その夜、病室の空気は冷たく澄んでいた。
施錠されたドアの向こう側からは、時折、看護師の足音や微かな機械音が聞こえてくる。
(……は、ぁっ、……っく……)
午前二時。柚は布団の中で、激しく震えていた。
肺の奥を鋭い針で掻き乱されるような感覚。
酸素が気管を通らず、喉の奥で「ヒュー、ヒュー」と高い音が鳴り始めている。
ナースコールを押せばいい。
そうすれば、すぐに誰かが来てくれる。
けれど、柚の指はボタンに触れることができなかった。
今、助けを呼べば、あの男が来る。
「だから言っただろう」と冷たい声で罵られ、また「無力な子供」として支配されるのが、何よりも怖かった。
(……我慢、しなきゃ。……朝になれば、治る……)
柚は枕を口に押し当て、漏れ出す喘鳴を必死に殺した。
全身から冷や汗が吹き出し、指先が痺れていく。
意識が遠のくたびに、蓮のあの鋭い瞳が脳裏をかすめた。
「死ぬのが怖くないのか」
あの時言われた言葉が、呪いのように胸を叩く。
結局、一睡もできないまま、窓の外が白み始めた。
夜通しの戦いで体力は底をつき、柚は青白い顔でベッドに横たわっていた。
呼吸はまだ浅いが、なんとか山は越えた……そう自分に言い聞かせた。
数時間後。
聞き慣れた、規則正しい足音が廊下に響く。
ドアの鍵が開く乾いた音。
「……おはよう。体調はどうだ」
蓮が診察室に入ってきた。
白衣の胸元には聴診器が覗いている。
柚は努めて平然を装い、視線を窓の外へ向けた。
「……別に。普通です」
「そうか。顔色が悪いな。採血の準備をさせる」
蓮は淡々と指示を出しながら、ベッドの横に立った。
柚は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねるのを感じた。
バレてはいけない。
もしバレたら、また自由が遠のく。
「……手を。脈を測る」
蓮が柚の手首を掴んだ。
その瞬間、彼の動きが止まる。
柚の手は、冷たく湿り、わずかに震えていた。
「………………」
蓮の瞳が、一瞬で温度を失った。
彼は何も言わず、柚の胸元に無理やり聴診器を滑り込ませた。
「やめて、……っ、……なんともないって……!」
「黙れ。……この肺の音を聴いて『なんともない』だと?」
蓮の声は、怒りというよりも、深い失望に似た響きを持っていた。
聴診器を通して伝わるのは、嵐のあとのような荒い呼吸の残響。
「昨夜、何時だ。……何時に発作が起きた」
「……しらない。……忘れた」
「柚!!」
蓮が声を荒らげ、柚の肩を強く掴んだ。
その瞳には、今まで隠していた剥き出しの恐怖が混じっている。
「なぜ呼ばなかった! すぐそこに看護師がいたはずだ。俺の直通番号も持っているだろう! ……お前は、俺に助けられるのが、そこまで死ぬより嫌なのか!」
「……そうよ! 先生に助けられるたびに、私がどれだけ惨めな気持ちになるか、わかってるの!?」
柚の叫びが、無機質な病室に響き渡った。
呼吸が追いつかず、肩を激しく上下させながら、柚は涙で滲む目で蓮を睨みつける。
「先生は、私を助けて満足かもしれないけど……! 私にとっては、施設が病院に変わっただけ! 私は、一人で息をすることさえ許されないの……!?」
「柚、落ち着け。今は喋るな……」
蓮が宥めるように手を伸ばすが、柚はその手を強く振り払った。
「触らないで! ……先生なんて、大嫌い……っ!」
その言葉が、蓮の動きを完全に止めた。
氷のように冷徹だった彼の瞳が、見たこともないほど激しく揺れ、深い絶望の色に染まる。
「……あ、……っ、……げほっ、……はぁ、……っ!!」
感情の高ぶりに引きずられるように、抑え込んでいた発作が再燃した。
柚の顔から一気に血の気が引き、唇が紫に変わっていく。
今度は枕で隠すことすらできない、肺が悲鳴を上げるような凄まじい喘鳴が室内に響いた。
