君が、となりにいるだけで

職員が去り、外から鍵をかけられた暗闇の部屋で、柚は冷たい床に這いつくばっていた。

散らばった荷物の中に、先生の名刺がある。

スマートフォンの画面を点灯させれば、その番号がすぐそこにあることは分かっている。

(……かけられない)

助けて、なんて言えるはずがない。

あんなに厳しく「命を粗末にするな」と言った彼に、吸入器を奪われたなんて知られたら、どんなに冷たい言葉で罵られるだろう。

それに、もし彼が助けに来てくれなかったら? その絶望に、今の柚は耐えられそうになかった。

「……は、ぁっ、……っ、ごほっ……!」

発作が、容赦なく肺を締め付ける。

薬はない。

窓の外に捨てられた吸入器を取りに行くこともできない。

柚は、蓮の名刺をぎゅっと握りしめたまま、意識を遠のかせていった。
 
(ごめんなさい……如月先生……。私、やっぱり、だめでした……)

翌朝。

部屋の異変に気づいたのは、別の職員だった。

真っ青な顔で倒れ、呼吸もままならない柚を見て、施設内は騒然となる。

しかし、虐待の発覚を恐れる施設側は、救急車を呼ぶのを躊躇った。

「……とりあえず、いつもの病院へ連れて行け。学校医には、家で倒れていたと言い訳しろ」

無理やり車に押し込まれ、柚が運び込まれたのは、あの大病院だった。

運ばれた先は、一般の診察室ではない。

救急外来の処置室だ。

「16歳女性、意識混濁、高度の喘鳴です!」

搬送してきた職員の支離滅裂な説明を、鋭く遮る声があった。

「……どけ」

処置室のカーテンを乱暴に開け、現れたのは、非番のはずの蓮だった。

彼はたまたま病院に残っていたのか、あるいは、何かを予感していたのか。

運び込まれた柚の姿を見た瞬間、蓮の顔から、すべての血の気が引いた。

しかし、その直後、彼の瞳に宿ったのは、見たこともないほど暗く、冷たい、殺意に近い怒りだった。

「……如月先生、彼女は家で急に……」

職員の言い訳を、蓮は一瞥もせずに切り捨てた。

「黙れ。……この状態を『急に』で済ませるつもりか。……お前たちの処遇は後だ。今はこの子の命を優先する」

蓮の手は、柚の喉元に酸素マスクを当てる際、微かに震えていた。

だが、その処置は驚くほど迅速で、正確だった。

「成瀬。……柚。聞こえるか。……勝手に死ぬことは許さんと言ったはずだ」

蓮は、意識を失った柚の耳元で、呪いのように、あるいは祈りのように低く囁いた。

その時、柚が握りしめていた手が、わずかに開いた。

掌からこぼれ落ちたのは、くしゃくしゃになった蓮の名刺。

それを見た蓮は、奥歯を噛み締め、彼女の冷え切った手を自分の両手で包み込んだ。

「……すまない。……もっと早く、強引にでも引き離しておくべきだった」

柚の意識が戻った時、そこはもう施設のあの冷たい部屋ではない。

白いカーテンと、規則的な機械音。

そして、自分の手を骨が軋むほど強く握りしめる、あの「怖い先生」の姿があった。

目が覚めたとき、柚は自分が生きていることが信じられなかった。

喉の痛みは消え、代わりに柔らかな酸素の温もりが鼻をくすぐっている。

「……気がついたか」

聞き慣れた、低く冷ややかな声。

視線を動かすと、ベッドの傍らにパイプ椅子を置き、書類に目を通している蓮がいた。

白衣を脱ぎ、黒いシャツの袖を捲り上げた彼の姿は、病院の風景から浮いて見えるほど生々しく「男」を感じさせた。

「……せん、せ……」

「喋るな。まだ肺に負担がかかっている」

蓮は書類を置くと、コップに差したストローを柚の唇に寄せた。

拒む気力もなく水を一口飲むと、乾ききった喉に熱が戻ってくる。

「……施設の人、は……」

柚の問いに、蓮の眉間がわずかに動いた。

「二度と、お前の前には現れない。……俺がそうさせた。……お前はこれから、この病院の特別病棟で療養する。許可のない面会は一切禁じた」

「……でも、私、お金も……それに、施設に戻らないと、怒られる……っ」

恐怖で呼吸が乱れそうになった柚の肩を、蓮の大きな手が抑えた。

以前のような強引さはない。

ただ、重く、確かな体温。

「……言ったはずだ。あいつらには二度と会わせない。……費用のことも、これからの生活のことも、お前が考える必要はない。……今は、ただ呼吸をすることだけを考えろ」

蓮の瞳は、相変わらず鋭く、何を考えているか分からない。

柚にとって、彼は自分を救ってくれた恩人であると同時に、「自分の意志を無視して、強引に環境を変えてしまった支配者」のようにも見えた。

(……なんで。どうして、私なんかに、そこまで……?)

その日から、不思議な生活が始まった。

蓮は忙しい職務の合間を縫って、一日に何度も柚の病室を訪れた。

何かを熱心に話しかけるわけではない。

ただ、黙ってバイタルを確認し、柚が眠るまでそばで書類仕事をしている。

ある夜。

寝たふりをしていた柚は、蓮が自分の布団を直す気配を感じた。

その指先が、ほんの一瞬だけ、柚の頬に触れた。

驚くほど優しく、壊れ物を慈しむような手つき。

「……すまない、柚」

消え入るような声で、彼はそう呟いた。

普段の傲慢な彼からは想像もできない、震えるような声。

柚は目を開けることができなかった。

怖い。

この人のことが、まだ、どうしようもなく怖い。

けれど、握りしめていた名刺を彼が見つけたあの時から、二人の間には、言葉にできない「重い鎖」が繋がれてしまったような気がしていた。