翌日から、如月蓮は一度も病室に現れなかった。
「今日から担当させていただきます、佐藤です。よろしくお願いしますね、成瀬さん」
新しく担当になったのは、物腰の柔らかい、初老の医師だった。
彼は蓮とは正反対で、常に穏やかに微笑み、柚の言うことを「そうだね」「大変だったね」とすべて肯定してくれた。
病室の鍵も、もうかけられていない。
病院内なら、どこへ行くのも自由だと言われた。
あれほど望んでいた「普通の患者」としての扱い。
けれど、佐藤先生は、柚が夜中に少しだけ呼吸を乱したことには気づかなかった。
「数値は正常だね」とモニターだけを見て、柚の瞳の奥にある怯えには気づかずに診察室を出ていく。
(……なんなの、これ)
自由になったはずなのに。
廊下を歩いても、誰にも「どこへ行く、座れ」と命令されない。
それが、たまらなく心細かった。
一週間が過ぎた頃、柚はナースステーションの近くで、看護師たちが小声で話しているのを耳にした。
「如月先生、最近どうしたのかしら。救急の当直、全部引き受けて……昨夜も仮眠室で倒れるように寝てたわよ」
「担当してた成瀬さんのこと、すごく気にしてたみたいだけど。……急に担当外れたわよね。何かあったのかな」
柚の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
あんなに強引で、完璧主義で、冷徹だったあの男が。
自分の一言で、そんなにもボロボロになっている。
「……勝手だよ、先生」
柚は、人気のない非常階段の踊り場に座り込んだ。
自分をあんなに追い詰めたくせに、拒絶されたからといって、そんな風に遠くから自分を削るような真似をするなんて。
その時、一階から階段を上がってくる、聞き慣れた、けれどどこか重い足音が聞こえた。
柚は咄嗟に身を隠そうとしたが、足は動かなかった。
現れたのは、如月蓮だった。
白衣の裾が乱れ、目の下には深い隈がある。いつも整えられていた髪も少し乱れていた。
彼は柚の存在に気づくと、ハッとしたように足を止めた。
以前なら、すぐに「何をしている、部屋に戻れ」と怒鳴ったはずだ。
けれど今の彼は、柚と視線が合うと、弾かれたように視線を逸らした。
「……すまない。ここを通るつもりはなかった」
掠れた声。
彼は柚の横を通り過ぎようと、壁際に身を寄せた。
まるで、汚いものから避けるような、あるいは自分が彼女を汚さないように守るような、そんな距離の取り方。
「……先生」
柚の呼びかけに、蓮の背中がびくりと震えた。
「……佐藤先生、いい先生だよ。優しくて、何でも言うこと聞いてくれる」
「……そうか。なら、よかった」
蓮は一度も振り返らない。
その声は、どこまでも冷たく、そして泣きたくなるほど寂しそうだった。
「……でも、チョコはくれない」
柚の小さな、震えるような独り言。
蓮が、初めてゆっくりと振り返った。
「今日から担当させていただきます、佐藤です。よろしくお願いしますね、成瀬さん」
新しく担当になったのは、物腰の柔らかい、初老の医師だった。
彼は蓮とは正反対で、常に穏やかに微笑み、柚の言うことを「そうだね」「大変だったね」とすべて肯定してくれた。
病室の鍵も、もうかけられていない。
病院内なら、どこへ行くのも自由だと言われた。
あれほど望んでいた「普通の患者」としての扱い。
けれど、佐藤先生は、柚が夜中に少しだけ呼吸を乱したことには気づかなかった。
「数値は正常だね」とモニターだけを見て、柚の瞳の奥にある怯えには気づかずに診察室を出ていく。
(……なんなの、これ)
自由になったはずなのに。
廊下を歩いても、誰にも「どこへ行く、座れ」と命令されない。
それが、たまらなく心細かった。
一週間が過ぎた頃、柚はナースステーションの近くで、看護師たちが小声で話しているのを耳にした。
「如月先生、最近どうしたのかしら。救急の当直、全部引き受けて……昨夜も仮眠室で倒れるように寝てたわよ」
「担当してた成瀬さんのこと、すごく気にしてたみたいだけど。……急に担当外れたわよね。何かあったのかな」
柚の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
あんなに強引で、完璧主義で、冷徹だったあの男が。
自分の一言で、そんなにもボロボロになっている。
「……勝手だよ、先生」
柚は、人気のない非常階段の踊り場に座り込んだ。
自分をあんなに追い詰めたくせに、拒絶されたからといって、そんな風に遠くから自分を削るような真似をするなんて。
その時、一階から階段を上がってくる、聞き慣れた、けれどどこか重い足音が聞こえた。
柚は咄嗟に身を隠そうとしたが、足は動かなかった。
現れたのは、如月蓮だった。
白衣の裾が乱れ、目の下には深い隈がある。いつも整えられていた髪も少し乱れていた。
彼は柚の存在に気づくと、ハッとしたように足を止めた。
以前なら、すぐに「何をしている、部屋に戻れ」と怒鳴ったはずだ。
けれど今の彼は、柚と視線が合うと、弾かれたように視線を逸らした。
「……すまない。ここを通るつもりはなかった」
掠れた声。
彼は柚の横を通り過ぎようと、壁際に身を寄せた。
まるで、汚いものから避けるような、あるいは自分が彼女を汚さないように守るような、そんな距離の取り方。
「……先生」
柚の呼びかけに、蓮の背中がびくりと震えた。
「……佐藤先生、いい先生だよ。優しくて、何でも言うこと聞いてくれる」
「……そうか。なら、よかった」
蓮は一度も振り返らない。
その声は、どこまでも冷たく、そして泣きたくなるほど寂しそうだった。
「……でも、チョコはくれない」
柚の小さな、震えるような独り言。
蓮が、初めてゆっくりと振り返った。
