君が、となりにいるだけで


目が覚めてから数日。

柚の体調は安定し始めていたが、それと反比例するように、心の中の焦燥感は膨らむ一方だった。

「……あいつらはもう来ないと言ったはずだ。なぜそうやって怯える」

昼下がりの回診。

蓮がカルテをめくりながら、淡々と、けれど威圧的に告げる。

柚はベッドの上で膝を抱え、彼と視線を合わせようとしなかった。

「……信じられません。先生が何を言っても、私はあの施設に戻らなきゃいけない。そうしないと、もっと酷い目に遭うから」

「俺が許さないと言っている」

「……先生がずっとそばにいてくれるわけじゃない。……怖いんです。先生が、何を考えて私を助けるのか。……どうして、そんなに私を『管理』したがるの?」

「管理」という言葉に、蓮の指先がピクリと止まった。

彼はゆっくりと顔を上げ、氷のような瞳で柚を射抜く。

「……お前が一人では生きていけない体だからだ。医者として、放っておけるはずがないだろう」

その言葉は正論だったが、柚には「お前は無力だ」と宣告されたように聞こえた。

結局、この人も同じだ。

自分の意思を無視して、自分の都合の良いように私を扱おうとしている。

その日の夕方。

蓮が緊急の手術で病棟を離れたという話を、看護師たちの会話から耳にした。

(今なら、逃げられる……)

柚は点滴の針を、震える手で自ら引き抜いた。

鋭い痛みが走り、甲から血が滲む。

けれど、それ以上に「ここから出なければ」という強迫観念が彼女を突き動かしていた。

備え付けのクローゼットにあった、汚れと血のついたままの学校の制服に着替える。

ふらつく足取りで、ナースステーションの死角を突き、非常階段へと向かった。

外は、冷たい雨が降り始めていた。

「はぁ、……っ、……はぁ……」

病院の敷地を出た瞬間、冷気が肺を刺し、喉の奥がヒュウと鳴った。

吸入器は、あの夜に捨てられたままだ。

今の自分には、雨露を凌ぐ場所も、守ってくれる薬も何もない。

(どこへ行けばいいの……?)

施設に戻れば殺される。

病院にいれば、あの男に支配される。

柚は土砂降りの中、当てもなく歩き続けた。

視界がぼやけ、街の灯りが歪んで見える。

その時、背後で急ブレーキの音が響いた。

激しくドアが閉まる音。そして、雨音を切り裂くような、怒号に近い声。

「……成瀬!!」

振り返る間もなかった。

大きな手に肩を掴まれ、強引に引き寄せられる。

そこには、手術着の上にコートを羽織っただけの、ずぶ濡れの蓮が立っていた。

その顔は怒りで引き攣り、肩は激しく上下している。

「……死ぬ気か! 自分の状態が分かっていないのか!」

「放して……! どこへ行こうと、私の勝手でしょ……!」

「勝手なものか! お前の命は、もうお前だけのものじゃないんだ!」

蓮の声が、雨の音に混じって悲痛に響く。

彼は柚を抱きしめるのではなく、逃がさないようにその両腕を鉄の万力のような力で掴んだ。

「……先生には関係ない。……私のこと、放っておいてよ……!」

「……断る。……たとえ嫌われようと、俺はお前をあの地獄には戻さない。……来い」

蓮は抵抗する柚を半ば抱え上げるようにして、車へと押し込んだ。

温かな車内。

けれど、柚にとってはそれすらも、逃げ場のない檻の続きにしか思えなかった。

隣に座る蓮からは、今まで見たこともないような、剥き出しの「焦燥」と「執着」が混ざった匂いがした。

彼はハンドルを握る拳を白くなるほど固め、前を見据えたまま一度も口を開かなかった。