応えのようなものが見て取れた。
(貧しい領地……という噂だったけれど、少なくとも、人の心が荒れているようには見えないわ。魔獣の被害も大きいと聞いたのに。復興支援も打ち切られたと……それなのに)
 思わず呟きそうになり、口元を押さえた。

 
 やがて門扉の前に到着すると、私は早々に馬車から下ろされた。
 荷物を道に置いた御者は面倒そうに一礼して、すぐさま馬車を動かしてその場を去っていく。
「……」
 振り向くと、私は門を押した。
 鍵はかかっていない。恐る恐る数歩進むと、邸の扉から使用人らしき男が走ってきた。
 赤い髪が風に煽られて乱れている。
「シェリフォード家のご令嬢の……!」
「は、はい」
「ご同行の侍女や、従者の方は?」
「おりません。私だけで……」
「……」
 男は不可解そうに、まじまじと私を見た。

「……承知しました、ご案内します。荷物は私が持ちますから、どうぞこちらへ」
「すみません、ありがとうございます」
(詮索されなくてよかった)
 あるいは、「「厄災」なのだから当然だ」と思われたのかもしれない。
  
 邸に入ると、使用人たちがきちんと整列して私を迎えてくれた。

 人数は少ない。けれど皆、一様にきびきびとした所作で、粗末な衣装も古びた布も見当たらない。
「ルーチェ様、ようこそヴァルト辺境伯領へ」
 先ほどの、赤い髪の若い男の使用人が丁寧に頭を下げる。
 まさか出迎えてもらえるとは思っていなかったから、慌ててしまった。
「生憎、辺境伯様は出ておりまして」
 私は裾を持ち上げ、礼を返した。
「過分なお迎えを頂き、恐縮しております。辺境伯様におかれましてはお忙しいところ、手配を頂き申し訳ないとお伝えくださいませ」
「……承知しました」
 男は少々面食らった様子だった。周囲への振る舞い方からして執事らしいが、随分若い。私とそう変わらないように思える。
 よく見れば、辺境伯家の使用人は全体的に年齢が若いようだった。
(でも、思ったより……本当にずっと、ちゃんとしているわ)
 驚きはまだ消えない。けれどそれ以上に、胸の奥が温かくなるのを感じていた。

 誰も冷たい視線を向けてこない。厄災の烙印を押された私を、怯えるような眼差しで見つめる者もいない。
 ただ、彼らの眼差しは、確かめるように私の所作を捉えている。
(私の様子を……見ているのね。怖がられてもいないけれど、無闇に近づかれるわけでもない)
 その距離感は不思議と心地よかった。
「ルーチェ様の私室をご案内いたします」
 執事の言葉に従い、私は邸の奥へと歩みを進めた。

 廊下は石造りで簡素だが、磨かれていて清潔だ。

 古びてはいるものの、長く大切にされてきた空気が漂っていた。
(……どこも手入れが行き届いている。噂に聞いた、荒れた領地とは思えない……)
 
 そうして案内された私室を見た瞬間、思わず胸に手を当てた。
「まあ……」
 そこは質素ながら、とても美しい部屋だった。

 陽光が差し込む窓、柔らかな白布のベッド、傷はあるけれど丁寧に磨かれた机。
 色の少ない部屋なのに、こじんまりとして、どこか温かさがあった。

 公爵邸の「私室」と呼ばれる空間よりはずっと小さい。私が普通の令嬢だったら、狭さに驚いたのかもしれないけれど……私は寧ろ、広いと感じていた。
(私が……こんなに綺麗な部屋を使ってもいいの?)
 倉庫暮らしに慣れていたせいか、場違いなほど居心地が良すぎて戸惑ってしまう。
「侍女のイリアでございます。以後、お身の回りのお世話を務めます」
 背後から静かな声がした。
 振り返ると、短い黒髪をきっちりと切り揃えた女性が控えていた。
 私より、少し年下だろうか。小柄だが背筋がすっと伸びていて、言葉も所作もどこまでも整っている。
 