「柚……! すまない、俺が悪かった。もう喋らなくていい、力を抜け」
蓮の顔は、もはや「冷静な医師」ではなかった。
彼は震える手で柚の体を支え、緊急用の吸入マスクを彼女の口元に押し当てる。
「嫌だ……、……はな、して……っ」
「……頼む、柚。俺を殺してもいい。後でいくらでも恨んでくれ。……だから今は、俺に助けさせてくれ。頼む……!」
蓮の声は、掠れ、泣いているようにも聞こえた。
その必死な響きに、柚の意識は遠のきながらも、どこか深い部分で衝撃を受けていた。
あの傲慢で、支配的だった男が、自分に対して「頼む」と、膝をつくような思いで乞うている。
処置が進み、薬剤が肺に回ると、激しい発作はようやく沈静化していった。
泥のような疲労感の中で、柚がうっすらと目を開けると、ベッドの脇で顔を覆って立ち尽くす蓮の姿があった。
「……柚」
蓮が、消え入りそうな声で呼んだ。
彼は一度も柚と目を合わせようとせず、床を見つめたまま、絞り出すように言葉を繋いだ。
「……お前の言う通りだ。俺がやっていたことは、あの施設と同じ……自分のエゴを押し付けていただけだった。お前が俺を嫌うのは、当然だ」
蓮は深く、長く、息を吐いた。
「……担当を降りる。お前の治療は、別の信頼できる医師に引き継ぐ。……今後、許可なく俺がお前の前に現れることはない」
「え……?」
「お前を苦しめていたのは、病気ではなく、俺だったんだな。……本当に、すまなかった」
蓮はそう言い残すと、一度も振り返ることなく病室を出て行った。
パタン、と静かに閉まったドア。
いつもならかかるはずの、あの「施錠の音」は聞こえなかった。
残されたのは、本当の意味で自由になったはずの、静かすぎる部屋。
柚は、蓮に掴まれていた肩に残る、微かな熱をじっと見つめていた。
自分を縛っていた鎖が解けたはずなのに、なぜか、心にぽっかりと穴が開いたような、耐え難い寒さを感じていた。
施錠されたドアの向こう側からは、時折、看護師の足音や微かな機械音が聞こえてくる。
(……は、ぁっ、……っく……)
午前二時。柚は布団の中で、激しく震えていた。
肺の奥を鋭い針で掻き乱されるような感覚。
酸素が気管を通らず、喉の奥で「ヒュー、ヒュー」と高い音が鳴り始めている。
ナースコールを押せばいい。
そうすれば、すぐに誰かが来てくれる。
けれど、柚の指はボタンに触れることができなかった。
今、助けを呼べば、あの男が来る。
「だから言っただろう」と冷たい声で罵られ、また「無力な子供」として支配されるのが、何よりも怖かった。
(……我慢、しなきゃ。……朝になれば、治る……)
柚は枕を口に押し当て、漏れ出す喘鳴を必死に殺した。
全身から冷や汗が吹き出し、指先が痺れていく。
意識が遠のくたびに、蓮のあの鋭い瞳が脳裏をかすめた。
「死ぬのが怖くないのか」
あの時言われた言葉が、呪いのように胸を叩く。
結局、一睡もできないまま、窓の外が白み始めた。
夜通しの戦いで体力は底をつき、柚は青白い顔でベッドに横たわっていた。
呼吸はまだ浅いが、なんとか山は越えた……そう自分に言い聞かせた。
数時間後。
聞き慣れた、規則正しい足音が廊下に響く。
ドアの鍵が開く乾いた音。
「……おはよう。体調はどうだ」
蓮が診察室に入ってきた。
白衣の胸元には聴診器が覗いている。
柚は努めて平然を装い、視線を窓の外へ向けた。
「……別に。普通です」
「そうか。顔色が悪いな。採血の準備をさせる」
蓮は淡々と指示を出しながら、ベッドの横に立った。
柚は心臓が口から飛び出しそうなほど跳ねるのを感じた。
バレてはいけない。
もしバレたら、また自由が遠のく。
「……手を。脈を測る」
蓮が柚の手首を掴んだ。
その瞬間、彼の動きが止まる。