 びくっとして顔が青くなるのを感じる。
 公爵家で使用人たちにそうしていたように、慌てて一礼した。
「申し訳ありません……!いらっしゃるのに気づかず、無礼を致しました」
 イリアが不可解そうな表情を浮かべている。咄嗟に一歩距離を取り、イリアよりも更に深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしますが、どうかお許しくださいませ、イリア様」
 イリアは瞬きをし、すぐに姿勢を正した。
「……ルーチェ様。恐縮ですが、私への……使用人への敬語は、お控えくださいますよう」
「え……?」
「カイネは、……いえ、先ほど執事からは、何も申し上げなかったのですか?……全く。後で叱っておかなくては……」
 丁寧に、しかし実務的に告げられたその言葉に、私は思わずきょとんとしてしまった。
 「厄災」を世話してくれる、そんな辛い仕事を背負わされるというのに。
 その「厄災」に上から物を言われるなんて、と使用人に憤慨されたこともあったのに。
 
「こちらでは……そういう決まりなのでしょうか……?私はその、貴女方にご迷惑をおかけする側ですから……」
「決まりというより……」
 イリアは少し、言い澱んだ。
「ルーチェ様は旦那様の……ダリウス・ヴァルト辺境伯様の奥様になられる方でございますから。当然です。迷惑など。それは我々の……仕事でございます」
 その言葉に、胸がじん、と温かくなる。
 イリアはさらに続けた。
「どうか、私には気軽にお声がけくださいませ。私は侍女として当然の務めを果たすだけです」
 軽く頭を下げている。
 その動作は淀みがなく、必要以上に感情をにじませない。けれど、どこかやわらかい雰囲気があった。
「どうしても、お言葉遣いを改めるのが難しいのであれば、形式より過ごしやすさを優先いたしますが……」
 まっすぐで、押しつけのないその言葉が、とても心地よかった。
「……わかったわ、イリア。じゃあ、これからは普通に話しま……話す、わ」
「はい。そのほうが助かります、ルーチェ様」
 イリアの口元が、ごくわずかに柔らかくなったように見えた。
(……優しい人なのね)
 丁寧すぎず、馴れ馴れしくもなく、必要な線をくっきり守る態度。

 その距離感が、私には何より救いだった。

 イリアが出て行った後、私はベッドの端に腰を下ろし、深く息をついた。
(……本当に、貧しい領地なのかしら)
 確かに、豪奢と呼べる要素はない。 
 けれど、どこもかしこも“丁寧に扱われてきた痕跡”があった。
 物があふれて贅沢に満ちているわけではないけれど、“貧乏辺境伯”の領地という呼び名が相応しいとは思えなかった。
 ベッドの白布は滑らかではない。けれど、角がぴしりと折られ、糸のほつれをきれいに繕った跡がある。縫い目の細かさは、慣れた手つきの証拠だ。
 机にそっと触れれば、古い木目の間に薄く蝋が塗られている。

 王都の家具が“磨きをかけた輝き”を誇るのだとすれば、ここにあるのは“使い続けるための手入れ”だった。
(人の手が、ずっと加わって、大切にされてきたもの……)
 物を大事にする文化がある。いや、それ以上に――この部屋を、次に使う誰かのことを考えている心遣い。貧しくとも品位を保とうとする強さ。
 窓辺のカーテンに目を向ければ、これもまた色あせているが、つぎ当てが見事に溶け込んでいた。

 ほとんど気づけないほど、布の目を合わせて縫われている。
(王都の誰かが見たら“貧しい”の一言でしょうけれど……)
 私はそっとカーテンの端に触れた。
(私には……とても、尊いものに見える)
 贅沢ではない。でも、与えられたものを大切にしようとする気持ちが宿っている。

 その営みの静かな強さに、私は胸をうたれた。
 ふと机の上に置かれた小さな陶器の花瓶が目に入る。
 白い小花が二、三輪だけ生けてあった。
 華やかではない。
 けれど、部屋を整え、客を迎えるために置かれた花。
(……私を迎え入れようと、してくれているんだわ)
 思わず指先が震えた。
 厄災の令嬢が来るというのに、この部屋には怯えも避ける気配もなかった。

 窓の外を見れば、丁寧に整備された中庭と、城を行き交う使用人たちの無駄のない動き。

 貧しさの中にあるはずの荒れ果てた空気は、ここにはない。

 むしろ、限られたものを丁寧に使い、無駄を出さず、誰かが必死に維持している痕跡がある。
 机にそっと手を置く。
 古い木目の凹みに指が触れた。
(この土地を領じていらっしゃる辺境伯様……どのような方なのかしら)

 厄災の令嬢を受け入れた。

 この十年、誰も近づこうとしなかった私を。
 窓の外に視線を向けたまま、無意識に胸の前で手を組んだ。
(どうか……迷惑だけは、かけませんように)