柚の手は、冷たく湿り、わずかに震えていた。
「………………」
蓮の瞳が、一瞬で温度を失った。
彼は何も言わず、柚の胸元に無理やり聴診器を滑り込ませた。
「やめて、……っ、……なんともないって……!」
「黙れ。……この肺の音を聴いて『なんともない』だと?」
蓮の声は、怒りというよりも、深い失望に似た響きを持っていた。
聴診器を通して伝わるのは、嵐のあとのような荒い呼吸の残響。
「昨夜、何時だ。……何時に発作が起きた」
「……しらない。……忘れた」
「柚!!」
蓮が声を荒らげ、柚の肩を強く掴んだ。
その瞳には、今まで隠していた剥き出しの恐怖が混じっている。
「なぜ呼ばなかった! すぐそこに看護師がいたはずだ。俺の直通番号も持っているだろう! ……お前は、俺に助けられるのが、そこまで死ぬより嫌なのか!」
「……そうよ! 先生に助けられるたびに、私がどれだけ惨めな気持ちになるか、わかってるの!?」
柚の叫びが、無機質な病室に響き渡った。
呼吸が追いつかず、肩を激しく上下させながら、柚は涙で滲む目で蓮を睨みつける。
「先生は、私を助けて満足かもしれないけど……! 私にとっては、施設が病院に変わっただけ! 私は、一人で息をすることさえ許されないの……!?」
「柚、落ち着け。今は喋るな……」
蓮が宥めるように手を伸ばすが、柚はその手を強く振り払った。
「触らないで! ……先生なんて、大嫌い……っ!」
その言葉が、蓮の動きを完全に止めた。
氷のように冷徹だった彼の瞳が、見たこともないほど激しく揺れ、深い絶望の色に染まる。
「……あ、……っ、……げほっ、……はぁ、……っ!!」
感情の高ぶりに引きずられるように、抑え込んでいた発作が再燃した。
柚の顔から一気に血の気が引き、唇が紫に変わっていく。
今度は枕で隠すことすらできない、肺が悲鳴を上げるような凄まじい喘鳴が室内に響いた。
「柚……! すまない、俺が悪かった。もう喋らなくていい、力を抜け」
蓮の顔は、もはや「冷静な医師」ではなかった。
彼は震える手で柚の体を支え、緊急用の吸入マスクを彼女の口元に押し当てる。
「嫌だ……、……はな、して……っ」
「……頼む、柚。俺を殺してもいい。後でいくらでも恨んでくれ。……だから今は、俺に助けさせてくれ。頼む……!」
蓮の声は、掠れ、泣いているようにも聞こえた。
その必死な響きに、柚の意識は遠のきながらも、どこか深い部分で衝撃を受けていた。
あの傲慢で、支配的だった男が、自分に対して「頼む」と、膝をつくような思いで乞うている。
処置が進み、薬剤が肺に回ると、激しい発作はようやく沈静化していった。
泥のような疲労感の中で、柚がうっすらと目を開けると、ベッドの脇で顔を覆って立ち尽くす蓮の姿があった。
「……柚」
蓮が、消え入りそうな声で呼んだ。
彼は一度も柚と目を合わせようとせず、床を見つめたまま、絞り出すように言葉を繋いだ。
「……お前の言う通りだ。俺がやっていたことは、あの施設と同じ……自分のエゴを押し付けていただけだった。お前が俺を嫌うのは、当然だ」
蓮は深く、長く、息を吐いた。
「……担当を降りる。お前の治療は、別の信頼できる医師に引き継ぐ。……今後、許可なく俺がお前の前に現れることはない」
「え……?」
「お前を苦しめていたのは、病気ではなく、俺だったんだな。……本当に、すまなかった」
蓮はそう言い残すと、一度も振り返ることなく病室を出て行った。
パタン、と静かに閉まったドア。
いつもならかかるはずの、あの「施錠の音」は聞こえなかった。
残されたのは、本当の意味で自由になったはずの、静かすぎる部屋。
柚は、蓮に掴まれていた肩に残る、微かな熱をじっと見つめていた。
自分を縛っていた鎖が解けたはずなのに、なぜか、心にぽっかりと穴が開いたような、耐え難い寒さを感じていた。
